2009年7月26日日曜日

戯曲の楽しみ


今日は久々にお芝居のことを書きます。と言っても、戯曲についてです。

上の画像は、小学館から年4回出版されている”せりふの時代”という季刊誌です。
日本劇作家協会のメンバーである井上ひさし、川村毅、坂手洋二(敬称略)ら8名が編集委員として名を連ねています。毎号3点ほどの戯曲やその他演劇情報が掲載されています。

多くの方は、戯曲を読む機会はあまりないと思います。小説と違い、基本的にせりふにより物語が進行し、その状況は大まかなト書きとして説明されている場合が多いので、とっつきにくいのと、ほとんどの戯曲は文章として出版されることが少なく、書店でも平積みされることがないから、眼にも止まりません。

芝居は生で観る物ですが、戯曲として読むと違った印象を受けます。特に、芝居を観る前に戯曲を読み、それから実際の芝居を観ると、まるで違うもののように感じる場合があります。

戯曲を読むということは、舞台美術や場面、場面で使用される音響効果、役者の演技が見えないわけですから、すべて自分の頭の中の作業になります。おのずと、いくつかの部分は描かれる内容に解釈の違いが生まれるわけです。

このことは、シェークスピアの同じ演目が、400年以上もいろいろな演出家や劇団で上演されていることでも分ります。つまり、ある程度の決めごとはあっても、演出や発想や演技の方法などによって、芝居はいかようにでも変わるということです。

又、このことは上演期間中の1日、1日でも、まるで変わってしまう可能性を意味しています。
実際、上演初日と最終日がまるっきり違う芝居になっていることは、よくあることです。僕が2007年暮、世田谷、シアタートラムで観たカフカの”審判”は、2時間半の上演時間でしたが、アフタートークでの松本修さんの話では、初日は3時間を超えていたそうです。

今は芝居を観る機会が大幅に減りましたので、しばらくは本の中の芝居を楽しんでいこうかと思っています。これは、想像力と創造力をかきたてる遊びでもあります。

先ずはじめは、芝居を観てから読むことをお勧めします。

生の芝居は一瞬、一瞬で過ぎてしまいますので、判らなかった部分は必ずあります。そんな場面も活字として読むと理解できる場合があるからです。

読み進めていると、次第に芝居の中に入り込み、役者や演出家や舞台美術家にでもなったかのような錯覚を覚えてくるかもしれません。


それも又、楽しいことです。

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