2009年10月13日火曜日

決して劇的ではなく。

先の「楽屋」舞台中継後にイッセー尾形さんの一人芝居が放映されていました。

以前文化庁メディア芸術プラザのHPで、「イッセー尾形の演劇はポップアートだ」という記事を読んだ覚えがあり、調べてみると、イッセー尾形さん自身が書いた文章で、次のようなことが掲載されています。

「コーラの瓶を美術館に置くと、何の変哲もないガラスの容器が、魅力的に見えてくることと関係があるらしい。それよりなにより、コーラの出回っている量は多すぎて、気にも留めないという当たり前の日常を、美術館に置くことによって意識化させるのだそうだ。確かに僕の取りあげる人物は、どこにでもいるフツーの人たちに限られている。劇的とは無縁の人に、真っ白の舞台上でスポットライトを当てる。(中略)観客も舞台で演じられた僕の役を通して、身近な人を再発見するのであれば、ポップアートといえるかもしれない。」

確かにイッセーさんが演ずる人達の多くは、ごく一般に生活をし、ほとんどは、仕事の枠組みに知らないうちにはまりながら、人物形成されている人達と言ってもよいと思います。ただ、そこには演劇としての誇張や解釈や表現の方法によって、だれもが持っている優しさや哀しみや良い意味でのいい加減さが表れています。

そんな何も無い舞台上で演じられる姿に、観客は共感や驚きや可笑しさを感じ、こんな人いるよねとか絶対いないよな、などと思いを巡らせているのです。思いを巡らせることは、舞台上で創造された人物や場面を、観客自身が想像し、同時に共有していることです。だから、イッセーさんが行う芝居は、いわゆるパフォーマンスではなく、演劇なのだと思います。

ポップアートとの関連は前述した言葉の通り、モチーフや方法論的に共通性を見出すことは出来ますが、何か違うような気もします。たぶん、表現の媒体として、自らの肉体が目の前にあることがそのように思わせるのかもしれません。より直接的と言ったらいいのか、届く距離感が近いこともそのように感じさせる一因だと思います。

そんなことを考え、現実の世界に目を向けてみると、僕たちも様々な職種や仕事上の立場の中で、その役割を演じているだけではないかとさえ思えてきます。しかもそれが、決して劇的ではなく、日常の中でごく自然な形で行われているのですから、あらゆる人間はとても素晴らしい役者であるのかもしれません。

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