2009年7月24日金曜日

“おもう”

“おもう”

日本語にはいろいろな”おもう”があります。

思う、想う、念う、憶う・・・。

普段よく使うのは、最初の2つですね。でも、その使い分けって明確になっていない場合がよくあります。

僕の場合、判断が伴う時は”思う”、感情が絡む時は”想う”と使っていますが、これが名詞になると、役割といったものが顕著に表れてきます。

“思い”と”想い”

“思い”には考えた上での意思のようなものが感じられます。一方、”想い”には決して押し付けではない希望や期待が込められているように感じます。

どうして、こんなことを書いているかというと、昨日、思いがけないメールが一通届いたからです。

そして、これから書くことは、ごくごく個人的なメッセージです。だから、何を言っているのか理解できないと思いますが、どうか許してください。


そのメールは僕がいつも想い続けていた人からのものでした。

その人はいまも大きな波の中で苦しんでいます。自分自身に繰り返し打ち寄せて来る波を、体全身で必死に受け止めているのです。

今は、自分ではどうにもならない現実、もどかしい日々、耐えがたいまでの孤立感を抱えながらじっと厄災が過ぎるのを待っている時なのだと思います。

しかし、幸いなことに、その人は一人ではありません。いつの時も、大きな愛で見守ってくれている人がそばにいます。

僕は実際見ることが出来ないその人を思い浮かべながら、いつか自分と世界との拠りどころを見つけてくれればと想っていました。そして僕が唯一出来ることといえば、そう、ただ想うことだけです。

その想いは、これからも止むことはないと思います。

でも、重荷とは思わないで下さい。想うのは僕の一方的な思いなのだから。


今はひどく荒れた海の中であっても、いつの間にか風向きが変わるかもしれません。
ゆったりとした穏やかな波が体を包み、陽光に煌く大きな海原が目の前に広がっていても不思議なことではありません。

それは、とてもあっけないほど自然に訪れるかもしれないから・・・。

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