2009年7月22日水曜日

劇的な日常

朝のテレビ番組では、山口での土砂崩れ災害と日食のニュースがひっきりなしに流れています。どちらも、自然現象が起因して起きる(起きてしまった)出来事です。

このようなニュースが流れるたびに、自然の脅威と不思議さをあらためて感じ、人の日常の営みが、表面的にはあまり劇的ではないことに気付かされます。

それほど遠くない昔、人々はもっと自然と密接な関係の中で、生活してきていたはずです。第一次産業が主産業であった頃は、その年の気象に経済も大きな影響を受け、現在の天気予報とは違った気象の変化を身近に感じ、それぞれが生活に取り入れてきました。

しかし、その中の多くは、お天道様には逆らえないという言葉があるように、受容せざるを得ないものとして捉えてきたように思います。まさに、厄災が頭の上を通り過ぎるのを、じっと身を縮めて静かに過ごす、というようにです。

それが、いわゆる自然と共に生きる上でのすべでもあったわけです。そうやって、自然と折り合いをつけながら、人自身も自然の一部としてあったように思います。

経済が発達するにつれ、物質的な欲求に到達することを良しとし、その為に様々な行動がとられます。流通、情報伝達、様々な工業製品といった、利便性を追求するものが次々と現れては、より便利なものへ置き換わってきました。そして、そのほとんどは人の豊かな生活を第一に考えたものです。

このことは決して悪いことではありません。やはり、豊かな暮らしが幸せに直結していることは、まぎれもない事実ですから。そうした安穏な暮らしや、一定レベル水準での生活を目指して、ほとんどの人は頑張っていると思うわけです。だから、そこには大きな変化や劇的な動きは必要ないとも言えますし、自然を経済全般まで含めた大きなものとして捉えると、現在でもやはり人は自然の一部にしかすぎないのかなとも思います。

だからといって、人は昔のようにもっと自然回帰しなければいけないと言っているわけではありません。人が築き上げてきた文化は多くの恩恵を自身に与えて続けているからです。


今重要なのは、大雑把に言ってしまうと、バランスですかね。

それは全体としてのと言うことではなく、より個人的なもの(精神的な豊かさ)において意味をなしてくるような気がします。

自然と物質的文化との共存を個人レベルまでに落とし込んだ場合、外的な変化は無いように見えても、その実、内的には劇的な変化を起こす可能性は充分にあります。


そういった状況においては、一見何事もなく進んでいく日常も、実は目に見えない領域では、常に劇的であるのかもしれません。

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