2010年12月31日金曜日

2010年最後の日

2010年最後の日になりました。今年最後だからといって、特に変わったことをするでもなく、こうしていつものようにブログを書いています。ここ数日は今年を振り返るような番組がいくつもあり、この一年に起こったことなのに、何か遠い昔の事のように感じます。


昨日もブログを書いた後、午前中早めに部屋へ戻り、掃除やら洗濯をしながら昼食を済ませ、少しだけソファーに横になっていました。polkaも僕のお腹に乗り、伸びをするように身をあずけていたのですが、そんな重さを感じつついつしか寝てしまっていました。眼を覚ますと同時に、付けたままのテレビでは夜の番組の再放送をしていたようで、一瞬、今がいつなのか戸惑ってしまいました。polkaは既に僕から離れ、一人掛けソファーで身を丸くして、ウトウトとしています。

ゆっくりと起き上がり、コーヒーでの飲もうかと台所へ向かったのですが、何故かギャラリーが気になりました。動き回った僕のせいで眼を覚ましてしまい、そんな僕をじっと見つめるpolkaを残し、降りていくこととしました。エレベーターを降りると、ギャラリーのドアを覗いている女性がいます。すぐに分かりました。以前、イベント時に手伝ってもらった女性です。今日が休みだとは知らずに、仙台に用事があったので、ギャラリーに来てくれたようです。

その女性は仙台から少し離れたところに住んでいるので、頻繁には来れません。おそらく、4カ月ぶりになると思います。それほど、変わらない様子に安心しながら、暖房も付いてないまだ寒いギャラリーへと入ってもらいました。それから、1時間ほどあれこれと話をしてから、帰ったのですが、僕がもし降りて来なければ、そのまま彼女は帰ったのだろうなと考えました。そう感じたわけでも、知っていたからでもなかったのに、全くの偶然にこんなことがあるのだととても不思議に思いました。

これも縁なんでしょうね。いろいろな縁が人を繋ぐとは経験的に分かっていても、その場に居合わせないと現実のものとして感じないものです。こんな小さなギャラリーで、ただ写真やカメラに興味があったり、アートに関心があるというだけで、様々な人と出会いがあり、いつもこれきり(次には会えないかもしれない)だと思うようにしながら接している毎日ですが、こんな日もあるのですね。

明日から2011年、個人的にも世の中的にもどうなるかはまるで分かりません。このギャラリーもいつまで続くか分かりません。でも、いつの世にも変わらないものはあるわけで、人それぞれ、それらをひとつのよりどころにして生きているのだと思います。

僕にとってのそれは何かと問われても、具体的に説明するのは難しいのですが、ひとつ言えることは、多くのものや人のためではなく、身近にいる人であったり、手の届く範囲のものにもっともっと眼を向けていくことかなと思います。そこに、新しい価値観なりを発見していければと。

それでは、皆さん良いお年を迎えて下さい。

2010年12月30日木曜日

Seeing is believing

今日から5日間の休みになります。といっても出かけるわけでもなく、特に変わったこともする予定も無く、のんびりと過ごすようになると思います。ですので、もし正月のテレビに飽きたとか散歩がてらにギャラリーの近くへ来た方は、連絡してもらえてばいつでも開けられます。


通常の営業は、年明け4日(火)からになります。江口敬写真展は会期終了まで休み無しで行う予定です。最近ちょっと腰の具合が怪しいので、この休みに手なずけて、備えようとは思っていますが、結局はなんだかんだと動いているような気もします。年末年始休みなしで仕事をしている方もいらっしゃいますし、そうそうぼんやりもしていられないですから。

さて、現在参加募集している企画が3つあります。3月から6月にかけてのものになるのですが、これが予想通りというか、まだまだ集まらない状況です。まだ時期的に間があるので、検討されている方や悩まれている方がいらっしゃるのでしょうね。Sha-gakuにしても傾向は同じで、ぼちぼちと参加者が集まる感じですから、致し方ないかなとは思っています。

今回の企画は対象がそれぞれ違っています。「Photo Showcase」は、ポートフォリオを中心として販売に興味がある方、「NorthEast Photographers」は文字通り、東北各地で撮影、作品制作をしている人々でその交流やつながりを意識しています。そして「Love and Joy(仮)」は、Club Blossomを主体として、初めて展示発表を行いたいと考えているような方々に向けられています。

今もし検討され、悩んでいる方は、江口敬写真展を一度見て下さい。全面的に僕がプロデュースしていますので、概要はつかめるのではないかと思います。また、ワークショップの企画である「写真作品~展示発表までのプロセス」やフォトコンサルを受けてもらえると、さらに展示・発表の意味を理解出来ると思います。

門戸は広く開いていて、決して敷居が高いものでもありません。前向きに思う気持ちを持つことはとても大切で、それだけで良いのかもしれません。でも、さらに一歩踏み出し、自分を試し、出すことが、結果的に自分にとっても周りの人たちにとってもプラスになるはずです。

昔からよく言われる「百聞は一見にしかず」。

これを英語で書くと、「Seeing is believing」です。

何か英語で直訳した方が、感じるものがありますね。

2010年12月29日水曜日

今年最後の通常営業日

今日が今年の通常営業最後の日になります。すでに仕事納めをした人は多くいるのではないでしょうか。ここ10年ぐらいは、年末31日まで仕事をしていたこともあり、あまり年末年始だからという気分も無く過ごしてきました。年に数回ある連続した休みのひとつぐらいの感覚ですね。
とりあえずは、皆さん、1年間ご苦労様でした。


ギャラリーの方は、知名度もまだまだ、来られるお客さんも数多くというわけではありませんが、わざわざ足を運んで下さった方々には感謝しています。ホント、有難うございました。

今年は公募写真展”Sha-gaku”を含め、地元であったり、地域で活躍されている方々にもスポットを当ててきました。プロの作家ではない写真展がどれほどのものかと仰る方はいらっしゃると思いますが、これもひとつの地域にある商業ギャラリーとしてのスタイルであると考えています。僕自身、著名でも有名でなく普通の人間です。少しだけ、写真を知り、ギャラリーを構え、多くの人に写真の良さやアート性を知ってもらいたいだけなのだろうと思います。

そして、それは一部の名の知られた作家にだけ出来ることではなく、どなたにも出来る可能性があることを現実のものとして感じて欲しいのです。その為の労であれば惜しみなく使いたいと思っています。もっとも、それぐらいしか出来ませんから。

才能は天賦のもの、生まれながらにして持っている特別の人だけが、その道で活躍出来るものだと思われています。しかしながら、天賦の才能はそれを私利のためにのみ使用していると、次第に色あせ、枯渇していくものです。世に問い、他の人に提供し、そこから生まれる感動や共感があってこそ、ますます備わってくるものだと思います。

世の中には、そんな種類の人々がまだまだ沢山いると、僕は信じています。だからこそ、自分自身を表現し、発表して欲しいのだと願っているのです。その形は、時代と共に移り変わり、それが現実ではなく、ネットのような仮想的な空間で発揮されても構いません。実際、そうしている方も急激に増えていますから。

それでも、目の前に現実のものとして示されたそれらの力に勝るものは無いと言えます。それは、毎日食事を口にし、眠るといった本能と同じ根っこから発生するものだからです。生きていくことは、この世に生を受けた時点で決められたことです。しかも、そこには限りがあります。一見して不条理とも思える中で生きていくのですから、自己表現し、そのことで他者に還元していくことは、かけがえのない尊いことなのだと思えます。

厚い雲の切れ目から差し込む一条の光が徐々に広がりを見せ、明るく大地を輝かせる、そんな人々との出会いを待ち望んでいるのです。

2010年12月28日火曜日

「最初の一音」

今や音楽はどんな場所でもどんな時でも、自分が聞きたいと思わなくても自然に耳に入ってきます。ギャラリーでもBGMとして、展示会ごとに変えながら常時流しています。ウォークマンなるものが世に出て、レコードがCDへと変わり、パソコンの普及から机の上のスピーカーから流れるようになり、さらに携帯電話を始め、小型の携帯プレーヤーにより、いつでも好きな音楽が持ち出せる環境になりました。


かつて、音源としての主流がレコードだった頃、気に入ったアルバムを聴くことは、一種の儀式のようなものだったと思います。紙ジャケットからレコードを取り出し、盤面に手を触れないようにして両側で押さえながら、ターンテーブルへそっと載せる。全ての機器の電源が入っているのを確認し、アンプのボリュームを一旦「0」にしてから、プレーヤーの針を回り始めたレコードへと落とします。

すぐに、ボリュームを適正なポジションへと変え、最初の一音が出るのを待ちます。ここまで来て、ようやく聞くぞとの態勢が整うわけです。今だったら、面倒くさい、CDを入れると自動で再生してくれるし、マウスをクリックすれば自然に流れると疎まれ、敬遠されるのではないかと思います。

そう、このアルバムを聴くと決めることから始まって、一連の動作を繰り返さなければ、それを全うすることは出来なかったわけです。つまり、常に積極的な行為が必要でした。何もこうじゃなきゃ音楽を聞いていることにはならないと昔を懐かしんで言っているのではありません。僕自身もそんな面倒なことをするより、スイッチポンで聞ける方が楽だし、便利になったことを素直に歓迎しています。

それでも、やはり聴くんだぞという気持ちは、レコードで聴く時の方が強かったかもしれません。特にまだ耳にしていない新しいアルバムの、最初の音が出た瞬間に覚える高揚感や安堵感、逆に落胆といった感覚は、今とはちょっと違っていたように思います。最初の一音で身体に電流が走るとかそこでの世界観を感じたりすることは、実際にありますし、それもアナログ的な行為と聴くという気持ちがあるから余計そう感じるのかもしれません。

展示会を観に来ることは、お客さんの積極的な行為そのものです。興味があるから来られるわけで、ギャラリーへの道すがら、おのずと期待感は高まっていると思われます。

そうすると、見せる側の僕としては、どうしてもドアを開け入った瞬間、眼にするものが一番の肝のように感じます。レコードに針を落とし、ちょっとの間で流れる一音と一緒のことです。

そこで何かを感じ、さらに作品へと眼が行くようになれば良いよねと思いながら、展示を考えているわけです。これはとても難しいことです。多分永遠にこれだと言えるものは出来ないと思っているのですが、現在出来るであろうことは、今回の写真展にはあります。

そして、実は2重の仕掛けにもなっています。

今年は今日を含め、残り2日です。

その眼で、「最初の一音」を確かめてみて下さい。

2010年12月27日月曜日

時を忘れ、話は尽きず。

トークイベントも無事終了しました。来て下さった方は7名と予想通り少人数になりましたが、この年の瀬の忙しい中参加していただき感謝しています。こちらの方はなかなか感想や意見といったものを口にしないのですが、活発な意見や質問が飛び交い、非常に中身のある話が出来たんじゃないかと思っています。その後の作品レビューでも、作品をお持ちの方はひとりでしたが、ほぼ全員が一緒に見て、聴いてくれていました。


アマチュアで写真を撮る方は、実は同じように写真を撮られている人たちの作品にとても興味があるのですが、作品も含め本人の制作に到る話なんかを聴く機会はあまりありません。だから、どんな思いをもって、撮影をし、作品化しているのか聴いてみたいのです。実際の話、第三者の見解やリベラルな眼で見た感想は、サークル等での仲間内では聴けませんからね。

昨日は本音のところや実際のプロセスとかをお話出き、僕にとっても、とても楽しく、有意義な時間だったように思います。そういった意味ではこの会期は、もっと多くの方に見て欲しいとの思いをさらに強く感じました。所詮はアマチュアのレベルだろうとか、使っているカメラはデジタルだしねえと言われる方は少なからずいます。それは、とても哀しいことです。

物事の本質は、その方法・手段に寄らないはずです。これは誰もが経験し、感じていることだと思います。作品の評価は、究極のところ、作品自体にあるのではなく、それを生み出す、作り上げた人に対して向けられるもので、しかもそれは同じフィールド、時間といったものに依存しません。時が経ち、違った場所で見た時に感じたことが、以前と違ったとしても間違ったことではないわけです。それもまた作り上げた人やそれを見る人がそれぞれに感情を持ち、多面であり、見る側は作品以上にそれを生み出した人に対して無意識のうちに眼をむけているからです。

さて、今日は午前中に少しだけ外出をします。それから、先日予告したように、展示作品全点をサイトで公開します。これは、見に来れない方々にお見せしたいとの気持ちもありますが、実際の作品を会場で感じて欲しいことが一番です。その予備情報ですね。

そんなわけもあり、年明けの開廊日を変更しようかなと思っています。まだ江口さんには話していませんが、2011年の始まりは4日(火)にします。営業時間は18:00までになりますが、お休みで家にいるのに飽きたとか、この日なら行けるかもと思ったなら、是非お越し下さい。

2010年12月26日日曜日

最近お気に入りのもの

最近お気に入りのものです。
知っている方は多いと思います。映画「空気人形」のOST(オリジナル・サウンドトラック)版です。実は音楽として聴いているのではなく(CDは持っていない)、映画を見ながら聴いています。映画用のサウンドトラックですから、これが本来の聴き方なのかなとは思いますが、映画が見たくてDVDを取り出しているのか、楽曲を聴きたくて映画を見ているのかよく分からない程です。


今更「空気人形」を語っても遅い感は否めませんが、この映画は僕の中では相当な高レベルのもので、是枝裕和監督の尋常ではない才能に改めて気づかされました。そしてここで使用されている楽曲を提供しているのが、world's end girlfriend(ワールズ・エンド・ガールフレンド)です。これがまた映像とドンピシャなんです。単純に演出効果の為の音楽もありますけど、そういうのって結局残らないもので、何か音楽が添え物のように感じられてあまり好きではありません。

映画は部屋でひとりで見ることが多くなってしまいましたが、「空気人形」は映画館の大型スクリーンで見るよりは、自宅でレンタルで見る方が良いように感じます。語っている内容やモチーフがそんな感じだからという点もありますが、あまり多くの人とましてや近しい友人や恋人なんかと一緒に席を並べて見るものではないような気がします。決して、大衆的ではないとの意味ではなく、周りを気にせずにひとりその世界に入り込めた方が、より理解や考えが及ぶような類の映画なのです。

予告やレビューで語られるようなファンタジーではありません。映し出される映像はとてもはかなくそして美しく、人工物で形作られた東京の街がこれほどにきれいなものなのかと再認識するほどです。内容は哀しいほど孤独感に満ち溢れ、都度、心が痛む思いを受けますので、万人にはお勧め出来るものではありません。音楽もそうかもしれません。

でも、この音は今の僕には一番合っていると思えるのです。


2010年12月25日土曜日

雪の日


雪が降っています。テレビでも全国各地の雪の様子が流れていましたが、ここ仙台市街でもやや弱くなりましたが、雪が降っています。市街地ですので、一面の雪景色とはなりませんし、したがってそれほどきれいなものでもありません。足元が滑りやすく、ちょっと出歩くのに困ってしまうなと思うぐらいです。


今日と明日はトークイベントの予定です。どうやら明日もちらほらと雪が降るようですし、この雪で来られないんじゃないかとちょっと不安です。今まで行ってきたイベントの日も、晴れ渡った記憶がないので、この程度ではめげはしないのですが・・・。

それにしても、僕はこれまで雨男とか晴男とか言われたことも無く、特にお天気で困った記憶もあまりありません。今年は初雪の時期も遅れ、雪なんか降らないんじゃないのと思っていた矢先ですから、何か、今日は雨男では無く、雪男になったような気分ではあります。

江口さんとは、お客さんがおひとりでもしましょうねとは話していますので、のんびりと始めたいと考えています。逆に濃い話が出来るかもしれませんし。

でも、ひとつだけ心配していることがあります。江口さんがちゃんと来られるかです。道路の状況がどうなっているかが気がかりですね。取りあえず主役に無事到着してもらえなければ始まるものも始まりません。

予定されている方も足元に気を付けていらして下さい。

暖めてお持ちしています。

2010年12月24日金曜日

クリスマスに楽しいひとときを

クリスマスイブですね。最近の調査では、クリスマスに関心の無い人が、30%ほどいるようで、もう特別な日との意識はあまり無いようです。仕事が忙しいとか長く続いている不況による閉塞感がそうさせているのかもしれませんが、元々はキリストの誕生日ですし、イベントとしての意味合いの方が強くなっていますので、そんなものなんだろうなとは思います。


さて、明日のクリスマスと日曜日、2日に渡ってギャラリートークを行います。時間は両日とも14:00からを予定しています。特に時間は気にせずに行おうと考えていますし、来られる方も気軽に来てもらえれば良いと思っています。著名な人たちの講演会等を聴きに行くことは、僕も以前はよくあったのですが、会場の設定や規模の関係で、いつもちょっと離れたところから眺める感じが多かったように思います。

今回は少人数であることを意識していますので、ざっくばらんに近い距離で話を進めたいとの思いがあります。もちろん主役は江口さんであるのですが、参加される方々にもその一端は担っていただきたいので、その辺りを頭に入れながら進めようと思っています。

世に知られる著名な方の話には、やはりそうなるだけの理由が隠されています。そこに到るまでの経験や知識そして志や思いといったものが、自然の内に現れ、想像もしていなかった人間性のような部分まで見えてくることがあります。それは、著名な人であればある程、表面上のキャラクターなりが作られたものになりがちですから、顕著に現れるようです。そのギャップを知りたくて、見に行く場合もあります。

失礼な話ですが、江口さんはプロの写真家ではありませんし、いわゆる良識ある一般の方です。それでも写真により作りだす世界は独自のものを持っています。以前書いた誰しもが持つ多面性と関係があります。話の中で、そんな面を直接感じてもらえたら嬉しいと思っています。

クリスマスに関心がある人も無い人も、写真に興味がある方は是非いらして下さい。

クリスマス・プレゼントとまではいかないとは思いますが、楽しいひとときを過ごせますよ。



江口敬写真展”Beyond”ギャラリートーク
12月25日(土)、26日(日)
両日とも14:00~15:00頃まで(時間の許す限り)
予約不要、入場無料

場所は、いつも暖かくしているカロス・ギャラリーです。

2010年12月23日木曜日

季節外れの嵐の日

嵐のような昨日とはうって変わり、日差しのある明るい朝です。台風一過の後に空が晴れ渡るような感じです。まさに昨日は季節外れの台風のような一日でした。ほんの少し外に出ただけで、傘は飛ばされるわ、足元はぐしゃぐしゃになるわで、こんな日は大人しくしているしかないと感じたんじゃないですかね。


そんなわけで、昨日は予想通り、お客さんの足も遠ざかり、僕はひとりのんびりしていました。さて、今日は天皇誕生日で祝日です。一息入れるように、週の間に休みがあると、昔から得をした気分になるのは僕だけでしょうか。特に今は師走で、何やら忙しさや慌ただしさだけを感じる頃ですので、余計そう思ってしまいます。まぁ、今は祝日、日曜関係なく仕事をしている人もいますので、一概にそう思う人ばかりではありませんね。

何にしても、ある目標がある場合、その中間点はとても意味あるものになります。このまま進んでいけば良いか、または違ったやり方をしなければいけないと考え直すこととなるか、最悪撤退もといろいろなことを考える機会であるわけです。それと同時にやっと中間点だと思うまたはもうここまで来たかと、ホッと感じる時期でもあります。

僕の場合は、まだまだ中間点すら程遠いと思っています。思い描く目標や目的に対して、どれほど進んでいるかの実感があまりありません。時に、ここでこうしたことをやっている意味や意義が果たしてあるのだろうかとさえ思えることがあります。そう、夢物語の中で、幻想を見ているだけなのかもしれないと。

それでも、現実は毎日訪れて来るわけで、そのたびに決断や対応をしています。と言っても、そのひとつひとつはそれほど大それたことではなく、普通に生活している人と変わりないものではあります。

以前、ミニー・リパートンの言葉で、「コップ半分の水」の話を書きましたが、残り半分しかないと考えるか、まだ残り半分もあると考えるかで、その後の行動や判断は変わってきます。また、そうした結果、完全に満たされてしまったその時どういう思いを抱くかで、これまでの評価が表れてくるのだと思います。

コップ半分にも満たないと感じている状況でどうすれば良いか、そこが問題ではありますが、大河も雨水の一滴からとの言葉もあるように、少しずつでも積み重ねていくしかないのだよと、自分に言い聞かせているのかもしれません。そこから何か見えてくるものがあるでしょうし、昨日のような風が吹くかもしれませんからね。

少なくとも、吹き飛ばされるだけにはならないように、とは思っていますが・・・。

2010年12月22日水曜日

雨の一日 今日はのんびり行こう。

今朝は強い雨が降っています。どうやら一日中こんなお天気らしいです。となると、お客さんも来られないだろうから、奥の部屋でひとりサイト更新準備やぼんやりと考え事をしていようか(決して後ろ向きにではなく)と思っているところです。


そんなわけで、サイト更新予告を。

現在開催されている江口敬写真展”Beyond”は、年末年始の休みを挟んで、約4週間あるのですが、師走や年始の忙しさを考えると、見る機会という点では日数は少ないように感じています。皆さんは限られた休みの中で生活をされているわけですし、見に行きたくても状況が許さない場合は現実としてあります。

そこで、来週12月27日に、展示作品全点をサイト上で公開します。もちろんサイトからの作品購入も可能です。作品公開に当たり、今回はLight Boxのスタイルを使用しようと考えています。ほぼ制作は終わっているのですが、少しだけかっこ良い感じになると思います。ということで、来るのが難しい方は、先ずはサイトから作品を楽しんで下さい。もし、そこに惹かれる作品があれば、是非ギャラリーへお越し下さい。展示ではさらに違った印象で見られることと思います。

今日は宣伝になってしまっていますが、多くの人に見に来ていただき、もし気に入ってくれたなら、作品を購入してもらいたいと言うのが、僕の正直な気持ちです。いや、先ずは展示された作品たちを見て、感じて欲しいのが一番ですね。その上で気に入れば、という話です。

今回の写真展から、”Angel”というものも企画しています。これは、作品やフォトブックを単純にパックで安くお売りしますよということではありません。より、写真作品やアートを身近なものとして触れて欲しいとの思いがあります。作品購入を考えている方は、是非ともこちらを利用して下さい。


日常の煩わしさや忙しさを忘れたいと思った時は、いつでもお越し下さい。


そんな空間がここにはありますから。

2010年12月21日火曜日

晴れた冬の朝

気持ちの良い青空が拡がっています。冬の空は雲も低く澄み切った感がして、しかもキリッとした寒さもあるので、眺めているだけで身が引き締まる思いがします。いつもいつもそんな思いをしているのかと言えば決してそうではなく、そう思うには自分の現在の状況や考えていることが影響を与えているように思います。


そうなるのには訳があると言われるように、結果に対する原因は必ずあるものです。何故か分からないけどそうなったということもありますが、多くの場合はその原因は自分自身の中にあると、僕は考えています。そのために、周りの状況がそうさせなかったとか、仕方なかったねとか慰めの言葉を掛けられたとしても、自分自身は納得していないことの方が多いものです。

また、原因となるものは、自分では気づかなかったものであったり、経験が足りない部分であったり、知識・情報として手にいれられなかったであるとか、いろいろとあるのですが、振り返ってみると、プロセスに問題や異常があることが多いですね。その為、始めからこのやり方ではうまい結果が得られないと言われることがよくあります。

仕事においては、そういう点は個人ではなく組織やグループとして問題解決や結果を導き出すやり方を探っていくわけで、ただそうしたいからとか何となくそっちの方がとかで進めることはありません。僕の場合、そうしたもろもろをほとんどは自分で判断し、決断しちゃっていますので、自分でもいけないなと感じながらも、ついついやってしまうことがままあります。

まぁ、そんな時はある程度結果も予想しているわけで、やっぱりなと妙に納得してしまったりします。そうして、学習、経験していくわけですが、これは失敗だけに言えることではありません。多くはありませんが、偶然が重なり、良い方向へ行くこともあります。

現実として難しいことではあるのですが、何かを判断する時に、今もっとも大事にしていることは、自分の気持ちですね。もちろんそこに到るまでは、考えに考えているつもりではいます。そしてそれがあまりに利己的であってはいけないとも思っています。

経験的に、今しか出来ないと思うことは、本当に今しか出来ないのですよ。数年後同じ気持ちでその時考えていたことを行ったつもりでも、それはやはり違ったものでしかありません。無理や無謀を他人に強要するつもりはありませんが、時には先ずやってみることが必要なことじゃないのと思ったりします。

それは、信念ほど強いものではないにしても、もし何か目標や夢のようなものがおぼろげにでも見えているのなら、しないわけにはいかないでしょうと言うことです。

澄んだ冬の空からそそがれる陽の光は、そんな僕の心を見透かしているようにも感じられます。身が引き締まる思いは寒さだけから来ているものではないのです。

2010年12月20日月曜日

クリスマスの日 ギャラリートークに来てみませんか

来週末はクリスマスですね。昨日と同じ滑り出しですが、江口敬写真展”Beyond”ギャラリートークを行う予定でもいます。日程は以下の通りです。


12月25日(土)、26日(日)

14:00-15:00頃まで(時間の許す限り) 場所:Kalos Gallery

トーク終了後、ご希望の方のみ作品レビューを行います。

作品レビューに参加される方はご予約が必要ですが、ギャラリートークには予約は要りません。入場無料ですし、気軽に来て欲しいと思っています。

トークもかしこまったものではなく、ざっくばらんに疑問や質問にお答えする形で行います。どうもこちらの方々は皆さん遠慮がちのように思えます。おそらくは少人数になるでしょうし、そんなこと聞いたら恥ずかしいとかいいかな、なんて躊躇する必要もありません。むしろ、質問が無いと何を話そうかと悩んでしまいますので、どんどんツッコンで下さい。

まだ開幕2日ですが、見えられたお客さんには非常に評判が良いので安心しています。しばらくモノクロの展示が続いたので、カラー作品が展示されているギャラリーに新鮮な感覚を受けるのかもしれませんね。フォトブックも同様に、評価して下さっているようで、買われて帰られる方が多いです。ホント有り難いことです。

今回の展示には様々な思いとたくらみと仕掛けが仕込まれています。僕らが狙ったように感じて、楽しんでもらえるかは分かりませんが、この場にいなければ味わえないものです。僕もこの一年仙台で様々な展示会を見てきましたが、どんな人でも何かを感じられる、分かりやすさを狙ったものという点では、かなりレベルは高い方だとの自信があります。見ないと損をしますよぐらいの意気込みでいます。

会場内では、今回の展示についてのネタばれのような「江口敬写真展 "Beyond" 展示までのあらまし」という小文をお配りしています。見終えてから読まれた方が良いのですが、いつでもお声をかけて下さい。これを読むと2度楽しめること必至です。

月曜日でも年末年始休みでも連絡をもらえれば、時間が許す限り開けます。

是非とも、来て見て体験して下さい。

2010年12月19日日曜日

サンタクロースを信じていた頃

来週末はクリスマスですね。もう一カ月以上前から商店街にはそんな雰囲気の飾り付けがされていましたから、いやがうえにもそんな気分にさせられているのかもしれません。「2010SENDAI光のページェント」も、配電盤火災を受けて一時休止していましたが、17日から試験点灯を始め、20日には全面復旧を目指していると言います。


本当に幼い頃、僕も周りの子どもたち同様にサンタクロースがいるのだと信じていたと思います。思いますと書いたのは、あまり記憶として残っていないからです。年齢と共に記憶は曖昧になっていきます。記憶の領域に限りがあるのかとは思いますけど、全てを覚えてしまっているのも困りものですから、ちょうど良くなっているのだと思います。

学術的に言っても、子供には夢やファンタジーの世界を信じることは当然のことのようです。そうして、目の前にあるイルミネーションをきれいだと感じ、素直に喜びが体調の変化として現れたりします。心拍数が上がったり、まぁ、自然にドキドキとした感じになるわけです。

昨日から始まった江口敬写真展で、来られたお客さんの多くは写し撮られた対象が何であるのかに非常に興味を示しているようです。つまり、何物か分からないものを現実の経験や知識の中で得られたものと一瞬のうちに頭の中で、比較・照会を行っているのです。これはアートを理解しないこととは別の問題で、大人としての自然な行為なのだろうと思います。おそらく、子供はそうは考えないだろうし、理解不能なものについては、始めから興味を示さないかもしれません。

わざわざ足を運び、見に行こうとするのですから、自分自身も納得したり、そこから何かを得たいと考えていることも理由には上げられます。もちろん、僕としては見に来て下さるだけで有り難く、好きなように楽しんでもらえればといつも思っています。

それでも時には何の先入観無しに、自分の感性のまま、作品に触れてみてはいかがでしょうか。決して、そこで感じた事は、恥ずかしいことでも、間違っていることでもありませんから。

そう、かつてはサンタクロースを信じていた子供だった頃の自分を思い出しながら。

2010年12月18日土曜日

ようやく今日という日が来ました。


ようやく今日という日が来ました。いよいよ江口敬写真展”Beyond”の開幕です。準備はすっかり整って、これをアップしたらお掃除をして開廊時間を待つだけです。今回の写真展ではいくつかのアイテムを販売します。そのひとつがこのフォトブックです。

A5サイズでちょっと小振りではありますけど、全36ページとボリュームはあります。あまり使いたくはない言葉ですが、分相応のなりをしていると思っています。書店で良く見かける装丁が立派なきれいな写真だけを集めた写真集とは違います。写真展を見に来られて、その後フォトブックのページをめくると、その時の感情や感覚が蘇ってくるようなコンセプトで作っています。


中身は少しですが、こんな感じです。見開きも8枚ほどありますから、大きさも楽しめると思います。



江口さんの作品はその色彩の表現に特徴をもっていますので、これをブックとして印刷で再現するのは大変なことです。用紙も作品が映えるようにと、限りある予算の中やりくりをして下さって、かなり良いものを使用しています。ほんと、青森の朝日印刷さんには感謝です。

来られたならば、手にとって見ていただきたい、願わくば購入して欲しいと思っています。僕の撮影技術は稚拙なので、あまりうまく撮れていないのですが、実物はもっと良いですからね。

是非、足を運んで下さい。このブログを読んでくださっている方は、周りの方にもお話下さい。

お待ちしています。




2010年12月17日金曜日

誰もが始めからイチローにはなれないのです。

江口敬写真展が明日開幕します。8月から検討を重ねてきたもろもろが、全て明日披露されることになります。準備は比較的順調でした。それは何よりコミュニケーションがうまくいったからだと思っています。時代が変わろうが、方法手段が変わろうが、結局は人が人として行うことですから、そこに信頼であるとか相手を思う気持ちが無ければ、物事は前に進みません。ごくごく当たり前のことを当たり前にしたのだと思います。


そんな準備期間中に、サイトでは2つの企画を告知し、現在参加を募集しています。また、今日、さらに新たな企画を告知する予定です。既に告知しているものは、「Photo Showcase」、「NorthEast Photographers "relation"」、そして、今日告知するのが「Love and Joy(仮)」になります。

いずれも、それぞれに特徴を持った参加型の企画です。おそらく、こんなに参加型の企画を立ち上げても集まるの?と言われると思っています。それでも、あえてそうしているのは、これからのギャラリーの方向性を探るという意味合いがあります。これまで行ってきた企画展のほとんどは、既に一線で活躍をされている写真家のものが多く、言わばアート写真の紹介の役割であったと考えています。その間に、「Sha-gaku」、「Story」という、地域で活躍されている、これからの世代もしくはアマチュアとして真摯に写真作品と対峙されている方々にスポットを当てました。この中から生まれてきたのが、今回の江口敬写真展でもあるわけです。

カメラに興味を持ち、実際写真を撮っている方は沢山います。ギャラリーに来られるお客さんの多くはそのような方々です。そして、その中には、展示されている作品に感心し、いつかは私も展示発表をしてみたいと思われたり、或いは、自分の撮っている写真と比較し、まだ僕には敷居が高いなと感じたりします。

でもね、誰もが始めからイチローにはなれないのです。スタートは皆一緒です。何が違いを生むのかと言えば、確かに才能もあるのでしょうが、姿勢とか自分を信じる気持であったり、そこから一歩踏み出す勇気のようなものなんだと思います。それには年齢といった壁はありませんし、いつからでも始められるものなのです。

と言っても、実際はねと思われていることでしょうね。そういう方は、先ずは江口敬写真展に足を運んで下さい。また、この後予定している「Sha-gaku vol.2」で確認して下さい。きっと世界は拡がります。そして、目の前に広がる世界に一歩踏み出してみて下さい。

僕はいつでも、そういう方々との出会いを求めて止まないのです。

Photo Showcase」の詳細はこちら

NorthEast Photographers "relation"」の詳細はこちら

2010年12月16日木曜日

雪が舞い降りた日

昨日、ようやくと言うかやっと仙台の街に雪が降りました。朝から気温も上がらずに、時折小雨が降っていたのですが、午後過ぎにその雨が雪に変わりました。積もる程ではなく舞いながら肌に触れるとすぐ溶けてしまいそうな雪です。不思議なもので、気温は変わらないはずなのに、舞う雪の中を歩いていると寒さが弱まった気がします。


僕は学生だった3年間を、山形の米沢で過ごしました。仙台と比べると、今でも雪が多い町なんだと思います。その時住んでいた2階建てのアパートは、全員が学生で、かと言って寮のような交流も無く、ひとりひとりが淡々と暮らしていました。4畳半一間、トイレも台所も風呂も共同という今では見つけるのが難しいと言って良い、そんな類のものでした。そのアパートは、幹線道路から折れ、車がやっと2台通れる程度の小さな道の一番奥にありました。その先は一面の田んぼです。遠くには低い山並みが見えるだけです。ですから、稲穂が実る頃に、窓を開けると、よくある山間の田舎の風景そのものが目の前に広がっていました。

1年目の冬、一晩に1mほど雪が降ったことがありました。目覚めた後ウトウトとしながら、朝日が差し込む窓を開け放つと、ちょうど窓枠の下側ぎりぎりまで積っています。これ以上積もると、雪が部屋へなだれ込んでくるような感じでした。

そうして、それと同じ高さで、目の前の田んぼが雪で覆われていました。僕はしばらくの間、何も言えずにじっとその景色を見つめていました。寒さも忘れ、茫然としていたように思います。

朝日を受けた雪面はきらきらと乱反射し、遠くの山並みの頂きも雪化粧され、空は雲ひとつない青一色です。足跡ひとつない雪面は、自然の織りなす微妙な曲面を帯び、人工的には作りえない美しさがありました。まだ何者ではなかった自分(今もそうですが)と何物にも侵されていない白一色の世界をどこかで重ね見ていたのかもしれません。若さゆえの感傷です。

そんな自分も年を重ね、そんな雪面にいろいろな足跡を残しながら生きてきたように思います。これも人工的には出来ないものなのでしょうが、出来れば少しでも何かが感じられるような形になっていたら良いなと思います。

これから先も・・・。

2010年12月15日水曜日

最近のお気に入り

最近お気に入りの映像と楽曲がこれです。
NHKみんなのうた12月、1月で放映されているものです。


You-Tubeには、その一部がPVとしてあります。
http://www.youtube.com/watch?v=-Jov6c3r310

タイトルは「グランパツイスト」作曲、作詞は宇崎竜童・阿木燿子夫妻、歌っているのが今回が歌初挑戦でもある名優笹野高史さんと宮武祭ちゃんという11歳の女の子という豪華布陣です。そして、何より良いのが、映像として流れてくる人形たちの表情やしぐさがその情景や風景とマッチしていて、とてもほんわかとした気分にさせてくれます。

人形を制作しているのは、創作人形作家の高橋まゆみさんです。高橋まゆみさんは僕よりもほんの少しだけ年上で、現在は生まれ故郷の長野に住まれ、制作・発表活動をされているようです。同世代と言うこともあるのか、出てくる人形やその世界には親近感を感じます。古き良き時代、郷愁だけではなく、現在にも繋がる何かを感じます。

同じ人形作家では、与勇輝(あたえ ゆうき)さんのものも好きです。作品を見ていると、語りかけてくるような表情に、自分を見透かされたようで、一瞬たじろいてしまうこともあります。これも、描かれている時代に生きてきたという実体験だけから受けるものではありません。

そこには、現代まで綿々と人々の心にいきづいている根っこのようなものがあるからです。

みんなのうたの対象は子供なのでしょうが、その名の通り、みんなに聞いてもらえるように真面目に制作されています。子供だからなんてことは、まるでありません。子供に対してだからこそ、真剣に作らなければいけないのですね。

それほど遠くない未来は、彼らが作るのですから。

2010年12月14日火曜日

「らしさ」

寒波来襲です。今夜あたりから市街地でも雪が降るようなことを天気予報士の男性がテレビから盛んに話しかけてきます。もし、明日の朝、道路がうっすらと雪化粧されていたら、いよいよもって冬の訪れを感じられるかもしれません。


多くの人は、大抵自分の経験の中で事の始まりや訪れを感じるものです。それは「らしさ」から来る感覚です。論理的に言うと、仙台では冬に雪が降るとなりますが、雪が降ってきたから季節はもう冬だよねと感じるようなことです。結果や行動があって、初めてそれ「らしさ」を感じるわけです。

人に対しても、あの人「らしい」よねとか「らしく」ないなといった言い方をします。こと結果を求められる仕事に関しては、そういった評価をされる場合が多いように感じます。これは多くが予定調和を好むことの現れじゃないかと思うのですが、経験知という一種縛りのようなものを自分自身にすることで、思い通りを描き、そうなったことが安心へと繋がるからなのです。

だから、これまでに経験の無いことや自分「らしく」ないことをしようとすると、大抵は立ち止まります。また、人はどうしても他人や社会と関わりを持ちながら生きていますから、自分以外の人に対しての影響やまたそうすることによる自分への対応の変化なんかも同時に考えますから、したいと思う自分自身との間に葛藤が生まれるわけです。

本来「らしさ」というものは、他人からそう決められるものではなく、自然に現れるものであるはずです。人間や動物の赤ん坊が、赤ちゃん「らしく」とか子供「らしく」とかを意識し、そう思われようとしているのかと言えば、そうでないわけですから。

一方、人はひとりで色々な面を持っています。これは多重人格とは違います。本人が気づいていようないまいが、多面性の生き物であるということです。良い面、嫌な面、楽しい面、哀しい面、多面体のサイコロのようなものです。心持ちひとつでコロコロと変化してしまいます。

そう考えると、自分「らしさ」を出すことって、案外と難しいものなのかなと思ってしまいます。こう見られたくないとかこう見て欲しいとか頭で考えている内は、「らしさ」は見えてこないのかもしれません。

表現も然りかな・・・。

2010年12月13日月曜日

いよいよ今週土曜から始まります。

さてと、いよいよ今週土曜から、江口敬写真展が始まります。額待ちだった1作品を本日展示すれば、展示作業は完了です。いつでも、皆さんにお見せすることが出来ます。今回の展示は、作品制作時から江口さんと一緒に検討したもので、彼の描き出す世界が一層明確になるような仕掛けを盛り込んでいるつもりです。手前味噌ながら、自信作と言って良いと思っています。


彼にとっての初個展でもありますから、僕自身彼の前では平静を装いながら、正直かなり力が入っています。但し、突拍子もない奇抜な演出にはなっていません。ごく自然の内にその世界に入り、どなたでも何かしらを感じてもらえるのではないかと考えています。

以前も書きましたが、Sha-gakuで出会い、それからわずか6カ月での個展開催です。これだけで、本当に出来るものなのと言われる方がいらっしゃいます。おそらくは、ただ作品を揃えただけの自己満足的な写真展じゃないのと訝しがる人もいるでしょう。

先ずは、ご覧になって下さい。見られた上でなら、そのような意見に対しては真摯に受け止めたいと思っています。展示会ってある意味そういうものですから。

自己を見つめ直しながら、そこから生み出されたものを作品として昇華させ、「見せる」ことを意識し、構成していくには思った以上の力が必要です。でもね、人って自分が出来ると妄想にも似た確信を持つと、大抵のものは出来るのです。そして、実はそのゾーンに到ってしまえば、既に制作の80%は終了しているとさえ、僕は思っています。

だから、その結果として、身を晒し、評価を受けることは、楽しみではあれ苦痛ではありません。

これは彼の長い人生の中の、たった4週間の出来事です。

見逃されると後悔する、そんな写真展になっていると思っています。

今週末からは是非こちらへ足をお運び下さい。


あっ、もし待っていられないという方は、お電話を下さい。


重い扉をあけますから。

2010年12月12日日曜日

懐かしい思い


昨日北京で行われたフィギュアスケート、グランプリファイナルで優勝したアメリカのアリッサ・シズニー選手がフリー演技で使用した曲です。1982年にリリースされたジョージ・ウィンストンの「WINTER INTO SPRING」というアルバムです。その中の1曲目を使用していたと思うのですが、とても懐かしい思いがしました。


ジョージ・ウィンストンは当時ニューエイジのジャンルで紹介されていましたが、他のイージーリスニング系のそれとは明らかに違った印象を受けていました。今はあちこちで耳にする「癒し」が言葉となって現れた頃のように記憶しています。

その頃はまだレコードでしたが、針を落とした瞬間、強い衝撃を感じたことを、今でも覚えています。そういうアルバムは何枚かあって、最初の一音でその世界観を感じてしまえる類のものです。

何故かこのアルバムを聴くと、同じアメリカの画家のアンドリュー・ワイエスの絵が浮かびます。言うまでも無くアメリカを代表する写実派の大家ですね。彼のオリジナルを見に行ったのは、確か渋谷の文化村で行われた展覧会でしたが、すでにアルバムを聴いてから10数年経った頃だったように思います。

その時も、描き出される荒涼とした大地や草木に、実際の風や匂い、砂埃といったものが感じられ、同時にこのメロディーが頭の中に流れてきました。とても不思議な感覚だったのを今でも覚えています。共通しているのは、どちらもアメリカの原風景を表現している点でしょうか。

そして、昨日偶然テレビから流れてきたその曲は、既に30年近く経っているのに、僕が当時感じた印象や感覚をハッキリと思い起こさせてくれました。これって、素直にスゴイことですね。

もし僕が紹介する写真や展示会を見て、そんな感じを持ってくれる人がひとりでもいたなら、少しはここにギャラリーを置いた意味があるかなとフッと思わせてくれました。

2010年12月11日土曜日

頭は2番目?

このところ寒さが強まっています。どうやら今日は暖かくなるようですが、このところは寒さで眼が覚めてしまいます。部屋にあるガス・ファンヒーターは、こちらに戻る時に購入したもので、今までは夏冬兼用でエアコンを使用していました。2月に越すと決めた時に部屋にエアコンが付いていなかったこともあり、とりあえず用意したものです。これには、夏場はエアコン無しでも行けるんじゃないのとの考えがあったからです。


今までガスは使用していなかったのですが、エアコンに比べるととても柔らかい感じがします。いかにも暖めていますというところが無く、ごく自然にそして思った以上に早く暖かさを感じられます。

多分、熱効率とかの関係もあるのかと思いますが、詳しくは分かりません。polkaもそのあたりは感じているようで、スイッチを付け部屋が暖かくなると、一人掛けソファーでひとりじっとしていることが多いです。そして、僕がいない時間は、ベッドにもぐり込んでいるのです。

幼い頃、薪のストーブを見た記憶はあります。それが学校の教室であったのか、それとも他の場所だったのかは定かではありませんが、いつも上に載っているやかんから吐き出される白い湯気が、季節が冬であることを感じさせてくれました。何となく、そんな情景は郷愁を伴いますね。

いつしか、教室はスチームで暖められるようになり、湯気で曇る窓ガラスも見られなくなり、付け始めのシューという音が教室中響き渡ることが、冬の到来を告げるもののよう思えるようになりました。

それにしても、そういう幼い頃の印象や記憶は歳と共におぼろげになり、あやふやになるものです。それでも、心や身体で感じたことは、形や情景を覚えていなくても、案外強く残っているものです。

やはり、頭で感じるものや思うことは2番目なのかもしれません。

2010年12月10日金曜日

僕が今見たいもの

現在写真は誰もが撮れる環境にあります。携帯であれ、コンデジであれ、何であれ、カメラと名の付くものであれば、シャッターを押せさえすれば、意思とは関係なく、そこに写真として残されます。しかし、自分が意図し撮影を行い、それがまさに自分が思い描いた世界であったり、望んだように写されているかと言えば、そうではない場合の方が多いものです。


ギャラリーに見えられるお客さんの多くは、よくこういう表情を撮れますねとか、こういう瞬間を捉えられますねと言われます。確かにここで展示されるものは、それは数え切れないほどの写真からセレクションし、ディレクションされたものですから、そう思われるのも不思議ではありませんし、むしろ当然の反応だと思います。

今日は天気が良いからちょっと写真でも撮ってみようかといって生まれたものではないということですね。(偶然そうなったということはありますが)そこに価値があるわけです。勘違いして欲しくないのですが、カメラに対しての知識や造詣が深く、卓越した技術を持っていれば、そんな写真が撮れるかと言えばそうではありません。確かにそれだけでも優れた写真は撮れるのでしょうが、その時の感情や思い、考えが見る側に素直に伝わるものではありません。

大事なのは、作品として「見せる」、「見られる」ことへの意識はもちろん、もっと重要な常日頃「見る」ことに自分の意識を働かせているかどうかではないかと思います。これは、言いかえると、漫然とシャッターを押すのではなく、どこを見ているかということです。(例えそれが対象物でなくても良いのです)ある人はそれを「視点」と言ったり、「視線」と言ったりするのですが、そのオリジナリティーや特異性だけが注目される場合もあります。

でも、僕が今見たいと思うのは、もっと内省的で、しかもその対象がどこにでもあるような身近な人やものであって、そこからより普遍的なものへ繋がっているようなものです。具体的ではないので、多分言っていることがよく分からないだろうと思います。

あるものや出来事に、100の美しさや捉えられ方があるとしても、誰しもが感じられる本当のものはひとつしかない、そんな類のものです。

大げさに言えば、「真理」のようなことでしょうか。

2010年12月9日木曜日

年齢

リコーRING CUBEで現在開催中の江口敬写真展に関して、江口さんを紹介した記事がネット上で掲載されています。サイトはこちらです。

展示作品を前にした江口さん本人の写真と共に、展示作品の一部、イメージが紹介されています。記事タイトルは、「写真家になるのに遅すぎることはない!愛機GXRで別世界を目指す」となっています。


僕自身、写真に限らず何をするにも遅すぎることはないと、ずっと思っていました。人間長く生きてくると大抵は色々な経験をすることになります。良いこと悪いこと様々です。そうして、何か新しいことやしなければならないことを考える際に、これまでの経験と照らし合わせるようになります。この時はこうして、こうなったので、今度はこうしようとか、前はこれで失敗したのでこれはやっちゃいけないなとかを自然の内に比較しています。

それは人間的な成長でもあるわけで、一概に悪いことだけではありません。実際の仕事の場では、かなり有効な方法・手段です。プライベートな部分に関しても、先ずは、そのような行動を起こし、そこから結論めいたものを自分で出していく人が多いように思います。

新しいこととの出会いのきっかけや機会というものは、その人が望まなければ訪れることはないとも思っています。そんな状況になった時、時として経験が行動を邪魔する場合があります。自分の中での常識や当たり前と考えることが、新しいものや変わったことを拒絶してしまうといっても良いかもしれません。

そんな時、人はよく年齢のことを口にします。今更この年でとか、やるにはちょっと遅かったとか、自分に言い訳をするわけです。分からないわけではありませんし、事実そう言っている自分がいたことは確かですから、非難しようとは思っていません。

大事なのは、自分の気持ちや考えにしっかりと対峙しているかということです。そして、この行動や姿がたとえ満足しないものであっても、納得できるかどうかなんだと思います。

よく、他人の生き方から勇気を貰い、感銘を受けたと聞くことがありますが、その人自身がそう感じてもらいたくて生きていることは少ないような気がします。ただそうしたいからやっていることなんだと思います。

そして、そこでは、年齢という言葉は無意味なものになるのです。

2010年12月8日水曜日

地産地消

最近「地産地消」という言葉を良く耳にします。今キーボードで打ってもまともには変換されないですから、ごく最近のことなのかなと思います。これは文字通り、地元の食材を地元で消費しましょうよと言うことです。これまで本当に一部の地域であるとか、あまり利用されていなかったものを食品化して消費することで、地元での食材の見直しと地域経済活性を促していくことが主な目的だと思われます。その一方で身近なものにも実は良いものはあるわけで、またそれを違った形で展開していくことも大事だよと言っているように思います。


僕もそうですが、食品や商品は、メディアに載った派手な宣伝効果によるものに目が行ってしまい、何か新しいだけで興味がそそられてしまいがちです。もちろんそれが目的で宣伝しているわけですから、言葉は悪いですが踊らされているといっても良いのです。

ところが地元で地道に販売しているものについては、商品展開は狭く、地味なものですから、広まることは少ないものです。これはその商品の良し悪しを問いません。今は、口コミもかなりの影響を与えているようですが、地域の場合は、その程度や範囲は限られているように感じます。

一方、人の価値観はそれぞれ違っていて、その人が良いと感じるものであっても、ある人にとっては全く興味の無いものであることが普通です。嗜好品は特にそうです。でも、こと生活に関わる部分では、意外に自分独自の価値観で選んでいるとは言えないところがあります。その為に人の評価を聞いたり、情報収集をしたりして、選んでいるわけですね。まぁ、一種の安心感を得たいがためでもあります。

いずれにせよ、価値あるものイコール興味をそそるものではないにしろ、身近にあるものを何の先入観を持たずに見て、その良さを判断することは大切なことだと思います。他人がどう思うとかは考える必要もないし、結局、選ぶのは自分ですからね。

人も然りです。

今、一番待ち望んでいるものは、そんな身近にいる原石のような人との出会いです。

きっと、そばにいるような気がするのですがね・・・。

それとも、夢物語なのでしょうか。

2010年12月7日火曜日

展示に隠された秘密

さてと、ギャラリーの壁に何も無くなりました。


展示前は作品テーマやコンセプトを頭に置き、あれこれ悩みながら作業しますが、僕の場合は、こんな感じで行っています。先ずは全体の流れを把握することを、作品を見て行い、それから流れに沿った展示順番を考えます。その後、それぞれの位置関係を検討し、実際の展示となります。

実際の展示は、まさに作業となりますから、実はそれまでのプロセスに時間が取られます。大抵は僕ひとりの作業ですので、その間はギャラリー内をウロウロとしたり、作品ひとつひとつを眺めているわけです。僕は超能力者ではありませんから、作品自身からここに展示してくれとかこの順番だよとかは聞こえてきません。時間はかかりますが、ここが一番大切な時間ですね。

そうして、しばらく眺めている内に、イメージは湧いてきます。これが正解なのかどうかはその時点では分かりませんが、まぁ、取りあえずはその直感や経験知を信じて、プランを組み立てるようにします。それから、そのプランに従って、展示を行うわけです。

展示で大事な部分は、巧みな空間構成の中で、いかにその作品世界を見る側が理解出来るまたはすんなりと入り込めるようにすることだと思っています。時にその方向に目が行くようにする必要もありますが、それがあからさまに意図的過ぎると、うるさく感じるものです。その辺りは、広告宣伝媒体の展示とは異なります。

展示意図の中には、様々な秘密も隠されています。若干独りよがり的な部分があることも否めませんが、展示も表現の手段ですから、それらが無いと逆につまらないものになります。見る側はそれに気付くかどうかは分かりませんし、誤解を与えてしまう場合もあるので、注意深く、さりげなく、また時にはある程度大胆に行う必要があります。

今日から、壁が徐々に埋まっていきます。

何もない白い壁が、意味ある空間に変わっていくわけです。

様々な秘密を抱きながら・・・。

2010年12月6日月曜日

共感から共有へ

昨日でハービー・山口、ヨーガン・シャドバーグ写真展が終了しました。最終日とあって閉廊時間になるにつれてお客さんも増え始め、いつも感じる少しだけの寂しさと共に素直に嬉しさを感じました。こういったギャラリーは、常時お客さんで一杯になることは先ずありません。これは、首都圏だろうが、地域だろうがどこでも同じです。


それは公的な美術館や博物館、企業や財団が運営しているようなものとは、その方向性やあり方が全く違っているからです。もちろん多くの方が気軽にアートや写真に触れて欲しいとの共通点はありますが、誰もが分かるように、内容や規模といった点では、それぞれの特色を持って行われているのが常です。

歌舞伎評論では第一人者の渡辺保さんが以前話していたことです。要訳すると、演劇には極端なことを言えば2種類しかないと思っています。一度に100人に見せる為の演劇と1000人に見せる演劇です。前者は前衛的なものが可能であるし、後者は大衆的でなければ見に来てもらえません。おのずと、それぞれに求められる演劇の姿が違っているわけで、同じライン上では語れないものです。(ニュアンス的にはそんな感じですが、聞き間違っていたらごめんなさい)

このことはアートの世界でも同じだと思います。そして、僕が今していることは、前者の部類に入るのかもしれませんし、一般の方々もそのように認識しているように感じます。しかしながら、扱っているモノは写真作品と言う誰もが制作可能なものです。そこに付加価値を見いだし、皆さんにお見せしていく必要があるのです。その為にはある程度の大衆性や分かりやすさが重要になります。難解で、さも高尚なものを高飛車に押し付けて、理解出来る人だけが見てくれればいいんだなんてことは、微塵も思っていないわけです。

そういった意味では、昨日書いた「共感」は僕にとって必要不可欠なものです。そこから湧きあがる感動や驚きを直に体験し、それらを生み出す写真家らと同じ思いを共有してほしいということですね。

きっとその瞬間、今いる自分自身や周りの人たちが、実はとてもかけがえのない愛おしい存在であることに気付くはずです。

何はともあれ、多くの方の来廊に感謝します。

2010年12月5日日曜日

また昨夜もイッセー尾形さんを見てしまった。

僕の好きな役者のひとりがイッセー尾形さんです。昨夜もだいぶ前に録画していたDVDを引っ張り出してきて、その一部を見ました。もう幾度となく見ているものですから、どんなものとか何を見せてくれるといった新鮮な感覚は起きませんが、飽きるということはありません。


イッセーさんを初めてテレビで見たのは、確か「お笑いスター誕生」だったと思いますが、他の漫才やコントとは全く違う切り口で、ずいぶんとテレビ的じゃないなと感じながらも、それほど印象的ではありませんでした。その数年後、原宿のクエストホールでの公演を観に行った時に、その印象は180度変わりました。

あくまで個人的な印象ですが、イッセーさんの舞台の中心は、「共感」にあると言うことです。イッセーさんが演じる人々は、一見して変わった人間ばかりのように見えます。実際、見る側も始めはこんな人はいないだろうとか、随分誇張しすぎてやしないかとか感じるのですが、次第にその言葉や表情、態度、そこから移り変わっていく気持ちなんかが、あぁ良くあるよねとかどこか自分でも持っている部分のように思わせてくれます。

それはもちろんイッセーさん自身の演技力やリアルと思わせる技術によるところが大きいのですが、綿密に構成し、ひとりの人間像を作り上げている演出や本の良さに負うところがあります。そして、何より肝心なのが、演じられている空間です。

クエストホールを始め、イッセーさんの公演の多くは、客数200名程度のいわゆる小さい箱で行われ、舞台にはほとんど何もなく、小道具らしいものがいくつかあるだけです。つまり、いやが上にもイッセーさん自身だけしか見ないことになります。表情やしぐさのひとつひとつが入り込んでくるわけです。そんな雰囲気や状況が、見る側の想像を刺激し、日常では決して得られない感情へと繋がっていくのです。テレビや大ホールでは成立しない芸(と言って良いと思ってます)の類と言って良いですね。

そんな「共感」を味わうにはその場にいないと分からないわけで、大衆的じゃないよね、人気があってなんぼの世界なんだからそれでいいのかと言われるかもしれません。それでもイッセーさんはそのスタイルを崩さずに、全国各地で継続的に公演を行っています。

僕はこうも思います。伝えるべき何かが自分にあり、その伝達手段が非常に限られたものであっても、そこでなら自分を表現出来ると確信し、実際の行動として起こせるのであれば、そこに価値は生まれるのだと。

時々取り出してきては、ひとり暗い部屋の中、画面に映し出されるイッセーさんの姿を見ることで、結局はそんなことを僕自身に言い聞かせているのかもしれません。

2010年12月4日土曜日

東京-新青森間、東北新幹線全線開通の日

東北新幹線の八戸-新青森間が本日開業し、東京-新青森間が全線開通したことになります。基本計画から約40年の年月が経っているとの事でした。これで、東京-新青森間は最短で3時間20分で繋がったわけです。飛行機は別にしても、もう日帰り圏内ですね。


約30年前に東京へ就職の為出た時には、仙台-東京間は特急が一番早かったのですが、それでも約4時間を要していました。今は約2時間ですから、半分の時間で行きき出来るようになりました。すでに飛行機の便は無くなり、新幹線による日帰り出張は当たり前で、通勤さえ可能です。

当時この計画に関わり、その現場の中枢を担っていた人たちは、おそらくは30代だったとしても、現在は70歳を越え、ほとんどの人はリタイアしているのだと思います。様々な困難や苦労を抱えながら、この夢のような話を現実のものにするために、一所懸命だったでしょうし、今日の日をどう感じているのでしょう。

地域はあらゆる点で東京から遅れていることは、厳然とした事実で、それは今も昔も変わりません。もちろん東京が飛びぬけて進んでいるだけで、その他の地域は一部を除けばどこもそれほど変わらないと僕は思っています。ましてや、現在はグローバルなネット環境がインフラ整備されつつありますし、情報に関して言えばそれほど不便さを感じません。

しかし、それ以前はどうかと言うと、どの地域も東京との繋がりに重きを置き、そこから得られる様々な文化や経済効果とか生活の利便性を計るように動いていたように思います。実際、その場でしか得られないものは現在でもありますし、ある意味それ自体の優位性は否めないですから。

そんな流れの中での新幹線整備であったのでしょう。それにしても、40年と言う期間はあまりに長く、その間の周囲の状況は想像を遥かに超え、スピードを増して変化してきてしまいました。この便利な乗り物によってもたらせる効用は、今の一時的なお祝いのような時期を過ぎてから徐々に現れてくるのでしょうが、効用ばかりではないことは誰しもが感じているはずです。

開通を不安視して言っているのではありません。とても素晴らしいことだと思います。

それでも、個人的には単純に選択肢とツールが増えたぐらいと思っていた方が良いように感じます。利便性や効率だけでは計れないもっと大事なものは今でもあるのでしょうから、殊更に東京を意識する必要はないですよ、と言うことです。

2010年12月3日金曜日

polka・・・・少しだけピンチでした。

大雨です。そして、びしょ濡れになりながら、polkaを病院へ連れて行った帰りです。そう、いつもの糞詰まりが2日程前から起きてしまい、ちょっと無理そうなので今朝一番に連れていき、一旦預けてきました。


今回も麻酔無しで処置してもらいます。病院の先生曰く、麻酔中とても呼吸が弱いらしく、そのまま逝っちゃうかもしれないからと言われ、鎮静剤を打っての施術になるようです。こんな時にブログなんて書いているのはどうかと思うのですが、これも言葉として交わせないpolkaへの励まし(大部分は気の弱い僕への励ましですが)でもあります。僕自身は何も出来ませんから。

それにしても、朝から聞く言葉として、死であるとか逝くとかはまるで予想していないものなので、一瞬動揺してしまいます。いずれは訪れる決められたことであっても、素直には受け入れられないものです。polkaにとって、糞づまり自体苦しいことなのでしょうが、その施術によって逝ってしまう可能性があるとは思ってもいないはずです。何かまた変わったことが起きたぐらいにしか感じていないのかもしれません。

今は、再度迎えに行くまでに無事済んでもらうことを願うだけです。polkaは理解はしていないだろうけど、僕が一番苦しかった時期を見て、そばにいました。だから、僕も同じように見ていてあげないといけないんだろうと思います。

・・・と書いているところに、携帯に着信が。

鎮静剤もせず、終了したとの連絡です。普段は抱かれるのも嫌がる程ですから、見た目以上に体力は落ちていたのかもしれません。すぐに病院へと迎えに行き、状況の説明を受けましたが、それでも結構暴れたらしく、先生もちょっと苦笑いです。polkaにとっては、おまえら寄ってたかって何をするんだよと言いたかったのでしょう。

部屋に戻り、キャリアーから出した途端に、自分の居場所を探すようにウロウロとしていました。やがて、安全を確信してから、眠りにつくのでしょうが、僕の方も先ずは一安心です。

まぁ、これが現実なんですね。普段幾度となく流れる事故のニュースに対しては、まるでフィクションであるような感覚を持つ場合が多いし、それによる感情の揺れも大きくはありません。それが、本当のこととして身に降りかかってくると、初めて現実であることを意識し、気持ちが高ぶったり、消沈したりするものです。

でも、そんな現実としてあり、間近で感じられることの方が、良いにせよ悪いにせよ生きているってことなんだろうと、僕は思うわけです。(例えそれが死といった哀しい事実であったとしても)

polkaは時々、身を持って、その事を気づかせてくれる相棒でもあるのです。

多分、誰の周りにもそんな大切なものがあるはずですよね。

2010年12月2日木曜日

「NEXT GENERATION」@リコーRING CUBE 

次の写真展を予定している江口敬さんが、昨日から東京銀座にあるリコーRING CUBE 9Fフォトスペースにおいて、若手写真家紹介企画「NEXT GENERATION」として紹介・作品展示されています。会期は1213日(月)までです。リコーRING CUBE のサイトはこちらです。

18日(土)から行われる個展に先駆けて、首都圏初お目見えになります。こちらでの個展の準備もあり、かなり大変だったと思いますが、先日送られてきた展示状況の画像を見る限りは、とても整然と綺麗に展示され、僕も一安心していたところです。


個展の準備は順調です。リコーでの展示は8点になりますが、個展では20点を予定しています。展示の状態はリコーのそれとは趣きが違い、ある展示コンセプトの下、行われます。見ていただき、その一部でも感じてもらえれば良いなと思っています。

彼との出会いは、Sha-gakuでした。わずか6カ月前の話です。その時は壁2面に4点の額装品を展示し、話の中でいつかは個展をしたいですねぐらいのものでした。その後、リコーでの展示が決まり、再度僕を訪ねて来てくれたのが、8月の熱い日でした。ややあって、個展開催を決定したのですが、全ては彼の意思によるもので、その意思が僕を動かしたわけです。

何かとんとん拍子に話が進んだように思われそうですが、そうではなりません。彼自身が行動したからそうなったのです。そして、彼の中で、表現することに向きあい、発表することを考えた時、その機会は今しかないとの気持ちが、そうさせたのだと思います。

彼はきちんと正職を持った、一アマチュア写真家です。それでも、真摯にそして謙虚に発表へと向きあう姿は、アマチュアだからなんてことは一切感じさせません。そんな彼の個展開催に当たり、僕自身手伝えることは喜び以外の何物でもないわけです。

既に終わったような物言いをしていますが、全てはこれから始まります。

2010年の最後を飾るものとして、皆さんが感動し、共感出来るモノをお見せしたいと考えています。

是非見に来て下さい。

写真展詳細はこちらです。

2010年12月1日水曜日

残された時間~すごく個人的なこと

今日から師走です。外は案外おだやかで、暖かさすら感じますが、これから本格的な冬となります。年を経るごとに、時間の進みが早く感じられるようになると言われますが、個人的にはそういう実感はあまりありません。それよりも、自分の中に残された時間が徐々に減っているのだなと思うことはあります。


これは、人生をネガティブに考えていることとは違っています。限りある生は、この世に生まれた時にすでに決められたことなので、事あるごとにあれこれ悩んでいても仕方ないことです。それよりも今どうしたいのかと自分に問いかけ、そして、それは残された時間の中でやるべきことなのかを考えるようになってきました。

若い頃は、今したいと思うことと現実とのギャップに悶々としながら生きてきました。その頃は、いつかはきっととか将来的にはといった、遥か遠い未来の姿を思い起こせるだけの時間がまだたっぷりあると錯覚していたように思います。

実際そうではないことは、誰もが気付いていることなのですが、日常という大きな波にのまれたり、逆に穏やかな波間を漂うことに安堵を覚え、前者はのまれまいとしてもがいているのが精一杯で、後者は永遠にこのまま続いていくことを夢み、あえて考えようとは思わなくなります。それが良いことなのか悪いことなのかは、今でも分かりませんが、誰もが経験する通過点のような気がします。

だからと言って、世の中に対して、ひとりひとりが残された時間を考えて、何かをしていきましょうよと言うつもりは全くありません。これはすごく個人的なことだと思っています。結局は、その人それぞれに好きなように生きれば良いのですから。

過去は覆せないし、先のことは誰にも分かりません。なので、僕としては、残された時間に対して、今出来ることを考えていくしかないように思えるわけです。

しかもそれは出来るだけ自分にとっても、前向きであることを願いながら。

2010年11月30日火曜日

「Good job!」

「Good job!」


外国の方がよく言われる常套句のひとつです。直訳すると、「いい仕事をしたね」となるのでしょうが、先のフィギュアスケートのグランプリシリーズ第6戦、フランス杯で優勝を決めた小塚選手に、2位になったフランスの選手が英語でそう声をかけている姿が映し出されていました。日本でも、よくテレビに出る古美術商の言葉ではありませんが、数年前からそんな言われ方を聞くようになりましたよね。

さて、ここで言う「仕事」とは、どんな意味を持つのかということになります。小塚選手はもちろんプロではありませんし、フィギュアスケートを仕事として捉えているかどうかも本人にしか分かりません。ですので、この場合、「良かったね」とか「素晴らしい」といったねぎらいであったり、称賛の言葉としての意味を持つのだと思います。

一方、実用としての価値を持つ工芸や陶芸といったものや大量消費財として世に出ている商品について当てはめてみると、文字通りプロの仕事としての結果を称しているように思えます。それは、主にそこに表れている技巧や使用した上での感想のようなものに近いのかもしれません。

実用性のないアート作品(中には実用性を備えているものもありますが)についてはどうなのかですね。もちろんアート作品も商品としての側面を持っています。それが無いとビジネスとして成立しないですから。それでも、それを鑑賞したり、購入する人たちからはあまり「いい仕事をしているね」という言葉が出てくることは少ないものです。そんな言葉が出たとしても、意味としては、小塚選手のケースに近いのだと思います。

作品であれ商品であれ、そのものを販売するには、有形無形の価値を持っている必要があります。それがいわゆる「仕事」の結果です。でも、その価値は、結果として生み出されるものだけではなく、作り上げた人(表にあらわれなくても)自身にそれを見出してもいいのです。モノを作る姿勢であったり、生き方そのものであったり、テーマ性や世界観に価値を感じることは何も不思議なことではありません。

人が生きていくことは、ある意味「仕事」であるように感じることがあります。ですから、個人的には、「Good job!」と言えたり、言われたなら、損得考えずにそれで良いとさえ思えます。大抵の人も、そうなんじゃないかな。(それが意識的であるか無意識の内であるかは別にして)

さて、そんなことを考えながら、今日も「仕事」を始めるとします。

2010年11月29日月曜日

朝の情景

通勤する人に紛れて、朝一番から自転車で街中まで走らせた帰りです。それにしても、行きかう人たちの顔は一様に寒さでこわばり、みな足早にビルへと逃れているようで、案外自転車で通勤している人は少ないですね。この時期ですから、実際、颯爽と自転車を走らせているほうが変わっているのだろうし、全身に当たる風の冷たさは、考えただけでも身を震わせてしまうものですから、この情景が普通なのだと思います。


さて、いよいよ師走、今年最後の月になろうとしています。今年も全てをギャラリー企画展として、12月開催予定の江口敬写真展を含めて、計7回開催したことになります。一回の会期が長いので、たったそれだけと思うかもしれませんが、僕としてはブランク無く続いたよなといった思いです。これもひとえに皆さんの協力があってのことだと感謝しています。

僕は写真家ではありませんから、作品制作という内省的な活動をしていません。それでもいつもこれでいいのか、違ってはいないかと自問しながら、企画等の検討を行っています。正直、時にすごく孤独な作業のように思えます。パソコンに向かう自分の姿を、俯瞰して見ているもう一人の自分を感じることもあります。

だから、今日のように朝から人々が仕事へと向かうというごく当たり前の情景が、とても新鮮に映ったり、その中に自分がいることを不思議に感じたりするのです。2年前まではそれが自然で、しかも何も疑わずにしてきたことであってもそうなのです。まぁ、生活の為が第一になってしまうとそうなってしまうものなのだと思いますが、ストレートに仕事イコール生活の糧と考えていなかったところもあったわけで、その辺りの変化は自分でもよく分かりません。

ただ唯一言えることは、今僕が行う行動の全ては自分自身の責任であり、良いにせよ悪いにせよ自分に帰ってくるものだということです。組織としての盾もなく、自分を晒しながら生きている人は、世の中にはたくさんいます。おそらく、そんな人たちはみな同じような感覚を持っているのではないかと思います。

大それたことは出来ないし、それ相応のことをしていくこともままならない毎日ですが、足跡ぐらいは残していきたいと思っています。

たとえ、それが風で飛ばされる砂上のものであっても、

誰かの記憶の片隅に残るなら・・・。

2010年11月28日日曜日

ある一曲

昨夜部屋に戻り、テレビのスイッチを入れた時、聞き覚えのある歌声が聞こえてきました。山下達郎さんでした。この季節になると決まって聞こえてくる例のクリスマスソングではありません。今年、新曲として出した映画の主題歌であることはすぐに分かりました。


番組は「めちゃイケ」で、そのエンディングに使われていました。その映画で主役を演じた岡村隆史さんが体調不良で休養後、番組へ復帰していたのですね。「希望という名の光」とてもそれらしく、良い歌だなと改めてそう感じました。

僕が若かったころ、一時期、山下達郎さんばかり聞いていたような気がします。そして、シュガー・ベイブを遅れて知り、その結果大貫妙子さんも聞くようになっていました。「DOWN TOWN」なんかは良く聞いていました。そう言えばこれも「ひょうきん族」に使われていたので、お笑いには縁があるのかなぁ。

そんなことを考えながら、ある一曲を思い出そうとしていました。

なかなか思い出せないその曲は、「希望という名の光」を聞いていた時、ふと僕の記憶の底から浮かび上がってきたもので、その時点ではメロディーと歌詞はおぼろげでした。あれじゃない、これじゃないと次々上がる候補の中で、ようやく思い出した曲がこれです。

「蒼氓(そうぼう)」

意味は無名の民だったように記憶しています。

どこかで「希望という名の光」との繋がりを感じますし、僕のとても好きな一曲です。

また、今だから聞いて欲しいと思える曲でもあります。

http://www.youtube.com/watch?v=BQjZE66yhks

昨日、今日と音楽の話になってしまいました。

言葉とメロディー、あるいはメロディーだけであっても、特別な道具や手段も用いず、何も無いところから意味あるものを生み出し、表現し、人を感動させてくれるものってあまりありませんからね。



2010年11月27日土曜日

「時をこえ」


先ずはこちらを読んでみて下さい。


先日今年のNHK紅白歌合戦メンバーが発表されました。その中で初出場することとなった、沖縄出身のHYというバンドの「時をこえ」の歌詞です。

正直なところ、この発表があるまで、僕はHYを知りませんでした。(もっと他にも知らない人はいるのですが)HYってなんぞやと思い、ちょっと調べて、この曲を見つけました。

過去にそこで起きたことを伝え続けること、それがたとえ忌わしく哀しい出来事であったとしても、起きてしまったことを何もなかったことにすることは出来ないというすごく当たり前のことを再認識させられました。

メンバーは全員80年前半の生まれです。実体験のない話に説得力が無いかと言えば、決してそうではありません。もちろん体験に基づいた話は、それだけで圧倒的ではありますが、それを伝えることは出来るものです。

伝えたいものがあることやそれを伝えようとする姿勢は、年齢と共に目ざめ、育っていくものではありません。キャリアがそうさせるものかと言えば、全くそんなこともありません。

必要なものを強いて挙げれば、どれだけその事実や思いに向かい合い、自分自身と語りあっているかなんだと思います。

2010年11月26日金曜日

テレビ小説「てっぱん」

polkaを膝に乗せながら、NHK朝のテレビ小説「てっぱん」を見ることがすっかり毎朝の日課になっています。その前の「ゲゲゲの女房」も楽しく見ていましたし、世間では大評判となっていましたから、次のものは大変だなとは思っていました。どうやら順調な滑り出しのようで、実は今日も朝から涙してしまいました。


時代設定は現在なのですが、舞台が大阪で、下町のお好み焼き屋であるので、何か「昭和の匂い」のようなものが感じられます。現在よくあるモダンなお好み焼き屋ではなく、僕が幼い頃に母の実家の近くにあった店のような感じなのも、そう思わせているところなのかもしれません。

ヒロイン・瀧本美織さんの屈託のない笑顔や素直な感情表現を見るたびに、目を細めている(おじさんですから)のですが、なによりおばあちゃん役の富司純子さんがとても良いですね。富司さんは現在64歳ですから、まだおばあちゃんという感じでもないのですが、世間的にはそうであって不思議はないわけで、年相応の役を演じていることになります。

かつては芸名藤純子として「緋牡丹のお竜」で一世を風靡し、今はもうほとんど見られない任侠映画の大スターでした。大スターという言い方も昭和的ではありますが、当時でもそういう風に言われる方はわずかだったと思います。

その後結婚で一時引退、テレビでの司会で復活後、80年初めに芸名を改めて、女優としての仕事を再び始めたことは、多くの人が知っていると思います。(今の若い方は知らないだろうな)娘さんが、あの寺島しのぶさんです。何か説明・紹介のようになっていますけど、まぁ今では信じられない程、遥かに遠い存在の人だったわけです。

そんな富司さんが演ずるのが、出た当初はかなりいけすかない大阪のおばあちゃん役でした。それでも、頑固で口の悪いおばあちゃんでありながらも、その立ち居振る舞いには、ただの大阪のおばあちゃんには見られないような趣が出てしまうものです。(決して悪気はありません、あくまで一般的なイメージとしてです)

何より姿勢が良いですね。背筋をぴんと伸ばして、真正面から見据えられて話されてしまうと、もう内容は分からなくても、思わずうなずいてしまうほどの気品や威厳のようなものを感じてしまいます。これは、文字通りの姿勢の良さだけではないのですよ。生い立ちや環境もあるのでしょうが、長年培ってきた生き方そのものへの姿勢の良さなのです。

僕は7年程前に、プライベートの富司さんを見かけたことがあります。演目は忘れてしまいましたけど、寺島しのぶさんが出演する舞台を見に来た事があり、僕も偶然その場にいました。確か、渋谷のシアターコクーンだったと思います。開演時間間際になって、係に案内されながら、会場へ入って来たのですが、薄紫の着物姿の富司さんは、それだけで会場内の全ての眼がそちらを向いたといって良いほど、一瞬で多くの人を魅了出来る人って確かにいるのだと思わせてくれました。

開演間際に入ったことには、おそらくはあまり前に入ると場内が混乱してしまう可能性がるとの配慮だったと思われるのですが、本人の意向だったような気もします。そう思わせてしまうってこと(勝手な推量かもしれませんが)も、実はスゴイところです。

少しだけもいいから、姿勢を正し、背筋を伸ばそう。そして前を見据えていこう。

毎朝、僕をそんな気にさせてくれるのです。

2010年11月25日木曜日

感情は主観的なものだから

すっきりと晴れ渡っている朝は、すがすがしさと同時に凛とした趣があります。今日もそんな冷気が肌を刺し、日差しが眩しい朝でした。今の季節はまだ冬ではなく、晩秋にあたるようですが、その言葉自体に幾分もの哀しさを感じます。


四季のある日本では、それぞれの季節で自然は姿を変え、僕たちの前に現れてくれます。それは、僕たちが望む、望まないに関わらず、気が付けばいつものようにそこにあるものです。気付けよと声高に言ってもいませんし、押し付けがましいところもありません。

ただ、そこに或るだけです。そんな移り変わりを眼で追い、肌で感じ、あるいは香りとして得ることで、勝手に形容しているだけなのです。

だから、秋はちょっともの哀しいと言われても、秋という季節を形づけるもの達は、決してそんなつもりでいるわけではなく、むしろそんなことはないよと言いたいのかもしれません。その辺りが、人が感情の生き物だと言われる所以なんだろうと思うわけです。

僕は、感情というものは常に主観的であると考えています。主観的であることは、例えばそこにある花を見た時に、誰ひとりとして同じ感情を抱かないことでもあります。「美しい」の一言の中には、いくつもの意味があるように、そこから生まれる感情も無限であって良いわけです。

表現する者は、自分自身の思いや疑問といったものを伝えようとして、具体的に形づくるもので、時に意に沿わない理解や感情を持たれることがあります。(表現者としての立場から見て)それがよりパーソナルな部分から発生している場合は、特にその確率は高いもののように思います。

もちろんそこから普遍的なものへ繋がったり、拡がりがあるのなら、意図した部分を感じてもらえる率は高くなります。そこには、無理や押しつけがないことが重要ではあるのですが、案外そういったものは、作りだそうとする以前に身近にあるものなのです。

自然もそのひとつです。

そんな日常にある美しさやいとおしさをすくい上げ、磨きをかけて目の前に提示するだけでも、表現者としての意義はあるわけです。

しかも、それはごく一部の人に対してであっても構わないとさえ思っています。

生まれる感情が主観的であるのなら、全ての人に同じ感情を抱かせることなんて不可能なことなのですから。

2010年11月24日水曜日

「隣の芝生は青く見える」

「隣の芝生は青く見える」


誰もが知っていることわざ、慣用句じゃないかと思います。簡単に言うと、他人の物が良く見える例えですね。僕を始め、他人(身内であっても)と比較し、その有り様や持っているものなんかを羨んだりすることは誰しもが抱く感情をひとつです。まぁ、その中身には、それほど違うものではないとの意味も隠されているのでしょうが、素直にそう感じてしまうことは往々にしてあるものです。

その根底として、あまり認めたくない不公平感があるわけですが、そういう状態になった時に、どういう行動を取るかが大きな意味を持つように思います。自分は自分だとして考えたり、いつかはそうなればとの思いから前向きに動いたり、仕方ないよなと現状に甘んじることを良しと思ったり、人それぞれ色々な考えを持ちます。

では、様々な表現手段を持って、形あるものとして創造し、何かを伝えたいと思っている人も同じように感じるのかと言うことになります。本来、オリジナリティーや自分の世界観をメッセージとして表現しているわけですから、他人のそれと比較しても仕方ないと思われますが、実際はそうではありません。

同じ人間である以上、感じ方の大小や影響力の違いはありますが、皆そんな気持ちを抱くのだと思うのです。どうしてこの人の作品からは伝わってくるものが明確に有るのに自分のものは全く伝わらないとか、この色や表現はどうやったら出来るのだろうとか、感心したり、嘆いたりしているわけです。そんな疑問や問題を自分自身に問いかけながら、現状から飛び出そうと模索している姿は、修行僧のそれを思い起こさせます。

それでも、そうした事をしているまたは出来る環境にいることは、まだましです。望んでいてもそれすら許されないもしくはその環境が目の前にあってもそこに飛び込めない人々は、僕の眼にはもっと哀しく映ります。

以前、人が環境を作らなきゃと書きましたが、その思いは「自分ちの芝生を青く見せる」ことに近いのかもしれません。しかし、これは、決して他人との比較や競争ではありません。先ずは自分が行動として表わし、可能性を示そうよということを意味しています。

きっとそれが、求められる大人としての役割のような気がするのです。

2010年11月23日火曜日

維新派 「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」


維新派による「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」が、彩の国さいたま芸術劇場で間もなく開幕されます。これは、<彼>と旅をする20世紀三部作と題され、第一部の南米篇「nostalgia」、第二部の東欧篇「呼吸機械」に続く最終作になります。


2010年7月下旬に開かれた瀬戸内国際芸術祭2010の中で、瀬戸内海・犬島で初演され、その壮大な野外ステージで繰り広げられた舞台を、劇場空間に持ち込み、新たな展開を見せてくれるのではないかと思います。

維新派の演劇・パフォーマンスを一言で語るのは非常に困難です。昨日、DVDで「nostalgia」を観たのですが、やはり、観なければ伝わらないなと改めてそう思いました。彼らの舞台では、セリフらしいものはありません。その代わりに、単語化された言葉を全編通して流れる変調子のリズムに合わせて発語されます。見ている人はたとえそれが日本語であっても、一瞬、何を言っているのか分からない時もあります。

そして、舞台上にはいつも何十人単位の役者が、同時多発的に物語に沿った踊りを繰り返します。踊り自体も独特なもので、ある時は組体操のそれを思わせ、またある時は能楽を想起させる動きにも見えます。

何より、特徴的なものは、そのほとんどを野外で、しかも設営から撤収に到るまで、全てメンバーで行っている点です。そのスケール感は見るものを圧倒し、背景にある自然をも舞台の一部としているので、その場で、その時間でしか感じられないものを表現しようとしているのです。

今回の埼玉公演は、野外でのステージをどんな形に変化させてくれるのかが楽しみのひとつです。(残念ながら、観には行けないのですが)犬島公演の際の、プロモーション映像がこちらです。

http://www.youtube.com/watch?v=xur5MaS65y4


興味がある方は、ちょっと交通の不便な彩の国さいたま芸術劇場へ足を運んでみてはいかがでしょう。宣伝のようになってしまいましたが、僕自身、維新派の舞台は、表現における演出性という点では、日本でも突出していると思っています。


観るたびに新しい刺激や発見を僕に与えてくれます。

2010年11月22日月曜日

休日の自転車行脚

さてっと、今日は外出しなければいけません。次回の江口敬写真展のDMをいつものように置いてもらう為です。DM自体は1週間ほど前に出来上がって来たのですが、今週は外出出来る時間がなかったこともあり、こちらで住所登録されていている方々と今週ギャラリーへ訪れていただいた方以外は目にしていないと思います。

今回は結構スタイリッシュに仕上がっています。それがこちらです。


現在ギャラリー内にのみ、プレDMとして他に2種類のデザインのものが用意されています。こちらのプレDMを会期中お持ちになれば、フォトブックを特別価格で購入になれます。もちろん、サイトでも特別価格で予約受付中です。お早めにお申し込み下さい。
http://kalos-gallery.com/shop/takashi_eguchi.html

プレDMはこちらになります。12/5までの限定配布です。




また、本日中に告知する予定ですが、会期中にギャラリー・トークを行います。江口氏は今回の作品全点をリコーデジタルカメラ GXRで撮影、制作をしています。これは、一般の方にも手に出来るカメラです。そこから作品として生み出されるに到る技術的な部分や表現している世界観なんかも聞けると思います。基本的に質疑応答スタイルで、気軽な感じで行えればいいなと考えています。

そんなわけで、これから、またまた休日の自転車行脚(大げさ!!)をします。

寒そうな顔をして、馬の尾っぽのように長くなった髪をキャップで押さえながら、自転車を走らせている姿を見かけたら、それが多分僕です。

2010年11月21日日曜日

アート性

ハービー・山口、ヨーガン・シャドバーグ写真展 Two in One in England も早いもので残り2週間となりました。本作品は1970年を境に撮影されたイギリスの人々や情景ですが、撮影された土地や環境、なにより写真家自身が見ている視線や距離感に違いがあります。その辺りは、おそらく、どなたでも気付かれるのではないかと思います。


同じ対象物を撮影したものであっても、同じものはひとつもありませんし、撮る人によりいかようにも変わってしまうのが、写真の面白いところでもあります。それが、写真家の個性や表現の多様性に繋がっていく結果として、作品性や作家性が生まれてくるのだと思います。

現在はデジタル化に伴い、その表現の幅は拡がったと考えています。ある種の人は、デジタルで制作された作品に対して、果たして本来の写真として足り得るものだろうかと疑問を持っていることは確かです。しかしながら、アート性という観点から考えると、個人的にはアナログとかデジタルといった方法、手段によるものではないと思っています。

そもそも日本では、芸術という概念が現れたのは明治以降だと言われているようですし、比較的新しい価値観であるわけで、今ではその範囲も拡散し、何が何だか分からないよねといったところが本音なのかもしれません。人は常に進化しながら(後退している部分も多くありますが)、自己のオリジナリティーを作り上げ、より良きものへ進んでいっていきたいと願っているはずです。

しかしながら、どれほど文明が発達しても、人の感情そのものは古来からあまり変わっていないようにも思えます。実際、喜怒哀楽は程度の差はあれ、どの時代でも共感可能なものとして理解出来ますからね。

だからこそ、現在の或る姿や形なりを自分なりに考え、表現していくしかないのかなとも思うわけです。その為には、過去の歴史を振り返る必要もあるだろうし、方法・手段の選択も大きな要素になってきます。重要なのは、それらは結果として生み出されるものの為の要素ではあるけれど、価値観そのものではないということです。

世の中には同じものがどれひとつ無いと言われていますが、そうでなければオリジナリティーであったり、やがてそこから生まれてくる価値といったものも感じられないのだと思います。

もっとも、それを見つけるまでが、とても辛く苦しい道のりではあるのですが・・・。

2010年11月20日土曜日

色鮮やかなモミジ達

今年の紅葉は例年以上に色鮮やかできれいなようです。テレビから流れていた京都のモミジは、画面で見る限りでも真っ赤に染まっていました。


紅葉は秋口から光合成により蓄積された糖分が更に紫外線により赤く変化すると、どこかで読んだ覚えがあります。それだけで、赤く色づくのかと気になり、ちょっと調べてみたところ、離層という組織の発生が大きな影響を与えていることが分かりました。

紅葉の後、葉は落ちるわけですが、葉の根元できれいに落ちることに以前からとても不思議な感じはしていました。どうやらその切り離し面を離層といって、紅葉の前に植物自ら作るもののようです。離層は葉にある水分や糖を幹へ流れて行くことを妨げ、その結果として紅葉が起き、離層の出来により色づき方は変わると言います。

今年は季節による寒暖の差や11月の雨の影響で、色鮮やかな紅葉には好環境だったわけです。それにしても、紅葉って、落葉樹にとっては、葉が落ちる前の一大イベントのような気がするわけです。もちろん自発的にというか、もちろんモミジ自体はその考えを持って、離層を作り、今年も赤く色付こうと思っているわけではありません。その全ては生存のために行われているものです。

それでも、僕はそんな行程(行為?)に一種の潔さや尊さのようなものを感じてしまいます。植物は一年一年生まれ変わるわけで、その寿命はやはり一年しかないと言って良いと思います。毎年繰り返し行われることですが、何か最後のあで姿を見せる為に生きてきたような気もします。

自然は非常に身近で、ごくありふれた情景のように僕たちの前で立ち居振舞っています。しかしながら、そこに到るまでのメカニズムや構造はとても複雑であり、意味深いものであるのです。しかもその行いの全ては純粋に生きるという一点にあり、なおかつ僕たちの目には決して見えないものなのです。

だからこそ、人はみなその姿を美しいと感じるのかもしれません。

2010年11月19日金曜日

「トマトバジル」って。

今日もいつものようにビルの前にある自動販売機で缶コーヒーを買ったのですが、3台ある内のひとつにふと目が止まりました。毎朝飲むものは決まっているので、普段はそれを買うとすぐにギャラリーへ入る(外は寒いですし)のですが、何故か今日は隣の自動販売機に目がいってしまいました。


三段ある内の一番下が暖かい飲み物だったのですが、その中に3種類のスープがありました。おそらく2、3日前に入れ替えをしたと思われるその自動販売機は、常にスタンダードな飲み物しか売られることがなく、滅多に覗きにいくことはありませんでした。そんなタイプのものだったので、余計気付いたのかもしれません。何年か前から、自動販売機でもスープの類は販売されていますので、さして珍しいことではありませんが、今日僕が見たものはちょっと変わった部類に入るのではないかと思います。

それは、「トマトバジル」と商品名を付けられたものでした。缶全体が赤で塗りつぶされ、正面に白い皿に盛りつけられたイメージがあり、小さく「盛り付けイメージ」と記入があります。これまでも、ポタージュやコンソメ系は良く目にしていましたし、たまには僕も買ったりしていましたけど、トマト系のスープは僕自身初めて見るものです。

すでに知っている方は多くいらっしゃるとは思いますし、飲んだ人もいるのでしょう。味はほぼ想像出来ます。おそらく、トマトジュースの延長線上にないことだけは確かです。

それでもどんな時にそれを選び、飲もうと思うのだろうかと考えてしまいました。

今ではスープだけの専門店もありますし、お客さんもいらっしゃいますので、もう普段から日常的に楽しむものなのかもしれませんが、単品で午後の休憩時間に飲む姿をあまり想像出来ません。晩御飯のちょっとした御供にと、そのまま食卓におかれてもちょっと困った状態になるような気がします。やっぱり、少なくても皿に移すのでしょうね。

メーカーはいろいろな意見や考えで商品化までしたのでしょうし、それなりのマーケットを予定しているのですから、おそらくは、今日はトマトスープで一服をという人もいるのかもしれません。確かに僕も試しに飲んでみようかと一瞬頭をよぎりましたから、それなりに購入する人はいるのでしょう。

これで、味が想像を越えていたりすれば、それはそれで有りなんです。

家庭ではほとんど作ることは無いと思うし、レストランでもあまり出てこないものだけど、それなりに想像出来るものだけに、最初の一口で決まっちゃう、そんな商品ですね。

先ずは、大真面目に商品化を決定した人に拍手を、といった気分ではあります。
(決して馬鹿にしているのではありませんので、誤解なく)

2010年11月18日木曜日

ボージョレ・ヌーボー解禁

ボージョレ・ヌーボー解禁


フランス産ワインの新酒「ボージョレ・ヌーボー」が18日午前0時に解禁になり、そのイベントの状況がテレビに映し出されていました。円高や直輸入の増加等で以前と比較するとその内容は幾分下火のような感がしますし、何かもう特別のものというよりもいつもの恒例の行事のように思えます。

僕自身普段からワインを飲む習慣がありませんので、殊更に待ってましたとばかりに飲もうという気は起きません。最近ではペットボトルやサイズを変えて、値段を下げ、誰でもが手軽に手に入るような売り方が見られます。これも、その時期でしか売れない事の現れなのかもしれません。

習慣や嗜好といった個人的な部分に関わるものは、なかなか変わらないものです。ましてやそれがその地域や環境から育ったものであるなら、それ以外のものを受け入れることは容易ではありません。必要に迫られてとか、それがないと生活に支障があるといった切迫した状況がある場合には、仕方なくそれに従うようになりますけど、大抵の場合は受け流してしまうものです。

アート作品もそんな中のひとつなのかと思います。特に写真作品については、誰もが制作出来るし、印刷物やポスターなんかで日常的に眼にしますから、余計購入までしたいと思う人が少ないのが現状です。また、美術館等で眼にする作品の数々は、大変高尚であり、芸術性を有するものとして、その場に行く前の前提条件として頭にインプットしている為に、鑑賞し、楽しむもしくは理解することで自己完結したいと思ってしまいます。もちろん、美術館にあるものをその場で購入は出来ませんから、その先の行動は起きるわけがありません。そんな文化習慣は、日本全国どこでも見られることで、これが当たり前であるわけです。

それでは、作品を制作する作家にとって、その評価はどうなるのかということになります。簡単に言ってしまうと、それは作品を購入してもらう事にあります。小説とかマンガとかの出版物(デジタルでも同様です)を、一般の方に買ってもらうことと一緒ですね。違っている点は、一般的に思うほどの金額で手に入らないことにあることです。その為に、作品に感動し共感を持って購入したいと考えていても、やはり待てよと躊躇してしまうのです。

その辺りは、僕自身がもっとも良く理解しているところでもあり、そのことが常に葛藤となっています。でもね、この境界のような部分をクリアにしていかないと、極端な話、作家として活動出来る人はいつまでたっても現れてこないとも思うわけです。

僕に出来ることは限られていますし、それはとても小さな力でしかありません。

だからと言って、ただぼんやりとしていても何も起きないことは確かです。

ボージョレ・ヌーボーでも飲みながら、考えてみますか。

2010年11月17日水曜日

展示会の紹介です。

今日は少し毛色の違う(写真ではないという意味で)展示会のご紹介です。

展示会毎にいつも来て下さっているステンドグラス作家の野田律子さんの個展です。


僕は常日頃写真作品に触れ、年中そればかりを考えていたりすると思われがちですが、写真以外のものも努めて見ようとしています。理由はいろいろあります。物理的にモノとしてのアート作品に触れてみたり、インスタレーションを見たりして、単純に気分を変えたいと思うことの他に、何か今までは気付かなかったことや新たな考えが浮かんだりはしないかと思っているようです。


昨日もゆっくりと雑談をしながら、野田さんが話された「写真って難しいですよね」との一言がずっと頭に残っていました。確かに、写真は誰でも撮ることが出来るし、本来持っている記録としての役割から作品としての表現へ変わることには、誰しもが理解出来るものではないのかもしれません。ここで言っている「理解出来る」とは、作家が伝えようとしていることや思いといった形として現れていないものに対してであって、イメージから受ける感情や感覚についてではありません。

見る人は先ずイメージに強く惹かれるもので、出会ったその瞬間がとても大事なものになります。これは写真に限らず、どのアート作品にも言えることです。それでも、写真家はイメージそのものに、自分自身の感情や考えを表現しているとは限りません。むしろそうでない場合の方が多いように思います。

つまり、表層として見える部分以上に、そこから想起される世界観や感情の揺れといったものを伝えようとしているわけです。しかしながら、その思いは、独りよがりであったり、ごくごくパーソナルなものである為に、結果として理解されないことになる場合が多いのです。そういった展示会を見て来ている人たちにとっては、「写真って難しい」となることは当たり前のことだと思います。

これは、野田さんがそんな展示会ばかりを見てきたと言っているのではありません。敢えていうなら、写真を作品として制作し創造するものは、意識して伝えることを考え、「見せる」必要があるのでは、ということで、そこを無視していたずらに発表を繰り返しても、見る人にとっては、やはり写真って一部の人にしか分からないものなんだよねとしか思われないと言うことです。

さて、野田さんの作品展は、民家のようなカフェを会場に行われるとのことです。何か野田さん自身の紹介をしていないので申し訳ないのですが、タイトルのように、さりげない美しいものがきっと眼に出来るのではないでしょうか。

僕も自転車をひとっ走りさせようと思っています。

興味のある方は、是非行かれて下さい。



工房 碧(あお)のステンドグラス作品展 -ちいさいものたち-

2010年11月28日(日)~12月3日(金) 11:00~16:00

カフェ gratitude(グラティテュード)

仙台市青葉区梅田町1-56 tel: 090-2957-7263






2010年11月16日火曜日

休日の午後

昨日は休廊日だったこともあり、午後からは少しだけのんびりと部屋の方で過ごしました。寒さは感じましたが、ストーブは焚かずに、ソファーに胡坐状態で座り、毛布にくるまっていると、待ってましたとばかりにpolkaが乗ってきます。一週間溜めこんだ洗濯物を洗濯機で回しながら、しばらくはじっとガタガタ、ゴトゴトと奏でるその音を聞くでもなく一緒にぼんやりとしていました。


平日の午後2:00、ほとんどの人が仕事をしているであろう時間に、polkaの柔らかい毛を撫でながら、さて、何をしようかと考えている様子はあまり良い絵ではありません。しかも最近はプライベートで取り立てて何かをしたいという気持ちがあまり起きなくなってきています。よくない傾向だと自覚してはいるのですが、何もしないことも或る意味良いことと自分に言い聞かせているところもあります。

こんな時は大抵、芝居のDVDを取り出してくることになるのですが、昨日はDVDの棚の前であれこれ選んでいる内に、手にしていたのはボックスになっている映画でした。

「トリコロール」

制作はフランスですが、ポーランド、ワルシャワ出身のクシシュトフ・キェシロフスキ監督の三部作(フランスの国旗に因んで、赤、青、白とタイトルが付けられた作品)です。僕はこのすごく覚えにくく、言いづらい映画監督の作品が好きでした。全くもって娯楽性は感じられないのですが、何気ないひとつひとつのシーンは、自身により巧みに計算され、おそらくは全てのシーンにおける小道具のひとつひとつまでその意味や意義を説明出来るのではと思わせてくれます。かといって、監督のこだわりや演出が見え隠れしているだけかと言えばそうではなく、ちゃんとテーマに沿って、物語として成立しているところが彼のすごさなのだと思っています。それでも、その好き嫌いははっきりするタイプのものですね。ヨーロッパ映画にはそんな類のものが多くありますから。

さて、僕は三部作のどれを観たかというと・・・、実は作品は観ませんでした。このボックスにはサービストラックとして、監督、俳優のインタビュー集が一枚のDVDとしてまとめられていて、昨日はそれを見ました。(本作と合わせて4本セットになっているわけです)

このインタビュー集は何度見ても不思議と飽きません。むしろそのたびに違った思いを持たせてくれます。普通は説明されると何かつまらなく思えたりするものですが、全くそんな感じをさせずに、その時々で様々な考えを思い起こさせてくれます。いわゆるおまけ的なものでは無いところが良いのです。

ご興味がある方は、どこかで手に入れて見て下さい。

きっと、何かを表現をしようと思っている人にはとても興味深いものだと思います。

見終えた後、来月の催しはこれにしようかなと、考えながらふと横を見ると、polkaはすっかり夢の中です。

瞬間、ちょっと羨ましく感じてしまいました。

2010年11月15日月曜日

バレーボール女子世界選手権 メダル獲得おめでとう。

バレーボール女子世界選手権で、32年振りに日本がメダルを取りました。前日のブラジル戦の敗戦を引きずらずに、フルセットの末獲得したものです。チームを率いる真鍋監督のiPadが話題になっていましたが、スタッフからの的確な情報と伝達が功を奏したことも、勝因のひとつなのでしょう。


また、今朝のスポーツ紙には「光速の魔女」との見出しがありました。これは、セッターがトスを上げてからアタッカーが打つまでの時間が通常約1.4秒であるのを、日本は「1.1秒以内に打つ」と目標値を設定し、身長や体力といったすぐには解決出来ない部分を速さと組織力でカバーしようとするものです。わずか0.3秒です。すぐにも出来るように思われますが、選手本人にしても現在これが完成形だとは誰も思っていないでしょうね。それほど、大きな差であるわけです。

今回のメダル獲得には様々な理由があるのでしょうが、やはり敵はもちろん自分も含めた情報分析とその対策をより具体的に示したこと、そして明確な目標設定によるモチベーション維持なんかが大きなものだったように思います。

ここで、一番大事なところは、最後のモチベーション、つまりは「気持ち」なんだと、僕は思うわけです。選手は日本代表として、その責任の重さを僕らが想像する以上に感じ、一日中バレーのことを考えているような生活をしているはずです。それを支えるものとして、周りの人の支援や応援があるわけですが、何より本人の「気持ち」の強さが重要になってきます。

さて、ここから教訓めいたことを考えてみると、

わずかな差が大きな成果へと繋がる、現状分析から具体的なアクションを起こさなければ意味が無い、そして何より「気持ち」はその行動原理のもっとも重要なファクターである、

といったところでしょうか。

これは、単純にスポーツに限ったことではありませんね。そして、忘れちゃいけないのは、それを達成するには時間が掛かることで、それでも完成なんてしないものだということです。

ぐちゃぐちゃと悩んでいるだけでは、停滞しているだけですから、昨日より今日、今日より明日へとほんの少しでも前進していけば良いのです。やはり、実際の行動として起こさなければいけないということですね。

そんな檄を飛ばされた気分になったのは、僕だけでしょうか。

2010年11月14日日曜日

ドイツからの便り


2日前に届いた一通のエアメール。


そう、前にこのブログにも書きましたが、会社勤めの時の部下だった男がドイツから僕宛に送られたものです。そこには、ドイツに滞在して34日目と書いてあります。おそらくは、言葉も文化も違う毎日に翻弄されながら、加えて全く新しい仕事に四苦八苦しながら過ごしているのだと思います。

お世辞にもきれいな字とは言えない文面を見ながら、一時的とは言え、日本からひとり離れ、心細いこともあるのでしょうが、何とか楽しんでやっている姿を想像しました。どうやら、工場でけがをしたらしく、人生初の救急車搬送を経験したようで、とても心配です。文面では大事には至らなかったとありましたが、本人曰く「大槻ケンジ」のようになると思いますと書いているので、やはり心配になります。

文化や環境が違う場所で、たとえ短期間であれ、観光ではなく、実際に生活を送る経験は今後の彼の人生にとっても貴重なものになると思います。おそらく、日本人であるとかドイツ人であるとか、国民性の違いや違和感を覚えているのではないかと想像します。そして、自分が日本人であることを強く意識していると思います。

普段、日本で何気なく過ごしている僕たちは、日本人であることのアイデンティティーを感じることは滅多にありません。むしろ、個人としてのそれを意識しながら、他人との関係に幾分煩わしさを覚えながらも、それはそれと納得させて生きているような気がします。

それでも、例えは陳腐ですが、昨日の女子バレーブラジル戦を見ている時、冷静にゲームを楽しみながらも、日本人として応援している自分がいることを否応なく感じます。これは、日本に生まれ育ち、自然に培ってきたものではありますが、もし海外で日本人として生まれ、そこで育てられた場合はどうなのだろうかとも考えてしまいます。

そう考えると、やはり日本人としてのアイデンティティーよりも、むしろ個としてのアイデンティティーの方が生きる上では重要なことのように思えてしまいます。だからこそ、国が違っていても心から理解出来たり、同じ地域にいながらも全然一致するところがないような事が起きるわけです。

まぁ、そこには相手に対する尊厳とか寛容といったものがなければいけないのですが、何かその辺りは徐々に失われていっているように感じます。彼が帰国して、人やモノの対する感覚がどう変わるかは分かりませんが、おそらくは以前のそれとは違うだろうなとは思います。

いずれにせよ、今或る時間や置かれた自分を楽しみながら、元気にやって欲しいだけですね。

ハガキをくれてありがとう。(でも、このブログは見ないだろうな・・・。)

2010年11月13日土曜日

深夜の映画

深夜3時頃に目が覚めてしまい、仕方なくテレビを付けてしまいました。10年前までは当たり前のように起きていたこの時間帯も、今ではもう滅多に起きていることは無くなりました。テレビから映し出されたものは、外国の男女2人が会話している姿でした。


よく知った2人の顔からその映像がなんであるかは、すぐに分かりました。

「ビフォア・サンセット」(Before Sunset)です。

深夜の時間帯だったこともあり、地上波では珍しく字幕で放送されていて、聞き覚えのある声が静まり返った部屋に拡がりました。polkaも物音に気付き、のそのそと歩きまわった後、一度伸びをしてから、僕の膝の上に乗ってきました。いよいよもって、もう少しはこのまま見ていなくちゃいけないような感じになってきました。

この映画は、「ビフォア サンライズ 恋人までの距離」(Before Sunrise)の続編で、この時もそうだったのですが、全編2人の会話だけで物語が進む形を取っていました。出演している2人の俳優にはそれほど興味は無かったのですが、その時はなにかドキュメンタリーのような感じで、自然な会話が新鮮に映りました。もっとも、自然にああいった掛けあいが繰り広げられることはありえないのですが。

物語は簡単に書いてしまうと、9年前の出来事を小説にした男性がプロモーションでパリを訪れた時、彼女と再び出会い、男性が飛行機でパリを出るまでのその日の数時間に交わされた2人の様子が描かれているだけです。会話は前回同様軽妙かつ自然なよそよそしさもあり、以前にも増して脚本の良さを感じさせます。

とても都会的で洗練した感じではあるのですが、イーサン・ホークの雰囲気が男の女々しさを感じさせ、また、ジュリー・デルピーの強さに隠された本当の弱さみたいなものが見え隠れするたびに、どこにでも普通にある日常であるかのような錯覚を覚えます。

実際こんなことってほぼあり得ないし、あったとしてもこれほどの親密感を持って過ごせるとは思えないし、その辺りが同じリアリズムでも映画の中の出来事なんですね。でも、見る側は、そう良く分かるよねとか親近感があるよねとある種のシンパシィーを感じるんです。そこに面白さや共感が生まれるから、娯楽としての映画があるような気がします。

さて、僕は最後まで観たのでしょうか。ややあって横になった僕のお腹の上で、興味なさげにじっと僕を見ていたpolkaだけが知っています。

また、2人がどうなったのか、興味のある方はレンタルビデオで観て下さい。

2010年11月12日金曜日

一線

今朝は寒さが顔に来ました。朝起きる前からタイマーを設定してガスストーブを点火させていればそんなことにはならないのですが、今からこれではとの気持ちもあり、そうはしていませんでした。人から見れば大した理由にもならないものです。


個人的な問題や行動に関わるものの中には、そういった理由もなくやってしまっていることはあるはずです。他人との関わりが発生し、それが一般常識として通用しないものであったり、抵抗されるであろうことは、自分の意に反していても、我を通すことはあまりありません。でも、100%個人的に消化されるようなことについては、他人が首をかしげようが、苦言を呈してこようが聞かない場合がありますね。

信念とか生き方とかそんな大それたことではなくても、譲れない一線のようなものです。朝のガスストーブを付けておかないことは当然ながらそれには当たりませんが、本人が気付いていようがいまいが、自然にそうしていることって必ずあるのではないかと思います。

これがどうしても他人と関わりを持ってしまう場合、その時どうするかが問題になってきます。大抵の場合、意見の衝突や議論であったり、上下関係による軋轢なんかが生まれてくるわけで、損得やお金が絡んでくると一層複雑なものになってきます。それでも、お互いに良いものを作り上げていくにはといった同じ目標でそうなっているのなら、まだ救われます。そうではなく、互いのエゴだけでぶつかり合っている場合は、傍から見ていても最悪に感じられます。

物を創るもしくは生み出す人たちのほとんどは、そんな一線を持っています。これが時折エゴと見られたり、理解不能なものと捉えられる場合があり、アーティストはちょっと変わった人のような印象を与えています。本当は全く違っていて、そんな人だけが目立つだけです。一般の方と変わらず毎日生活し、些細なことで悩む普通の人たちが多いのです。

ただ少しだけ違うのは、その一線が一般の人と比べて、固くて太いことだと思います。

だから、その線が崩れたり、ブレたりすることが少ないわけです。そして、作品を通して自分の思いを伝えようとし、俯瞰した眼で時代を敏感に察知しながら、自分の居場所なり立ち位置を考えつつ、世に問いかけを行っていけるのです。

まぁ、あまり固く太くなってしまうと、ちょっと敬遠されがちになってしまいますが、そこもアーティストと言われる所以でもあると思いますし、何よりそれが自然に行われていることの方がその人にとっては大事なのです。

2010年11月11日木曜日

「1」 が横並びする日

今日は11月11日です。


「1」 が横並びする日ですが、年一回、必ず来るわけでとりたてて珍しいことではありません。ましてや、来年になると2011年ですからさらに「1」が並ぶわけで、でも年明け1月1日や1月11日でも似たようなものですから、あまり話題に上がらないのかもしれません。

それでも、毎朝大抵のテレビ番組で行っている占いやネット上で自分の今日の運勢を見ている人は沢山いるでしょうし、日にちについても結構気にする人がいるのでは、とは思います。また、イベントや商品販売なんかは、それにあやかって企画を立てている場合がよく見られます。

個人的にはそんなことよりももっと大事な日があるわけで、ただ物珍しいから何かをすることはあまり聞きません。自分や親しい人たちの誕生日であったり、結婚記念日なんかの方が、はるかに何かをする価値がありますし、個人的なことだからこそ価値があるのだと、僕は思います。

何かを共有する感覚は、その範囲が狭ければ狭いほど濃くなるものです。会社の組織に属している場合、全体の方針であったり、社是は理解しているものの、結局は担当となった部署内の具体的な行動や関係性の方が強いものです。ましてや、利害関係があまり無い(と思われる)家庭や家族であればなおさらのことです。

僕の場合はあまり記念日的なものはありませんし、それほど多くの人たちとの関わりもありません。何か寂しい人生のように思われるかもしれませんが、本人はいたってその辺りには無頓着な性格ですから、気にするまでに到っていません。

毎日ギャラリーを開け、それほど多くの方は見えられませんが、そんな方々が自然に語りかけてくれる瞬間があるから、それで良いとさえ思っています。毎日がそうかと言えば、決してそうではありませんし、もしそうなったらそうなったで、逆に困惑してしまうような気もします。

毎日が記念日のようだったら、何が本当なのかがぼやけてしまいますから。

少なくても良いから、もっと濃い中身を望んでいるのかもしれません。

もし、それが感じられたのなら、その日が記念日になるのでしょうね。

2010年11月10日水曜日

フォトブック

江口敬写真展では、作品はもちろんのこと、フォトブックとポストカードの販売を予定しています。


展示は数週間のイベントで、残念ながら来場して下さるお客様にしか実際の雰囲気や感覚を伝えることは出来ません。それに、映像や写真で会場の状況を残しても、それは単なる記録です。そこが展示会として意味あることではあるのですが。

今回の個展は彼にとっても初めてのことでもあるし、僕は何か形として残るもの出来ないかといろいろと検討しました。その結果として、あまり大げさでは無く、小振りのフォトブックを選んだわけです。

江口氏には失礼な話ですが、彼は写真家としてまだまだ無名に近い存在と言えます。そんな彼がフォトブックを作っても果たして売れるのかとも考えました。それでも、そんなリスクや不安よりも、彼の作品を多くの人に見てもらいたいとの気持ちの方が上回り、彼もそれを理解してくれ、制作することとしました。

さて、制作はするけど、印刷と製本をどこでするかという段になった時、僕の頭に真っ先に浮かんだのは、以前から青森からわざわざギャラリーに来ていただいていた印刷会社の方にお願い出来ないかということでした。早速連絡を入れたところ、快諾して下さいました。ホント、感謝です。

実を言うと、ネットでもそのようなサービスはありますから、そちらも検討には入れていました。でも、何か顔の見えないところでビジネスライクに制作することに、何故か違和感があり、結果、依頼してみることになったのです。

フォトブック制作は現在進行中です。きっと良いものが出来ると確信しています。



福島在住の写真家の個展を仙台で開催し、青森で制作されたフォトブックを販売するわけで、非常に個人的ではありますが、東北3市(県?)が繋がった感じがします。
これも全て、人の縁から生まれたものですね。

フォトブックは現在、特別価格で予約申し込みを受付中です。
嬉しいことに、昨日から申込みが入っています。

是非多くの方に購入のご協力をお願いします。

2010年11月9日火曜日

街をぶらぶらと

昨日はサイト更新後、久しぶりに街に出てみました。街に出ると書くと何か普段は山奥に住んでいるようですが、ギャラリーも充分に街中にありますので、ご安心を。実際、休廊日以外は自由な時間が午前中だけですから、よほどのことが無い限りは出歩けません。時間も限られているので、じっくりと見て歩くことすら出来ないのが現状です。


まぁ、ひとりで全てを行っているので仕方ないのですが、時々自由業とは名ばかりだよと言いたくなります。昨日はこれまた久々に穏やかで暖かく、自転車を走らせていてもそれほど風の冷たさは感じませんでした。そんなこともあり、ほんの少しだけ色づく紅葉も見ることが出来ました。仙台は常緑の木が多いので、この時期になってもあまり秋を感じられないなと思っていましたが、ぐるぐると走ってみるとそんな光景を見かけることがあります。

普段目にしている日常の風景や情景は、ただその場にいるだけで、注意して見なければ、さまざまな変化に気が付かない場合が多いです。むしろ、そんな気付かない小さな変化にこそ、新しい発見のようなものがあるように思えます。もちろん、それには注意深い観察や先入観なく物事に接するだけの余裕が必要になってきます。

今ここに或るもの、起きていることがこの場では日常で普通のことであっても、他の人の眼には違って見えることは当然のことです。その為に、人は外の世界や他文化に触れるように、旅行とかをするわけです。別に、生まれてから死ぬまでをひとところで過ごし、一度もそこから出ないことがあっても、特別生活をする上で支障になるわけでもなく、外の世界を殊更に知る必要もないのですが、多くの人は違う世界に足を運びます。より良いものを見て、実際に経験したり、そこから喜びや驚きを見出したりすることは、人の本能に近いものなのかもしれません。

さてと、駅前から一望した仙台の風景は、個人的にはまるで東京の街を寄せ集めたように見えます。ビルの看板も建物に入っている名前も聞き覚えのあるものばかりです。確かにスクランブル交差点や歩くのもままならない人込みの多さはありませんが、まるで映画のセットのように感じます。余計なお世話なのですが、ここに暮らす人々は、このような都市空間のレプリカが便利で快適な生活空間と感じているのかなと思ったりもします。それも、そこにいる人々の本能に近い願望であるのなら、それはそれで間違いではないのでしょうね。

そうは思いながらも、今はそこではない部分に目を向けていこうと考えている自分がいるわけです。

すぐには変わるわけではない現実と自分自身にある多くの矛盾を抱えながら・・・。

2010年11月8日月曜日

早く更新しないと・・・。

さてと、昨日お約束したように、出来るだけ午前中にサイト更新をしようと思っています。
でも、遅れたらごめんなさい。


江口敬写真展では、テーマ性や作品性はもちろんのこと、「見せる」ことをかなり意識した展示会になっています。僕は写真家ではありませんから、自分で撮影し、作品制作を行っていません。写真家の作品を紹介し、展示・販売をしているだけですから、はたから見れば、誰でも出来そうなものだとも言えます。

写真家の中には、その展示において、コンセプトや方法を綿密に検討する人もいます。それでも自分自身の思いや考えが、見る側に実際伝わるかどうかは不安になるものです。その為、ディレクターやキュレーターの存在が重要になってきます。いわゆる第三者的な立場の人間の意見や考えですね。しかも、その第三者は誰でも良いわけでは無く、写真家が思い描く作品観や写真家自らをも理解していなければなりません。ある意味、一体となってその全容を制作していく必要があるわけです。

僕は作品におけるテーマやコンセプトを明確に表わすことと、展示してその世界を表現することとは密接な関係性を持っていなければならないと考えています。写真作品は、絵画等のように、額装にしても展示方法にしても華美であったり、奇抜であったりすることはあまりありません。時代とともに、やや変化はしていますが、一般的にはそうであり、その辺りは賛否両論分かれるところではあります。

僕自身も殊更に演出し、華美にする必要性は感じませんが、展示におけるテーマやコンセプトはあってしかるべきものだと思っています。しかも、それはかなり自由であって良いと。こんな風に書くと、江口敬写真展はかなり変わった展示会のように思われそうですが、それも見る側の自由であって良いと考えています。

今言えるのは、いわゆるギャラリー然とした展示ではないということです。



おっと、時間がなくなってしまいます。先ずは更新作業をします。

詳細はサイトで!!

2010年11月7日日曜日

さて、サイト更新するぞっと。

ハービー・山口、ヨーガン・シャドバーグ写真展 Two in One in Englandも折り返しになりました。残りまだ1カ月ありますので、是非お見逃しなくお出で下さい。特に、ヨーガン氏の作品は日本ではほとんど見る機会がありませんし、ドキュメンタリー作家らしい視線が感じられる今では珍しいタイプのものと言えます。ハービー氏との違いも見れますので、現在スナップ撮影をしている多くの写真愛好家の方にも、参考になることは間違いありません。


そうこうしている内に時間は過ぎて行くもので、そろそろ次回の写真展の情報をサイトでも告知しないといけません。次回は、福島在住の江口敬氏の個展になることは、サイト情報として一部掲載していますが、イメージ等詳細情報は一切載せていません。(Sha-gaku参加時のポートフォリオ作品一部はSha-gaku Special Siteで見ることは出来ます。)


初個展となる今回の作品は、Sha-gaku延長線上のものもありますが、そのほとんどはあるテーマに沿った新作になります。現在の彼自身が感じているもしくはこれまで感じていた世界観や写真との関係性を表現したものです。何かこう言葉にすると独りよがりの、難解なものと思われるかもしれませんが、全くそんなことはありません。


見る人それぞれが違った感覚で捉えてもらって構わないし、単純に目にしたものを体感として楽しめるように展示構成も考えています。そういった意味では、全ての表現がギャラリー全体で行われているわけで、実際に目にしてもらうことで理解や共感と言ったものを得られるようにしたいと考えています。

ひとまずは、明日サイト更新をしようと思います。(さぁ、ちょっと忙しくなるぞと、こうして書いている今の自分に言い聞かせています。)

お楽しみにお待ちを!!

2010年11月6日土曜日

「箱」

今朝の情報番組の中で、築地場外市場のビルの中にあるお寺が紹介されていました。5階建てと思われるビルの3階から上がお寺のようで、屋上には自動の鐘突き堂もあります。4階が本堂で、その上のテラスのような部分にお墓が足の踏み場が無いくらい並んでいました。最近は都会ではお墓事情も色々なスタイルが出てきていて、ビル自体のフロアを納骨堂にして、例えは悪いですがコインロッカーのような感じで並んでいる様子を以前見たことがあります。でも、今回のそれはまるっきりお墓が並んでいるので、逆に不思議な感覚です。墓地って郊外の小高い丘にあるようなイメージがいまだに残っているので、そう思うのでしょうね。いずれにせよ、お墓があるだけでもまだましなのかもしれません。


よく芝居の劇場やギャラリーなんかを「箱」と言いますけど、人は生まれてから死ぬまで、いや死んでからも「箱」の中にいるような気がします。僕にとって、「箱」から浮かぶイメージは、覆い隠されて外から見えない、その中で何が行われていても不思議ではない、そんな感じです。

家族として一軒の家に住んでいても、多くの人はそれぞれの部屋を持ち、自分自身の「箱」を持っているものです。もちろんそうではない人もいますが、おそらくは見えない「箱」のようなものに包まれながら生きているような気がします。これは、家族であってもひとりひとりが別々に生きているものなんだよとか結局は他人とは分かち合えないとかを言っているのではありません。

うまく言えませんが、人がこの世に生を受け、幾度も待っている困難や苦労の現実から、唯一逃れることが出来る空間を本能的に感じ、無意識の内に退避出来る、そんな場所のようなものです。ある人はその中で妄想したり、希望のエネルギーを自分自身に注入したり、ほんの些細なことに喜びを見出したり、深く思考したりと、決して他人には触れられない聖域のようなものなのかもしれません。

そんな場所をいろいろなところに持っている人は、ある意味、幸せなんだと思います。中には苦しいだけの「箱」に入っていると感じている人もいるのでしょうが、本来そういう「箱」なのかどうかを本人ですら気付いていない場合もありますから。

僕は今、どんな「箱」に入っているのか、その「箱」は何を僕に見せてくれ、何を隠してくれているのか、問いかけは音も無く闇の中に消え去っていきます。

今はまだ・・・。

2010年11月5日金曜日

言葉

人が表現する方法はさまざまありますが、もっとも理解しやすく、どなたでも出来うるものが言葉です。日常的に意思の疎通を図る手段として使われているわけですから、話す或いは書くことで考えや思いを伝えようとしています。このブログだって、拙いながらも言葉を介して、日々更新されています。


小説や詩歌といった書き言葉によって綴られたものと、ネット上に現れるリアルタイム的な文字情報は、その表現の意味合いが違います。前者には書き手の真意が必ず見え隠れしていますが、後者は書いている情報とその目的がイコールだということです。主観と客観と言ったら良いのかもしれませんが、最近はどこまでが主観でどこからが客観であるかの境界が曖昧に思えてしまう時があるので、それともちょっと違うかもしれません。

何であれ、人は常に表現をしなければ生きていけないことだけは確かなようです。生活する為には、うわべ使いの言葉であっても、その場限りであっても、他者とコミュニケーションをとらなければ、自分の欲しいものを得ることは難しいですし、必要なものを手に入れることすら出来ませんからね。その為に、意識しようがしまいが、常に一所懸命に言葉を使っているのだと思います。

言葉というものは、その人の強烈な武器にも個性にもなります。何気ない一言が人を幸せにしたり、逆に失意のどん底へと突き落としてしまったりしますからね。同じ言葉でも、この人から言われると何故か安心したりするけど、他の人だと逆に不安になったりしますから、とても不思議な力を持っているのだと思います。

そんな言葉を日常的に当たり前のように使い、生活をしている僕たちはきっと不思議な存在なのでしょう。そうすると、言葉を使わずに何かを表現しようとしている人たちはもっと不思議な人間のように映るのでしょうね。

2010年11月4日木曜日

寒い・・・。

それにしても寒いですね。約30年振りに仙台に戻ったのが、昨年の一番寒い2月でしたが、その時は今よりもそれほど寒さを感じなかったように思います。おそらくは、自分の中でもかなり寒さを覚悟していて、その想像との違いがそうさせたのかもしれません。


今年は、9月までの猛暑とのギャップが大きく、わずか1カ月の急激な変化に身体と頭が付いていってない感じですね。polkaはどうかと言えば、相変わらずですが、やはり寒さは感じているようで、好んで温かい場所にいようとします。

僕のいない昼間は、ベッドにもぐり込んで寝ているし、帰ってくればソファに座っている僕の膝の上に乗ってきます。一番温かいものが僕ですから、単純に暖を取りに来るだけなのでしょうが、夏場には見られなかった行動です。毎年そんな感じかと言えば案外そうではなく、ネコらしく気ままです。

そんなpolkaの姿を見ながら、時々本当に自由で気ままなのかと考えてしまうことがあります。昼の間は自分だけしかいないわけで、その状態が自由であっても、閉ざされた空間にいるだけなので、案外ストレスを感じながら、時間が経っていくことを待っているのではと思ったりします。

夜になり部屋へ戻った時に、ドアの前で待ち構え、開くと同時に鳴いてみたり、足元に頭をこすりつける行動は、今日もひとりがんばったよと表現しているようです。その後、決って水とエサを要求するわけで、それは自分に対しての当然のご褒美のような感覚なのかもしれません。

そんな行動にことごとく馬鹿みたいに僕は答えるので、一層そんな気持ち?を助長させていることは分かっているのですが、やはり無視することは出来ません。そこには、外の世界を知り、もっと自由に動けるほうがネコらしいのではとどこかで思っているからなのでしょうね。

僕が毎朝部屋を出て行く時に、polkaはその姿を離れてじっと見つめています。鳴きも騒ぎもしません。また、戻ってくるだろうと軽い気持ちでいるのかもしれませんが、本当のところは分かりません。

今夜あたりからガスストーブに火を入れようと思います。

2010年11月3日水曜日

今日は文化の日です。

今日は文化の日で祝日です。本年度から東北文化の日なるものを東北6県で決め、先週の10月30、31日がそうでした。東北文化の多様性を県境を越えて親しんでもらうきっかけになればとの趣旨があります。今日も、さまざまな美術館・博物館等の文化施設が無料で開放されたり、各種イベントが開催されるようです。


僕もそうですが、文化というと何故か芸術やそれに類するものを連想し、この文化の日もそんなものに触れる日のように感じるのですが、実際のところ、文化と芸術は違うものです。感覚的には文化が芸術を内包しているような気がするのですが、誰しも普段はほとんど気にも留めていません。むしろ、文化は日常そのものであり、その中で常に芸術に触れていると言った方が良いように思います。

文化とは、「総じていうと人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体」(Wikipediaより引用)と、何だかよく分からない定義をされています。ようするにそれぞれの社会や環境から導き出された知識、教養、信仰、道徳、法律といったものを、その社会に属する人々が理解し、それに属し、普段の暮らしぶりの中に沁みついたものと言ったところなのだと思います。

その為、地域(日本を問わず)ごとにさまざまな文化があり、その価値観もまるで違っていたりするのです。現在は情報が錯綜し、しかも急激なスピードでその内容が入手出来る状態ですから、実際、その場にいなくても経験し、理解したつもりになれるようになりました。でも、それはあくまで「つもり」であって、実際のところは、その場にいなければ分からないことだらけなのです。何故かと言えば、普段の暮らしぶりとしていないからですね。

じゃあ、文化はその土地や地域でしか感じることが出来ず、とても閉塞したものかと言えば、そうではありません。そのあたりが矛盾しているように思えますが、他文化や価値観の相違を理解、容認し、独自の文化に取り込むことは全くもって自由なのです。だだし、ただ便利になる、他でもそうしているからとやみくもに利便性や効率性を文化の名のもとに取り入れても、それは不毛で哀しいことです。

さて、今日は文化の日です。一日ぐらいはそんなことを考えてみても良いと思います。

先ずは、天気も良いことですから、冷たい秋風に触れ、ほんの少しだけ違った気分で周りを眺めてみてはいかがですか。

2010年11月2日火曜日

BGM

今回の写真展で流れているBGMは、これっとひとつに決めていません。その日や週により変えています。それじゃあ、作品とマッチングしないのではと思われますが、その辺りは気にしながら選んでいます。


そもそもこういった展示会でBGMなるものは必要なのかということがあります。僕自身基本的にはいらないと思っています。但し、よりよく作品世界や作品性を理解してもらう為のファクターのひとつとして考えるべきだとは思っています。過度に演出する必要もないし、見る人の邪魔になるようなものであってはいけないものです。

よく音の中で、1/fの波長は人に対して癒しや安らぎの効果があると言われています。お店なんかで良く聞くものの中には、それを意識しているだけのものが流れていることがあります。店の雰囲気や商品イメージを効果的に感じさせる事が主な目的ですね。

写真展のような作品一点一点や全体としての世界観を表現しているものは、その見せ方で決まるものであるべきだし、その他の効果を取らずに行われるのが本筋なのだと思います。しかしながら、表現しているものを直に見る人に伝えることは、非常に難しいものです。

自分が考え、思うこと、そしてそれが具体的な形となった作品は、多くの人にその思いなりが伝わるものだと思われがちです。実際は、そうではありません。タイトルから受ける印象、作品ひとつひとつの違い、そして全体の構成から受ける感覚は、人それぞれで、感じるまま思うがままであるはずです。

その為に作家や僕のような者は、より理解してもらえるような工夫をするわけです。そこには押し付けのような過剰な説明があってはいけませんし、作家の意図とは異なった印象を与えるものは必要ありません。僕はその検討や作業を、さりげない心遣いのようなものだと思っています。

さて、今週は何を流そうか。

2010年11月1日月曜日

完成することなんて絶対にないのですから。

昨日はワークショップを行いました。参加された方は3名と若干少なかったのですが、その分レビューも含め濃い内容を話させてもらいました。時間もあっという間に過ぎ、気が付けば20:30をゆうに回っていました。


2人の写真を見せてもらい、話を聞かせてもらうと、写真が好きであることは充分に伝わってきます。そこから見えてくるものには、素直な感情や思いといったものが表れていて、僕自身とても楽しい時間を過ごすことが出来ました。

それでも、その写真たちを作品として発表までとなると、本人も認識しているようでしたが、ほんの少し時間はかかります。なにより、発表する、伝えるもの自体が明確になっていなければいけません。人はだれしも、自分がする行為に対して、意味を求めるものですから。

また、どなたもそうなのですが、写真やそれを撮影していることに対して、非常に謙遜されます。東北人の気質もありますが、こちらでは特にそう感じます。人に見せ、評価を受けることは非常にこわいことです。これまで自分が信じてしていたことが、一言で崩されることもあるわけですし、基本的に批難されることや否定されることを嫌がりますから、その予防線として当たり前なのかもしれません。(実際平気でそんなことを言うレビューワーもいますから)

それと、よく聞くことは、今の私ではまだまだで・・・という言葉です。何を持ってそうは話されるのかは良く分かります。おそらくは、他の作品を展示会であったり、写真集であったり、それを目にし、こんな写真を取りたいと感じているからなのだと思います。そして、ひとつの到達点のようなものを、無意識に自分で決めてしまい、自分が本来撮りたいものであったり、望むものを撮り損なっているケースが多く、結局は何を撮っていいかいいのかとか自分には明確なテーマが見つからないと思ってしまうのです。

影響を受けたり、模倣したりすることは大事なことです。否定するつもりはありませんし、それを1つの目標とすることも悪いことではありません。それでも、同じカメラを何人かに持たせ、撮影をしてもらった場合、同じような写真が集まるかと言えば、そんなことはありえません。何故なら、そこには人それぞれの意思が働いているし、その意思自体は同じものであるはずが無いからですね。

人と違うから面白いわけで、私はまだまだで・・・といって、自分の中に理想や完成形を作らないほうが良いと思います。

だって、完成することなんて絶対にないのですから。

2010年10月31日日曜日

野沢那智さん死去のニュースを見て。

俳優で声優の野沢那智さんが、30日午後3時36分、肺がんのため亡くなった、とのニュースが流れていました。享年72歳だったと言います。長寿大国日本と言われ、男性、女性問わず平均寿命が延びている現在では、まだ若い死に入るのかもしれません。


白石冬美さんと組んだ深夜番組「パックインミュージック」は、僕の中学時代の愛聴番組でした。そう、ラジオです。当時はラジオが唯一僕と世界を繋ぐ手段だったように思います。もっとも、ハガキを送ったり、電話を入れたりとか参加をするまでではありませんでしたが。

それでも、いつも何かここでは無いどこかを感じさせてくれて、そんな世の中を見たいと思い、ひとり早く大人になることを夢見させてくれました。これは、野沢さんに限ったわけでは無く、テレビや新聞に登場する人々を見ては、そんな風に感じていたものです。

思うに、中学の頃とかは人並みに感受性も強く、いろいろな人や新しいものに感化されやすいものなのですが、その頃はそんな大人の人たちに憧れに似た感情を抱いていたし、そうさせてくれるものを彼らは持っていたのでしょうね。

今はどうなのかなと、テレビなんかを見ながらふっと思うことがあります。もう充分に大人である僕自身も含めて、そんな人たちのことが若い人にはどんな風に映っているのかということです。しょぼくれちゃってとかああなりたくないねとか思っている人もいるのでしょうね。

それは、ちょっとまずいことです。もちろん、頑張っている人たちは沢山いるわけで、それも身近にいることの方が多いのです。おそらく、そんな多くの人はいつか気付いてくれるとか気付いてくれなくても仕方ないねとか思っているのかもしれません。

最近人の死のニュースを見るたびに、そんなことを考え、自分自身はどうなのよと問いかけることが多くなりました。今からでも良い大人になれるかな、なんて思うだけで、ただ漠然と一日一日が過ぎて行ってもいいほど、残りがあるわけではありませんからね。

2010年10月30日土曜日

こんなはずではなかったのに・・・。

早いもので明日で10月も終わりです。ハービー・山口、ヨーガン・シャドバーグ写真展も中盤を迎えるわけです。いつも感じるのですが、ひとつの展示会に要した準備・検討期間は、会期の長さにはあまり関係ありません。たとえ、1週間の会期(これまでそんな短いものはありませんが)であっても2カ月の会期であっても、する内容はほとんど同じです。


ですから、会期が短いと次から次へと準備を進める感じになってしまいがちです。決して手抜きをすることは無いのですが、正直どこかで締め切りがあるからこれぐらいでとか思いそうになります。今までのところ、アマチュアの方に対してもギャラリー主催の展示会への参加にしていますから、はい、箱はこれですよ、後は所定の規約に従ってしてもらえれば良いですよといったことはありません。

例えば、Sha-gakuのように複数の方々が参加し、展示・発表をする場合は、それぞれの展示作品やポートフォリオ制作を始め、額装といったこまごまとしたことまでサポートしながら行っています。これがなかなか大変だと思われますけど、僕自身はすごく楽しんでしているのが本当のところです。

会期が短くても、使用する壁面が少なくても、作品を表現し、それを個人としてテーマ性ある発表まで持っていくことは、非常に大変なことです。ここで、注意しなければいけないのは、「個人として」という点です。よく見られるグループ展等は、先ず大きなテーマのようなものが掲げられます。グループの各人はそれに沿った作品を選択し、周りの人たちの作品を気にしつつ、トータルとしてのバランスを取ることが普通です。

一方、個人として行うことは、その全ての裁量は個人に委ねられると言うことです。したがって、Sha-gakuのように一見グループ展として成立しているような展示会であっても、まるで違う方向性や作風が出てきて当たり前ですから、そもそも統一感なんてものがあるわけがないのです。その辺りは、主催として少し怖い面でもあるのですが(Sha-gakuは基本審査もありませんし)、逆にワクワクしている部分もあります(Mっ気はありません)。

だからこそ、ひとりひとりが現在の自分が表現出来るように、サポートするわけですね。

さて、来年予定のSha-gaku vol.2は、皆さんの参加無しでは開催出来ません。

今からでも遅くはありませんので、いつかは展示してみたいですと思っている人は、参加し、その感覚や実際を体験することをお勧めします。具体的な目標無しで、自然にそうなったなんてことは、先ず無いと言っても良いですからね。

案内はこちらからです。


あぁ、結局宣伝になってしまいました。あぁ・・・・・・・。

2010年10月29日金曜日

昨日はプロ野球ドラフト会議でした。

昨日はプロ野球ドラフト会議があり、若く有望な選手がまた新しい門出を迎えられることになります。育成枠を入れても、12球団で97人が選択されたと言います。数からみればすごく少ないように感じます。昨今の不況の影響で雇用状況は悪化していますが、大企業であればこの数よりも多いとは思います。


でも、これって自分が応募したり、志願しても面接はおろか書類選考さえないので、まさに自分がやってきたことを何年かの間に継続して見せてこないことには、鼻にも掛けられないわけです。球団も人材を求め、多くのスカウト担当を全国に飛ばし、実際に見て判断し、これと決めた選手しか選びません。

プロ野球。特にこの世から禁止令が出たとしても、多くの人は生活出来ないとは言わないものです。ベタな言い方をすれば、その世界に夢や感動があるから、人はそれに自分自身を投影したり、一体感を持てたりし、本能的な喜びや楽しむ気持ちが得られるから存在しているのです。特に幼い子供たちが夢み、未来に目標を持つ、いや未来が信じられると感じさせてくれるものは、お金やモノを単純に与えていただけでは生まれるものではありませんから、やはり必要な存在なんでしょうね。

97人の選手たちは、早ければ来期から活躍するかもしれないし、数年後花開く選手もいるかもしれません。そうして、それを見て、また多くの子供らに夢や感動を与えていってくれればそれで良いのです。また、残念ながら色々な事情で成功せず、球団を去る選手もいると思いますが、それでもドラフトに掛かること自体、奇蹟みたいなものですから、周りの人たちは見守ってあげて欲しいと思います。

また、大抵の人は、こんなことはプロ野球のような特殊な人たちにしか出来ないと考えています。確かに影響力や大きさに違いはありますが、僕を含めごく普通の人々にでも出来ることはあります。子は親の背中を見て育つと言われていますが、必要以上に世の中をネガティブに捉え、言動や行動に現れてくるものを、彼等は良く見ています。今は、反面教師なんてものはいらないと思います。

次の世代がもっと、もっと未来に夢が持て、何か自分でも出来るんだと信じられるようなものを、ひとりひとりが何か1つでも残そうとしたなら、世の中はさらに質的に豊かになっていくような気がします。

人生は短いものですし、何を残せるか、これも今の僕の課題のひとつです。

2010年10月28日木曜日

星野仙一氏が楽天新監督になること

プロ野球楽天球団の新監督が星野仙一氏(63)に決まりました。仙台ではそのタイミングに合わせて、号外も発行されたようです。昨夜の何回目かの就任記者会見で、「東北を熱くする」と話している姿は、やはり全国区の知名度とこれまでの実績も兼ね備えていることを横に置いても、地元を意識する以上の熱さを感じました。


人はその性格が表に現れるタイプとそうでないタイプがありますが、星野氏はまぎれも無く前者です。そういった点では、実際のところは分かりませんが、野村監督とは正反対のような印象を受けます。さて、今シーズン最下位に終わった楽天が来期、星野監督の下でどれほどの成長をし、多くのファンにその姿を見せてくれるかです。

プロであり、しかも勝負の世界は見た目上下がはっきりとしますから、単純に強い姿を見せればお客さんはそれなりについてくるでしょう。そうして、一過性であれ何であれ、熱いモノを持ってくれるかもしれません。ここで言うお客さんとは普通にテレビ画面上で野球観戦をしたり、ほんとに年1回とか機会がなければ実際に球場まで足を運ばない人を言います。何度でも繰り返し球場に足を運び、生のプレーや選手に触れることを楽しみとし、自分自身が応援という形で参加しているようなファンではありません。もちろんファンの方々は、今でもすでに熱いのだと思います。

東北人は口が重いと良く言われるように、言葉数少なく、自分自身を表現することが苦手のように思われています。実際のところ当たっている部分は多く、我が我がと主張することをあまり良しとしないようです。人との付き合いの中で、他人に尊敬を抱き、自分にも謙虚であることは素晴らしいことで、それがあるからこそ苦労することもしていけるとも言え、そんな時にはほとんど損得なんか考えない場合の方が多いように思います。

そして、そんな時、人はとても熱い状態だと言えます。人がそうしたいとかああなりたいと願うことと、そうするとかああなると決め、行動として起こすことには、とてつもなく大きな壁があります。壁を乗り越える言葉として当てはめると、情熱ですかね。

僕は星野氏が言った「東北を熱くする」という言葉には、地元へのリップサービスだけでは無い、もっと大きなものを感じます。

来季はグラウンドに行ってみようかなと思います。

地元にあるからこそすぐに出来ること、そしてそれが熱くなれる一歩なのですから。

2010年10月27日水曜日

少し遅めに目覚めた朝に

今日は遅くなってしまいました。いつもと同じつもりで目覚めたのですが、起きるとすぐ見える壁に付けている時計は、普段とは違う形になっていました。ウン?と思いながら、そばにある腕時計を見てみると、やはり同じ形になっています。


9:42でした。

久しぶりの寝坊ですね。今朝は5:00前に一旦目を醒ましたのですが、これはちょっとまだ早いでしょうと、いわゆる2度寝をしたことは覚えていました。2度寝することは、結構頻繁で特に変わったことではなく、いずれ2時間も経たない内にまた目を覚ますのが普通の状態です。

そんな調子で普段通り浅い眠りの状態から、目覚めたつもりだったわけです。会社勤めや仕事で朝出かける人は良く分かると思いますが、朝の10分とか20分ってすごく貴重というか、時間の進み方が違うように感じます。その為にちょっとした手違いにより、1日のリズムが崩れてしまう人もいるようです。

僕の場合は、それほど神経質でも繊細でもないし、まぁ、午後一にギャラリーを開ければ良いしと思えるので、あたふたはしなくて済みます。以前からそうだったような気もしますが・・・。そんなわけで、午前中は休みの日以上にのんびりとしてしまいました。きっと今日はそんな日なんだと自分に言い聞かせるように。

普段とは違うルールやルートで行動していると、違和感や不安を感じるものです。だから、ルーチンワークは意外にその存在自体が大事になるのだと思います。自分の中での予定調和を自ら意識して崩すあるいは他人から崩されることに大抵は拒否感を覚えます。後者の場合は、尚更ですね。

また、全てが決まり切ったシナリオの中で、その登場人物のひとりになって動いていると感じる時、そこで発せられる言葉や行動は本当の自分なのか、あるいはそれを演じている意識はあるのでしょうか。これは、日常生活で社会とのつながりがあり、組織のひとりとして存在している場合は、誰しもが感じる疑問のように思います。一方で、変化し続けないと進化しないという事実もあります。それは外見だけではなく、中身の方が更に重要になります。

自分が何者であるかなんて青臭い哲学を語るつもりはさらさらないし、決して誰にも分からない命題であるわけですが、でも今ここに存在している自分を見つける為にも、敢えて崩すことも必要なのではないかとは思います。それによって、思いもよらぬ発見があるかもしれないわけですから。

人は複雑な思考と意識を持っていながら、単純かつ愚かな失敗を何度も繰り返し起こします。でもその失敗があればこそ生まれるモノもあるわけです。

これ、単純に寝坊の言い訳みたいだ。

2010年10月26日火曜日

環境

札幌の朝の模様がテレビに映し出されていました。去年より6日早い初雪の模様です。初雪と言っても、結構な降り方をしていました。いよいよ冬の到来となりそうです。寒いのと暑いのとどちらが良いかと聞かれることがありますが、僕の場合はどちらかと言えば寒い方が気にならないかもしれません。元々がこちらの生まれだからそうだろうと思われがちですが、実際は東京の生活の方が長いので、あまり関係はないと思います。


住環境といった点では、逆にこちらの方が暑く感じたりしますし、一概に北にあるから涼しいよねとは言えなくなってきました。それでも今この時期に雪が降る地域が日本にあるのですから、改めてその幅や広さみたいなものを感じます。

よく、環境が人を作ると言われますけど、季節感や体感として受ける温度差は大きな要因のひとつだと思います。僕もこの数日少し体調が落ちているので分かりますが、必要最低限のことしかしていない日々を過ごしているようで、気分的にも落ちています。昨日は、意図的にそんな風にしていたのですが、している本人がそう感じてしまうのですから困ったものです。

例えば、寒さをしのぎ、内に籠り、出来るだけ必要最低限の行動を行い、自分を抑えているような生活を続けていると、最初の内はとてもフラストレーションが溜まってきます。でも、その環境が自分の力では変えられないことが分かると、人は2つに分かれるような気がします。

ひとつはそんな中にも楽しみを見いだしながらより行動的に生きようとし、もうひとつはこの環境を仕方ないものとして、まるで厄災が通り過ぎるのをじっとして待っているような生き方です。異論を唱える人がたくさんいることを理解していますし、もっと違った生き方をする人もいるのでしょうが、印象的にはそんな感じです。

前者は、その後自分のしようとしていることがこの地では出来ないもしくは変えられないと感じた時点で、外に向かうようになります。後者は誰しもに与えられた環境であるから、耐えしのぶことが当たり前で、それが地域としての統一感なりモチベーションとなっていくわけです。

でもね、現在を考えると、実は僕は両方ともに否定的なのです。世の中はグローバルであり、情報の発信はほぼ自由に出来ます。個と個の繋がりは非常に希薄にはなってきていますけど、本質的な人の心は太古のころからあまり変わっていないように思います。だからこそ、与えられた環境が人を作ってはいけないように感じるわけです。

逆ですね。人が環境を作る、べきなのですよ。
しかもそんな世界はすぐそばに、既に存在しているのです。

2010年10月25日月曜日

完全休養日

今日は休廊日です。のんびり、身体を休めようと思います。特に無理をしているわけでもないのですが、このところ体調が本調子でないように感じます。僕にとって体調のバロメーターになるのは腰の具合で、それはとても顕著に表れます。


経験的に言って、なんとなく違和感があり、ヤバイなと感じる時は、ひたすら休養に時間を割くようにしています。日曜日のお父さんのように(今はそんなことは無いのかもしれませんが)ゴロゴロと寝て、過ごすわけです。安静にしているだけですから、休暇を楽しんでいる状況ではありません。全く楽しくもない休日になるだけです。

しかも、身体を動かしていない時でも、頭の中は休養していない状態ですから、あれこれと余計なことが浮かんでは消え、終いには思いついたことを実行に移そうとし出すので、注意が必要です。じっとしていると、何かをしようと思うようになりますからね。
人は、意識的にも無意識にも常に何かを考えています。それが、生きていることのひとつでもあるわけですから、眠りは一瞬の死であると言った著名な作家さんは正しいのだと思います。

そんなわけで、今日は完全休養日にしようと思います。
あえて何もしない怠惰な一日も必要なものです。

それでは、また明日。

2010年10月24日日曜日

マツタケ大豊作

今年はマツタケが大豊作らしいです。例年の30~40倍の取れ高で、中国産や韓国産よりも安値で取引されている様子がテレビに映し出されていました。僕自身、とりたててマツタケが食べたいと思ったことが無く、普段は口にすることもありません。これまでは、高価でしたし、口にすることが出来なかったと言った方が正解かもしれませんが。


なんで今年はこんなに採れるのだろうかと地元の業者の方にインタビューをしていました。曰く、9月から急に冷え込み、それに加えて適度な雨があったので、マツタケが生育しやすい(喜ぶと表現していましたが)気候、環境になったからと話していました。ご存じのように、マツタケは人工生育が出来ない種類のキノコです。その為、国産品は特に高価で貴重なものとして、一般庶民には手の出せないものでした。

それが今年は、安いうえに質も良いようですので、話のタネに食べてみるのも一考ですね。この話題を見ていて、環境って当然ながら大事なんですねと思いました。マツタケ業者の言う適度な雨がどんなものなのかは分かりませんが、その適度の幅もきっと微妙で、タイミングとかがドンピシャだったのでしょうね。

自然の植物や生き物は、自分の感情や意識で行動していないですから、理にかなった動きしかしないことが常です。生存が第一としてあるわけですし、その時々で自分から環境を変えて過ごしやすくすることはなかなか出来ません。だからこそ、まるでそんな環境にある事を喜んでいるように、生育していったのだと思います。

一方で人は、と考えると、そうではありません。そこには人が持つ英知があったり、経験によるものが左右したりするので、むやみやたらにその環境に迎合するばかりではないと言えます。このことは、時として自然の摂理に背いていることなのかもしれません。

もし、マツタケの大豊作が異常気象の賜物なんて言われるのなら、その元凶として挙げられている過去に積み上げてきた人の行動がそうさせていることを考えながら食べないといけませんね。旬の期間はとても短いものですし。

2010年10月23日土曜日

火災報知機点検の日

今日は年一回している火災報知機等の点検があります。ギャラリー、自室と両方行うようです。2軒先が消防署ですから、何かあってもすぐに駆けつけてくれるとは思っていますが、何もないことに越したことはありませんし、逆にあっては困るものです。


ギャラリーにある火災報知機のサイレン部は結構大きく、非常に目立つようにあったので、内装工事の時に、取り外せませんよねと業者に聞いてみました。移動するにも築30年以上も経ち、配線関係も不明な部分があって、費用がかなりかかってしまうとの見解でした。仕方ないので、外側に白の塗装をしてしまいました。元々はクリーム色だったらしいのですが、長年に渡る環境のせいもあり、黄ばんでいましたので、塗装をすることで少しは違和感が薄れました。

僕自身ギャラリーのイメージはホワイト・キューブよろしく、一面白でした。その中で動きがあればと考えていました。内装を大幅に行い、初めから作り上げれば出来るのでしょうが、費用的な面があったので、現状を活かしながら、まるっきり違うものにしていくことに頭を悩ましました。その為、内装プランも数種類出し、何度も見積もりをしてもらいました。ホント、業者の方は、面倒くさい客だと思ったことでしょうね。

ある程度の妥協はあるにしても、ほぼイメージ通りのものになったと思っています。壁のクロスはそうそう張り替えることは出来ませんが、まだまだ充分にきれいです。多くの方に使ってもらいたいと考えてはいるのですが、若干威圧感もあるようで、その辺は難しいところだなと実感しています。

もうじき、点検に来るはずです。午前中に終わらせてもらわないとこちらも面倒くさいので、業者を見つけて先にしてもらおうと思います。そう言えば、自分の体の点検はしてないなと・・・。年齢も年齢ですから、少しは考えないと。

2010年10月22日金曜日

今日は週一の掃除の日です。

今日は金曜日です。週一で、隣との共用部であるトイレを、ビルの管理会社の手配で掃除に来ます。お隣の「可らし」さんは、いつも午後から仕込みに入りますので、午前中に行われる掃除には僕が付き合うわけです。付き合うと言っても、ただ入口を開け、中に入ってもらい、掃除が終了したら出て行ってもらうだけですから、特に話し相手をするわけでも無く、その時間にいるだけの話です。


僕の場合、大抵、9:00前にはギャラリーに入っています。深夜遅くまでの営業ということでもなく、以前より大幅に拘束時間は短いし、朝からの時間の方がなんとなく落ち着いて色々と出来るのでそうしています。なので、朝早い時間に来られても、特に困ることはありません。

2ケ月程前に管理会社が変わり、来る人も変わってしまいました。1年間に渡って毎週掃除に来てくれていた人は、僕とほぼ同い年くらいの女性の方で、世間話なんかもしていましたが、今の方は70を越えていると思われる女性です。最初来られた時は、その細い身なりに大丈夫かなと思っていたのですが(トイレを掃除するだけでは無く、午前中にビル全フロアの通路も掃除するので)、続いているようです。

長寿化、高齢化に伴い、一度リタイアしてもまた仕事をする人や仕事をしていかなければ生活がおぼつかない人も増えています。国の社会保障制度をどうこう話すつもりはないのですが、時々首を傾げたくなります。仕事を一生行い、健康に過ごすことを生きがいとしている人もいるのでしょう。中にはそうではない人もいらっしゃるわけで、その為に今まで一所懸命やってきて、残りの人生をゆっくりと過ごしたいと思っているのではと考えてしまいます。

人は泣きながら生まれ、生きることは困難極まりない事のように昔から言われています。わずか100年しかないその期間で、それではちょっと割が合わないよなと感じながらも、不条理と矛盾の現実を生きているわけです。そんなことを少しでも感じながら生きてくると、もっと楽に豊かで(心持ちとして)いられたら、と思ってしまいます。

あっ、今掃除が終わったようです。

ありがとうございます。言葉として伝えないと。

確かにそれは仕事であったとしても、僕よりも長く生きてこられた人であって、何より今もなお現実と向き合いながら生きている方なのですから。

2010年10月21日木曜日

朝の缶コーヒー

ギャラリーの前にある3台の自動販売機。その3分の1がいつのまにか温かい飲み物に変わっていました。毎朝、缶コーヒーを買うぐらいで、その他はほとんど利用しないのですが、こんなところにも季節が冬へ向かっていることが感じられます。いつも買うものが決まっていると、確認もしないでボタンを押してしまいそうになります。それでも、今日はボタンの赤に気が付いて、押すのを一瞬ためらいました。


自分は今本当にこれを飲みたいのとの考えが浮かんだわけです。大げさでも何でもなく、普段はというか昨日まで冷たいものを選んでいたわけですから、それほど気温も変わらない今日は温かいものでよいのかと思いました。それでも、こんなことで、自動販売機の前に何分も考えている程暇ではありませんから、そのままボタンを押してしまったのですけど。

さて、温かいコーヒーを飲みながら今これを書いています。昨日とは違って温かいコーヒーもまぁうまいものです。缶コーヒーだろうと言われるとは思いますが、これが無いとなんかギャラリーでの朝が始まらない感じではあります。実は、起きてすぐに自室で、ドリップのコーヒーを飲んでいます。なので、わざわざ缶コーヒーを買ってまで飲む必要もないだろうとの自覚もあります。

おそらくは、僕にとってはこれが朝の儀式のようなものなのです。甘ったるいまがい物のような缶コーヒーを飲み、その身体には良くなさそうな甘さを舌から喉へと通すその時に、今日も一日が始まると思えるのかもしれません。その意味はと問われても、多分答えられないと思います。

どなたにもこういうことってあるはずです。あるいは、無意識のうちに行っている場合もあり、他人から指摘されて初めて気付くなんてことも。良いことか悪いことかは別にして、そうすることでスイッチが入ったり、これが無いと始まらないとか安心出来たりすること、ひとつの安定剤のようなモノですね。

もうじき飲み終えようとしています。今日も一日が始まりました。

2010年10月20日水曜日

僕が普段していること

ギャラリーの仕事ってあまり一般の方には分からないと思います。何か良く分からない、実用的ではない作品を並べているだけで、普段は何をしているかなんて想像も付かないし、違う世界の話のように感じるのではないかと思っています。特に、作品販売が主で、箱だけを貸しているわけではないので、余計そう感じるのでしょうね。


仙台を始め、地域では滅多にお目にかかれないものですから、幾分敷居が高いとかレベルが上に感じられている方が多くいるようです。実際何度もそんな話を聞いています。(たかが1年余りの小さなギャラリーなのに・・・)

僕はそういった部分をとても哀しい現実と感じています。これは、仙台に限ったことではないと思っていて、延々と続いてきた首都圏集中の文化行政がひとつの要因であると思います。アート性の高いもの、一目でレベルが高いと感じられるもの、簡単に言えば趣味の範疇を遥かに越え、その作家性やアート性が前面に出ているようなものは、限られた人たちが理解するものであったり、首都圏でしか観ることが出来ないものとの考えがどこかで刷り込まれているような気がしてなりません。

ギャラリー自体目新しいモノかと言えば、形態自体は昔からある画廊と一緒ですから、特異ではありません。まぁ、写真に特化している点では珍しいのかもしれませんが。古くからある画廊にしても、やはりそんな存在だったし、今でさえ印象はあまり変わりませんから、ある意味仕方ないことなのかなとも思います。

さて、やっていることはと言えば、簡単に言えば、頭の中で想像したり創造したものを、具体的な形として皆さんの前に提示する作業ですね。僕は写真家ではありませんから、写真家やそこから生まれる作品に対して、見せるとか関心を持ってもらうように考えているだけなのです。企画を立てる、展示に関わるコンセプトやテーマを検討し、効果的に見せる、言葉としてそれらを説明する、広告・宣伝としてのさまざまな媒体のデザインを考える、しなければならないことは多岐に渡っています。

もっとも、それを考え、検討している時間の方が絶対的に長いので、他の人が見れば余計何をしているのかは理解出来ないかもしれません。自分で良しと思って、発表や提示したことがそのまま受け入れられない場合の方が多いので、ますますそう思われるのだと考えています。

今は哀しいと感じている現実を、楽しい現実へと変える為に日々過ごしていると言って良いと思っています。それには時間も必要なのですが、そうも言っていられませんので、先ずは皆さんに見に来てもらえるには(受け入れられる?しかも個人的な範疇で)といつも考え続けています。

一度見に来て下されば、その意味が分かると思います。

2010年10月19日火曜日

「豊かさ」

めっきり寒くなりました。これが平年並みとのことですが、ものすごく暑かった記憶がいまだに拭い去れないでいるので、余計寒く感じられます。今日は、ウールのセーターを出してきてしまいました。


一般には衣替えとかの習慣が昔からあるので、季節外れに寒かったり、暑かったりしても以前はその季節的な服装をしていることが多かったように思います。それでも、居住環境の変化に伴い、その姿も何でも有りになってきました。真冬に部屋で半袖姿でいても一向に構わないですからね。

日本は四季折々という言葉のように、自然はそれぞれの季節で違った姿を僕たちに見せてくれたり、肌で感じさせてくれます。その点では、すごく豊かなのだと思います。ここで言う「豊かさ」って、物質的であったり、お金であったりするものではありません。移り変わる日常の情景に触れ、そのいとおしさやはかなさ、喜びなんかをごく自然の内に感じられる「豊かさ」ですね。

でも、今こうして書いている僕でも、そんなことを常に認識しながら生きているわけではありません。日常はもっと厳しく、切ないものですから、フッとした瞬間に感じるものです。あるいは、わざわざそういった環境に浸れることを期待して、その場に出向き、半ば強制的に自ら仕向けている時ぐらいなのかもしれません。

ちょっと、哀しいですね。

「豊かさ」って常に与えられていると、ますますもっととの思いが出てきますし、きっと享受しているだけでは際限ないものなんだろうなとも思います。自然の「豊かさ」は本来それ自身が与えようと思っているわけではなく、そういう姿に対して僕たちが与えられているんだと感じるからそう思えるのですから。

人も然りですね。

2010年10月18日月曜日

少し息抜きが必要か?

頭の中がぼんやりとしているようです。


いろいろとやるべきことはあるので、少し整理しないといけません。まずは掃除をしなくっちゃと思っています。もちろん自室の方です。ペットがいる家庭は良く分かると思いますが、動物は予想以上に毛が抜けますから、しばらく放っておくと大変です。僕は幸いアレルギーがないので、多少の毛は問題ないのですが、それでも気になります。

それから、薬が切れてきたので手配しなくてはと。これもpolkaのものです。まぁ、電話して頼んで、通りひとつ離れた病院に取りに行くだけですから、これも大したことではありません。一緒にしてはいけませんけど、お子さんがいる家庭はもっと大変ですからね。ホント、世のお母さん方はたくましく、立派です。

そして、次の企画の準備やらその為にいま考えなくてはいけないこと、検討すべき事項を洗い出さないといけません。これが一番大変で、一日中僕の頭のどこかにあります。眠ている時以外はずっと残っています。仕事だからと言われてしまえばそれまでの話ですが、時々は自分でもその状況を楽しめなくなります。

おそらく、今日はそんなぐちゃとした感じで終わるのかなと予想しています。掃除にしてもpolkaの件にしても、それ自体は大変ではないのですが、いろいろな要素が組み合わされて動いてくると、面倒に思えてしまいます。また、仕事については自分ひとりで解決したり、済ますことが出来ない類もありますから、ただ時間だけが過ぎて行くような感覚に襲われる時もあります。

少し、息抜きしなくてはと思います。まだ、何をすれば良いのかは分かりませんが、取りあえず今日しなくちゃいけないことが終わったら、そうしようと考えています。

それまでは、頑張れ、自分!

2010年10月17日日曜日

口ほどに物を言う

「目は口ほどに物を言う」


誰もが一度は耳にすることわざにひとつです。目つきは、口で話すのと同じ程度に気持ちを相手に伝えるという意味で使われる場合が多く、似たような言葉には、目は心の鏡とか目は心の窓といったものがあります。

これは人の表情の中で、もっともその人の心情を表わすものが目ですよと言っているもので、実際その通りだと思います。情報の多くは見ることで成立していて、そこから得られた情報を脳が判断して、行動に起こすわけですから、目自体が脳の一部だと言っても良いように感じますし、その反応が目つきや目の動きとして表れるのは至極当然のことです。

毎朝誰しも自分の顔を鏡で見ると思いますが、無意識の中に、自分の今ある状況をどう感じているかを目が物語っているように思える場合があります。自分自身ですらそうですから、他人の目に対しては、一層敏感になってしまいます。それほどに、目の役割は重要なものなのです。

さて、アメリカの写真家ウィリアム・クラクストンは、自身のドキュメンタリー映画「Jazz seen」の中で、まばたきをするだけで写真が撮れたらどれほどいいかと話しています。ホント僕もそう思います。美しいとか驚いたとかその他色々な感情の揺れを覚えながら毎日を過ごしているのですが、その一部一部を記憶としてだけではなく、記録として残せたならとの思いからカメラは生まれたように思います。

もちろんカメラのレンズは表情を変えたりはしません。そこから、感情を感じることはありません。人の目により近く、目の前にあるものを忠実に写し撮る道具としてあります。それでもそこから生み出される写真には、時として驚愕であったり、得も言えぬ感動が備わっている場合があります。

これも、口ほどに物を言うってことじゃないのと思ったりします。

2010年10月16日土曜日

普通の生活

チリの落盤事故から救出された人々に、講演や執筆、テレビ出演等のオファーがものすごい量で来ているようです。すでに映画化も決まったとの報道もありました。言い方は悪いですが、これほど世界的に注目を浴び、いやが上にも目立つ存在になってしまった彼らをさまざまな世界の人間が利用しないわけがありません。


でも、当人は普通の暮らしに戻りたいだけなんだと思います。中にはこれを機にと考えている人もいるのかもしれませんが、実際のところそんなことまで思っている人はいないでしょうね。そっと普段の生活に戻ることを誰よりも願っているのです。

あまりにも強烈で極限的な状況を体験した人間はごく限られたもので、そこで得られたもの、失ったものはわれわれには計り知れないものです。そんな彼らの体験を広く多くの人に伝えることも、マスコミやメディアとして当然のことなのかもしれませんが、ここは少しおとなしく見守ることも大事なことなのではと、やや過熱ぎみに語られる映像や報道を見るたびに僕は感じてしまいます。

一方で普通の生活ってなんだろうかとも考えてしまいます。毎朝一定の時刻に仕事に向かい、ある程度意に介さないことに抵抗感を受けながらも日々の業務をこなし、少し疲れた体で帰宅し、ある人は家庭での団欒を持ち、ある人はひとりでありながらも自分自身の時間を持ち、そして眠りにつく。翌朝同じように一日が始まり、やがて週末や休みに身体を休め、余暇を楽しむ、それがいわゆる普通の生活なんだと思います。

こういったルーチンワーク的な生活は、そのほとんどが予定調和の中にあり、それはそれで居心地の良いものです。それでも、そうあることを願っているもしくは意識してそうしている人々にも、辛いことや苦しいことは必ず起きるわけで、その時その時で対応しながら生きているわけです。おそらく、救出された人の中にはそんな考えの人もいたと思います。

彼らが負った困難は、僕らのそれよりも遥かに大きいもので、想像しがたいものであることは充分に理解出来ます。困難を現実のものとして受け入れ、それらを克服しようとするには、意識的に無意識的に、困難の後には希望のようなものが見出せるのかどうかだと思います。それがごくごく普通の生活であっても、いや普通の生活だからこそと言ってもよいですね。

そして、彼らはそれを体現してくれ、僕らに目の前のものとして見せてくれたのですから、これ以上何を求める必要があるのかと、僕は思うのです。