2009年12月22日火曜日

もっと自由に

昨夕、少し時間があったので、2007年公演のコクーン歌舞伎「三人吉三」の後半だけを見ました。外でちらつく雪にほだされたわけではありませんが、ラストの雪のシーンが見たかったからです。ラスト、これでもかと言う大量の雪が落ちる中、三人の吉三の死に至る姿が、かつてのアメリカンニューシネマのようなイメージを彷彿させます。滅びの美学とでもいうように、舞台上全てが真っ白になる劇的な幕切れは、見ているものの魂までも浄化されるような気分にさせられます。


以前にも書いたように、僕は歌舞伎をほとんど見ないのですが、このコクーン歌舞伎だけは別物として見てきました。なので、物語のいきさつや内容の解釈は歌舞伎でのそれとは違うのかもしれません。さまざまな芝居の中の一つとして、単純に見ていました。

「三人吉三」は、歌舞伎の中でも一番とも言えるほど有名な演目です。「大川端庚申塚の場」でのお嬢吉三の台詞は、歌舞伎を知らない人でも一度は聞いたことがあると思います。河竹黙阿弥作、初演が1860年ですので、時代はまさに幕末の頃、これまでの価値観や世界との繋がりが大きく変革し、明日をも知れぬ毎日だったのではないかと思われます。

内容もこれまた、現代でもそこまで物語として設定するかと思えるほど、非常にネガチィブと言うか希望の無い出来事で綴られています。主人公はお坊、お嬢、和尚の3人の吉三と言われた、まぁ盗賊のような人たちです。その3人が百両の金と庚申丸と言う刀を巡って繋がり、過去の因果応報も絡みあいながら、奈落へと突き進む姿がラストの死へと繋がっていきます。

それにしても、このような今から150年近く前の作品やもっと以前のギリシア悲劇などを見るたびに、その表現の自由さを感じずにはいられません。「三人吉三」で扱っている題材は、女装したお嬢吉三とお坊吉三に芽生える友情以上の愛情や本人同士は知らなかったとは言え、カップルとなったおとせと十三郎が近親相姦であったり、ほんと過激で、ごった煮のような状況なのです。

今のようにテレビもインターネットもなかった時代、ごく限られた人たちへの娯楽として、密閉された劇場空間の中で演じられるものだからこそ出来たことなのかもしれません。そうかと言って、現在が表現を束縛されている状況ではないとは思っていますし、むしろ自分自身でその枠を見限っているような感じがしないでもありません。

閉塞的で暗い世の中ではありますが、こんな時こそ、もっと自由に、ときに枠をはみ出してもいいのでは思えてしまうのです。

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