2010年3月31日水曜日

今しなければいけないこと

早いもので、今日で3月も終わります。春休み真っ只中で休んでいる人や新天地での生活準備を進めている人や、一年で一番さまざまな思いが交錯する季節のような気がします。僕も仙台に戻り1年が経ち、全くもって慣れない仕事をやりつつ、常に試行錯誤の毎日を過ごしてきました。今でもそうです。


まぁ、1年で何が分かると言われれば、本当にその通りで、分かったような振りをしても、その実全然分かっていないことの方が多いのです。これまでの経験や人間関係から受けた教えや対処法なんかも決してマニュアルで決められたものではありませんし、それがこの場で正しいかどうかも分からないものです。

何が最善かなんてことを、考えても考えても決められないとの思いの中で、選択と削除を繰り返していることが日々の暮らしのような気がします。僕を含め多くの人は、それぞれの選択肢の中で、出来るだけそれが自分自身にメリットとして返ってくるであろうと思えることに、先ず目がいき、考え始めると思います。

いわゆる損得ですね。損して得を取れと言う言葉がありますが、損しないに越したことはないですから、先ずは得を考えるわけです。そうじゃないよと反論される方はいらっしゃると思いますが、現実的にはそういう傾向の方が多いと思います。

その辺のバランスってとても難しいです。僕の場合は、気持ちの余裕度というか、自分を見つめられる機会度みたいなものが多いと、ちょっと待てよと立ち止まれるのですが、そうでない場合は、ことさらに得を考えてしまいます。また、そんな判断が出来ずに、前に進めないジレンマやあせりが、余計違った方向へと向かわせてしまうものです。

なので、ちょっと立ち止まる勇気や今しなければいけないことを先ず考えようと思いながら、今は過ごしているのです。

2010年3月30日火曜日

福島へ行ってきました。

先日紹介した小池友美写真展『穏やかな光』を見に、昨日、急遽福島へ行ってきました。仙台からは高速バスで約1時間15分、ひと眠りしているともう着いてしまうような感じで、旅行気分まではありませんが、日頃近場しか出歩けない僕にとっては少し気分転換をしたくなったのだと思います。


福島駅前でバスを降りたとたんに、雲行きが怪しくなり、見る見るうちに当たりが暗くなり始めたかと思うと、季節外れの大雪が降り始めました。とりあえず、駅ビルに飛び込み、外を眺めながら、参ったなと思いながら、さてどうやって会場に行こうかを考えていました。徒歩では20分、バスも出ているようですが一体どれに乗ったらよいのかが分からずにしばらくぼやっと舞い降る雪を見ていました。それから、何の当てもなく30分程駅ビルの中をウロウロと散策し、しかたないから傘でも買おうかと思っていた矢先に、窓ガラスから光が入り込んでいる様子が目に留まりました。窓ガラスに近寄り、外を見ると、明るい光が雲の切れ間から現われ出し、雪も小振りになっていました。

にわか雪です。夏のにわか雨は何度となく経験していましたが、これほどまでのにわか雪は初めてです。ほんの30分でしたからね。まぁ、これで歩いていけるなと駅ビルを飛び出して行ったのです。

国道13号線を仙台方面に向かってひたすら真っすぐ歩いていると、間もなく郵便局が見えてきます。その先の信号を左に曲がると、会場の福島市写真美術館が見えてくるはずです。大正に建てられた瀟洒な作りをしているとHPには掲載されていましたが、周囲に建物が無い分、より一層その風格を現しながらも、何かとても控えめな佇まいをしているようにも感じました。

何か、前置きが長くなってしまいましたが、入口の木製の扉を入り、すぐ右手で写真展は行われていました。会場に入り、ひととおり回ってから、思わず出た一言「いいなぁ」。何だそれはと思うでしょうが、素直にそんなことを感じられる写真展ってあまりないのです。昨今のコンセプト、テーマ性重視で、ともすればよく分からないことが良しとも思わせるようなものや、突拍子もないような表現や大きさだけが目立ったようなものとは明らかに違う、写真との向き合い方が見えました。

多くのイメージは明るいトーンと淡い色合いで統一され、ひとつひとつを見ていても楽しいのですが、展示としての全体の流れがとても素直で、何より分かりやすい構成であったように感じました。

時間の関係で、小池さんとはほとんどお話は出来なかったのですが、これからもどんどん発表を続けてほしいと願いながら、帰路のバスに乗り込んだのでした。

2010年3月29日月曜日

今の僕が出来ること。

昨年11月からフォト・コンサルティング・サービスなるものを行っています。まだまだ利用される方は少ないのですが、昨日もおひとりが利用されました。


ネットで引っ掛かって、申込をされたその方は、とても若く、まだカメラを始めたばかりとおっしゃっていました。作品発表に興味があるようで、ほんの数枚ですが、写真も見せていただきました。

このコンサルティング・サービスは、お客さんの様々な疑問や知りたいことについて答えることが旨なので、主体はお客さんにあります。それでも、やはり初対面でもあるので、遠慮なんかが見られます。その為、いつしか僕が話してばかりなんてこともあるので、出来るだけ聞き手になるようにするのですが、なかなかうまくいかないものです。

昨日も少し話しすぎたかなとの反省とともに、地方における環境と情報の少なさ(現実にその場で体験できるという意味で)を感じました。何かをしたいと思う気持ちは、どこに居ても同じですが、いざそれを実行する為には、その場の環境が必要になります。結局、そこに自分がしたいことが出来る場所が無ければ、自分の頭の中のお話であって、実現しないわけですからね。

僕が出来ることはとても限られたことですし、多くの人の要望をかなえるための動きも充分に出来るかと言えば、そうでは有りません。それでも、少しずつそんなことのひとつひとつをしていくことは必要だなと改めて思いました。

そんな思いも含めて、”Sha-gaku”、Four storiesという写真展を企画しています。頭の中だけで考えていても、現実の世界では何も起こりません。体験することでしか得られないものは、今も昔も変わらずあるはずです。

そんな経験や感動を自ら体感してみたい方の参加を望んでいます。

一歩踏み出せば、今までとは違う世界が見えるはずですから。

2010年3月28日日曜日

丸1週間です。

吉野和彦写真展も丸一週間を迎えました。今週は月曜日も休まずに開けていることもあり月末に向けて雑用もあったりして、午前中に出ることが多いので、何かバタバタとしている感じです。お客さんが多く来られて混乱することは、このようなギャラリーではほとんど無いので、逆にオープンしてからの方が落ち着いて、何かを考えたりしていることが多いです。


見えられたお客さんは、一様に精緻な描写と被写体であるオブジェに感心している様子です。やはり、デジタル技術というか日頃から画面上で様々なイメージを見ることが多いこともあり、黒い背景から創造物としてのオブジェが浮き上がっている姿は、一見して現存している物体とは想像しがたく、CGのように見えますねという言葉をよく耳にします。

プリントも非常に光沢性を持って、色彩が豊かな階調で表現されていますので、余計そのように感じるのかもしれません。

今回は、タイトルの下にオブジェの大きさをキャプションで付けているのですが、その大きさからも驚きの声が出ています。もちろん、8×10という今ではあまり目にすることが出来ない大型カメラで撮影を行っていて、しかもそのカメラ自体は本当に簡単な構造で出来ていることを説明すると、ますます信じられないといった感想を話されます。

今回の作品は、純粋に写真が好きな方だけではなく、デザインや造形、イラストといった他分野のアートに興味があったり、そのような仕事や勉強をされている方にもうってつけだと思います。しかも、その良さは、画面上ではなく、実物を見ると何倍にも感じられると思っています。

会期は長いのですが、早めにそして何度でも見てほしいと思っています。

2010年3月27日土曜日

桜が咲く頃

今朝のニュースで、上野公園の様子が流れていましたが、桜がとてもきれいでした。この季節になると、桜の開花と共にずっと抱いてきた冬の閉じこもりのイメージから解放される気持ちになります。自然と、花見でもしようかなと、余裕も出てきます。


何も変わらない毎日なのに、何かが変わったかのような錯覚が心を揺らがすようです。周りの景色は、確かに人の気持ちを変えてくれます。道端にひっそりと咲く名もしれない花にさえ、その美しさにハッと気づくことはよくあることです。

桜は日本を代表する花ですし、誰もが知り、目にするものです。気象になぞらえて、前線という言葉で日本全国の動向がニュースになるのは桜ぐらいですから、その注目度はおのずと上がるというものです。

また何かが始まる、そして再生するような気持ちにしてくれる花はあまり有りません。チェーホフの書いた「桜の園」を例えにあげ、そして、あの戯曲自体を悲劇と捉えないのならば、それはやはり桜を象徴とした再生の物語だと言えるのでしょう。日本人ではないチェーホフでさえそのモチーフとして桜を選んだのは、そんな意味もあるのだと思っています。

大沼さんの桜のイメージにはかないませんが、以前に撮った桜のイメージを載せます。


何か、元気になれそうな感じです。

2010年3月26日金曜日

新しい出発

昨日はこちらでは、大学の卒業式が行われたようです。全国的にそうなんでしょうが、新たな出発の季節なわけです。


僕も大学を卒業し東京に出たのですが、就職した会社では、新人は誰しも現場での仕事が始まりでした。仕事の面白みを感じる前に、仕事を覚え、早く慣れることが一番なので、多少の不満は有っても、そういうものだと思いながらやっていたように思います。

工場は3交代で稼働していたので、シフトで夜勤も経験しました。その頃は、今のように週休2日なんて習慣はなく、休みは日曜だけの会社が多かったと思います。朝、昼、夜とシフトで勤務を行うと、いわゆる普通の時間帯で仕事をしているわけではないので、制約もありますが、結構余裕も出来ました。夜勤の次の週は昼3:00始業の勤務になるのですが、その間2日半の休みがありました。(逆に朝から夜勤になる場合は、1日と短かったのですが。)

なので、寝る間を惜しんでというか、夜勤が終わった朝から、映画館へ出かけていました。大学の頃は、大の映画好きであったのに、見たい映画も来ない場合が多く、悔しい思いをしていました。キネマ旬報を毎月読みながら、岩波ホールで映画を見ることが、先ず東京に行ってやることのひとつになっていました。

まぁ、その思いはほどなく達せられたのですが、今思えばよくもこれほどと思えるほど見に行っていたものです。それから、1年後、職場が技術部門に移った事もあり、時間に余裕も無くなったのですが、それでも月に3本程度は見ていました。やがて、週休2日制になり、余裕が出来るかと思いきや、逆に休みがあまり取れない程仕事を任せられるようになり、以前より忙しい毎日になっていました。その分、仕事の楽しさも分かり始めましたが。

これから社会に出て、就職し、自分の仕事を全うしようとする人たちのほとんどは、しばらくは非常に忙しい毎日を過ごすことでしょう。仕事イコール人生という生き方は、今の時代にそぐわないのかもしれませんが、そんな時期が有ってこそ、自分の生き方が見えてくるとも思います。

失敗や経験はその人をタフにしていくものです。もちろん周りの環境が有ってのことですが。自分自身に前向きにそして出来るだけ外に向かって自分を出していってほしいなと、素直に思います。

2010年3月25日木曜日

5月に会えることを楽しみにしています。 ・・・確かにそう書いてありました。

全国的に冬に逆戻りしたような寒さです。こちらでも、今湿った雪が降っています。3月に入って何度目かの雪ですが、もういい加減いいだろうといった気分になります。ネガティブな気持ちになりそうな天気ではありますが、一昨夜停電前に届いた一通のメールがそんな気持ちを抑えてくれます。


5月に古澤君が出演する「裏切りの街」を観に行くのですが、時間的にとても余裕がありません。本当にトンボ帰りなのです。久しぶりに会いたい人もいるのですが、平日だし、迷惑をかけないかと思い、あまりその旨の連絡を取っていません。なので、本当にごくわずかの人にだけ話していました。

そのメールは、そのわずかな人のひとりから返ってきたものです。以前の会社で、たまたま僕の課にアルバイトに来ていた女性で、年も離れているので、娘みたいなものです。その頃の会社は、ほとんどがアルバイトの人たちで、社員はごく少数でした。でも、仕事の内容は結構専門的なことをしてもらっていて、マニュアルだけでは出来ないような類のものでした。彼女は僕から見てもとても優秀で、周りの人たちとも解け込み、さっぱりした気性もあって、若い男性からも慕われる存在でした。

そんなこともあり、アルバイトとは言え、長期に渡って勤めてくれていたのですが、ある時、精神的な病になり退社しました。その後、ごくたまに会ったり出来るほどには回復をしていたのですが、僕が東京から仙台に戻る頃には、音信不通の状態でした。

それから、仙台に帰ってしばらくして、携帯にメールが届き、元気でいることが分かりました。その後、彼女もブログをしていることもあり、僕はしょっちゅう見に行くようになり、近況を知るようになりました。

彼女からのメールの最後には、5月に会えることを楽しみにしていますと書いてありました。確かにそう書いてありました。

僕も楽しみです。だから、お天気の悪さで落ち込んでなどいられないのです。

2010年3月24日水曜日

停電の朝

今朝朝早くというかまだ夜も明けきらない午前4時にビルが停電しました。と言っても、突然では無く、点検の為あらかじめ決められていたものです。昨夜はギャラリーの戸締りをしてから、エレベーターに乗ろうとした時にそのことを思い出し、またギャラリーへ戻り、突発的に電気が切れるとまずいと思われる機器の電源を落としました。


先ずはPCとそれからよく分からないのでクレジット端末と、とりあえず2つだけの電源を切りました。ギャラリーの中には、外との繋がりや時間的な関係を持っている機器はほとんどありません。電話、FAXはありますが、停電になっても大丈夫だろうと思い、そのままにしていました。

自宅の方は、これまた電源を落とすものもないので、そのままにしていつものように寝てしまいました。特に早く寝たつもりは無かったのですが、停電直前に目が覚めたようです。隣にある目覚まし時計を見ると、3:50を示していました。部屋にある小さな常夜灯は、オレンジ色に光っています。

横になったままぼんやりとその明かりを眺めていましたが、やがてブチッという音とともに部屋中が真っ暗になりました。polkaは布団にもぐり込んでいるらしく、おとなしく寝ているようです。やがて、窓の外からは普段とは違った騒音のようなものが聞こえてきました。どうやら点検作業が始まったようです。

うつらうつらとその物音を聞きながら、カーテン越しに近くのビルを見てみると、ところどころに明かりがあります。もうすでに朝の始まりなのか、それとも夜の続きなのかは分かりませんが、明かりにはそれだけで暖かさや生活の営みを感じさせます。

点検時間は1時間の予定でしたが、多分30分程度で終了したようです。プチッという音とともに息を吹き返したかのように、部屋の明かりが付き、冷蔵庫の鈍い音や電話のスイッチ音が聞こえ始めました。動き始めた機器に生はないのですが、何故かあぁ動き始めた、無事生き返ったような、そんな不思議な雰囲気に捉われます。

やがて、僕は安心したように、いつの間にか眠りについたのでした。

2010年3月23日火曜日

”Sha-gaku”という公募展

現在、2つの企画展の参加者を募集しています。

下の画像がそのひとつである”Sha-gaku”のチラシ表側デザインです。


僕はこれまで、デザインや広告といったものに携わってきたことも無く、サイト作成やこのブログにしても素人が試行錯誤しながら作っているようなものです。案内状にしても、今回の吉野和彦氏のもの以外は、毎回作成から手配まで行っています。


10年程前に、自分のホームページを作成してみたことがあります。まだ、光通信も普及していなかった頃で、デジカメにしても100万画素級が主流だったと思います。その時は画像ひとつアップするのにもとても苦労したことを思い出します。

パソコンなるものを初めて購入したのが、MS-DOSの時代でしたが、当時はマイコンとか呼ばれていたような気がします。その構文の打ち込みに嫌気がして、しばらく興味も無かったのですが、マックやらWindows3.1を目にしだしてから、再び興味を持ち始めました。

技術屋でもあったので、おのずと使わざるを得なくなってきたこともあり、ついには当時ではかなり高価なノートブックパソコンを購入しました。今から、17、8年前のことです。

最初にホームページを作成した頃と比較すると、今はホント飛躍的に便利になり、その良し悪しは別にして、自分でもチラシのデザインやらが出来るようになったわけです。

さて、チラシの企画募集ですが、まだまだ余裕があります。まぁ、まだ1年も経っていない、知名度も低いギャラリーの募集ですから、始めから多くの方の参加が期待できるとは思っていませんが、これまでの写真展やイベントを見てくれている人たちには、いままでにはないギャラリーと認識して下さったとの自負はあります。

始まりはどんなものでも小さい波でしかありません。それは自分一人で揺り動かすことが難しいものです。今は不況でもあり閉塞感で一杯の世の中ですから、より大変だと思います。それでも何もしないでおくことは、何か違っていると考え、このような企画をあえて起こしました。

皆さんの参加をお待ちします。実践や経験は、机上やバーチャルの世界とはまるで違うものです。新たなチャレンジとか過去の再認識、色々と理由付けが必要なのかもしれませんが、現状から一歩踏み出してみてはいかがですか。

詳細はこちらです。
http://kalos-gallery.com/event/planning.html

2010年3月22日月曜日

桜の季節

台風一過ではありませんが、気持ちの良い朝です。時々強い風が吹き、冷たさが身に沁みるのですが、それでも何か暖かい春に向かっていることを実感出来るようです。東京では今日明日にも桜の開花宣言が出されるとのことで、そんな話題を聞くだけで何故か気持ちが解き放たれる思いがします。


仙台では4月にならないと実際の桜は見られないと思いますが、そんな中、桜をモチーフにした写真展が現在開かれています。

宮城在住のフォトグラファー大沼英樹さんの写真展です。

2月から開催されている一連の写真展で、タイトル、趣向を変えながら、桜前線が進むように行われています。晩翠画廊から始まり、現在はニッカ仙台工場ゲストホールで「桜酔い」というタイトルで、3月23日まで、その後、3月末からギャラリーアートキューブ、5月後半からギャラリーくろすろーどと、怒涛の勢いです。

大沼さんは一度だけ当ギャラリーを訪れてきて下さったことがあります。その時はあまり時間もなく、よくお話出来ませんでしたが、これだけのロングランで作品発表をするエネルギーにただただ感服する次第です。

写真集刊行記念で行われているのですが、こちらがその写真集になります。

大沼英樹写真集『お伽噺桜 OTOGIBANASIZAKURA 』出版 : 窓社、2010年

桜を見る前に写真展で見るか、それとも桜を見てから写真展を見るかでもその感覚は違ってくるかと思いますが、ご興味ある方はご覧になられてはいかがでしょうか。

2010年3月21日日曜日

普通で或ること。

窓を叩く激しい風の音が目覚まし変わりでした。自室のサッシはかなり古いので、普通でもがたがたと言っているのですが、今日は壊れそうな勢いで身を震わせています。僕がサッシの揺れる音に目を覚まし、起きると、しばらくしてからpolkaは自分の寝床からいつものようにとことこと歩いて来ました。風の音に惹かれるように窓際に近づき外を眺めていましたが、あまり興味がないようなそぶりを見せたかと思うと、いつものように水を要供してきました。


polkaにとっての世界は、部屋の中だけなのです。外で何かが起きても、傍観者のようにただ見つめるだけ、身の安全が保たれ、望むもの(水とえさぐらい)は少なくとも、今の環境が変わらなければそれで良しなのです。会話をしたことが無いので、本心は分かりませんが、多分そうなんだろうと思います。

僕らにとっての世界は人それぞれですが、仕事として組織の一員となっている人の多くは、会社周りの人たちやそれに関する環境が現実の世界としては一番密接な関係になります。個人の欲求や希求よりも、むしろそちらの方が優先されるはずです。僕もある年代まではそうだったように思います。

もちろん、そういう生き方そのものを否定する気は全く有りませんし、実際僕もそうやって生きてきたわけですから、今更自己否定し、総括するようなこともありません。普通に暮らせて、普通に人と付き合い、平穏にしていられることが一番だと、心の中のどこかでは思っています。

でも、時々、普通って何だろうと考えることがあります。人にとっては、自分の周りの世界以外に、違った世界がたくさん存在し、それに触れたり入ったりすることは自由ですから、この人にとって普通なことは、他の人にはそうではないこともあるわけです。

結局は自分の在りようが一番なのかなと思いつつも、出来るだけ世間との繋がりの中、普通に暮らしていくことで安堵していたい気持ちがあるのも否めません。そのへんは、バランスなんでしょうね。

2010年3月20日土曜日

一通の案内状

昨日届いた一通の案内状。

福島市写真美術館(花の写真館)で、今日から開催する写真展です。


送り主の写真家は、以前ワークショップに参加して下さった女性の方です。とても優しい雰囲気のある写真です。柔らかい光に包まれて、ネコが座っていたり、穏やかなニワトリの横顔があったりと、きっと彼らにとって、その場所は楽園なのかもしれません。

福島市写真美術館は、写真家の秋山庄太郎さんにゆかりのある美術館とは聞いていましたが、大正期に作られた石造りの建物がまたいいですね。今日は、3連休の初めで、天気も良さそうだし、いるだけで気持ちが良く気がします。

そういえば、福島では有元利夫さんの展覧会も行っています。場所は、郡山市立美術館だったと思います。お近くの方は、ドライブがてら美術館巡りをするのも良いのではないでしょうか。

福島市写真美術館 
http://www.f-shinkoukousha.or.jp/hanano-shashinkan/

郡山市立美術館
http://www.city.koriyama.fukushima.jp/bijyutukan/index.html

2010年3月19日金曜日

吉野和彦写真展”TRANSITION”、いよいよ明日開幕!!

吉野和彦写真展”TRANSITION”が、いよいよ明日開幕となりました。世間では卒業式、入試発表、プロ野球の開幕やらと、新たなスタートに向けて動き出しているようですが、ここKalos Gallryでも、古くて新しい写真表現をお見せしたいと思っています。

今回は展示演出的なものを行う予定はありません。静かな落ち着いた空間の中で、一点一点を集中して見ていただき、それら全体が醸し出す世界観を体感してほしいからです。そういった考えもあるので、ゆったりとした展示になっていると思います。

少しだけ展示状況を載せます。




また、今回はポストカード大の作品リストを準備しています。(数に限り有り、50名様程度の予定)
今日一日でこまごました準備を整え、皆さんがお越しになるのをお待ちしたいと思います。


是非、早めにお越しいただきたいと願っています。

2010年3月18日木曜日

「移りゆく時間」

展示作業が佳境を迎えています。


一昨日から行っている展示作業が、今夜には終わる見込みです。本当は昨日にはおおまかには終了するだろうと目論んでいたのですが、展示金具が足りないことに気づき、急きょ取り寄せることになりました。手に入るのが今日午後ですので、それから位置取りだけ済ませた壁に打ち付け、作品を載せれば終了です。

そんなわけで、昨日はキャプション類の作成やリストとの照らし合わせをしながら、じっくりと作品を見ていました。写しだされている静物のひとつひとつには、花という生物と無機質なものたちとの融合によって得られる独特の世界観が存在しています。

プリント品質は素晴らしいの一言です。光沢感の中に濃密な色彩を放ち、8×10の描写力を待って精緻に写し取られた姿態は、一種他の生命体のような現実感を帯びて、迫ってきます。何より、黒が黒以外の何物でもないところがすごいなと思わせるところです。

レイアウトを決め、壁に立てかけている作品全体を眺めていると、ふとどこかで見た、感じた風景のような気がしてきました。しばらく考えていたのですが、それは小川洋子さんが書く小説の世界のようだと、僕の中で行き着きました。

小川さんの小説では、映画化された「博士の愛した数式」が最も知られたものだと思いますが、僕は「薬指の標本」や「沈黙博物館」なんかがとても好きです。これらの小説には、常に死やエロスといったイメージがまとわりついているのですが、何故か拒否感無く読んでしまえるところが、小川さんの小説家としての質の高さなのだと思っています。

今回の写真展は、ギャラリーという場所でありながら、何か博物館的な感覚で見てもらえるような気がしています。その時、その時代を内包し、美しく、儚いものの残り香にも似て、今は静かに佇む、そんな趣が全体として感じられるような・・・。

まさにそれが、「移りゆく時間」であるわけです。

2010年3月17日水曜日

サイト、ブログ・・・・苦手です。

僕の性格的な部分もあると思うのですが、夜遅くメールが来ても必ず見て、その時に返信するようにしています。本来メールはその名のように手紙であって、即時性はあまり必要のないものであるはずなのに、電話といった直接受け答えによる手段と、なんら変わらないツールになってしまいました。


メールのやり取りは、時としてその言葉の言い回しにより、思わぬ誤解を招くことがあります。こちらはそれほどきついことを言ってるつもりも無く、ましてや感情的になっていない場合でも、受け取る側が必要以上に気にしたり、違った印象を持つことはよくあることです。

そんな時に、使っている言葉とその扱いや表現の大事さがよく分かります。大抵の場合、後日誤解は解けるのですが、全く会う事が無いような人とは、なかなか意思が伝わらないままになってしまうことがあり、とても心苦しい気分になってしまいます。

これは、サイトやブログなんかでも同じです。お互い顔が見えない状態で、言葉だけを手繰って理解しよう(伝えよう)とするわけですから、実は僕にとっては非常に苦手な分野なのです。面と向かって相手に自分の伝えたいことを話すことも決して得意ではないので、どっちもダメじゃないと突っ込まれそうですが・・・。

サラリーマンであった頃は、組織や会社という特殊な環境?で起きる様々な不条理やジレンマを当たり前のように感じ、しょうがないの一言で済ませられてしまうことがありましたが、一人で行うようになってからは、時として厚かましかったなと思えるほど、素直な感覚で人と接してきてしまった気がします。それが良いことなのか悪いことなのかは、今は自分でもよく分かりません。

もし、あいつ暴走しているなと感じたら、いつでも助言や意見をして下さい。

よろしくお願いします。

2010年3月16日火曜日

クリープ試験のような一生

2,3日前から少し腰の具合が芳しくないのですが、いよいよ展示が始まります。もう何十年と付き合ってきて、ふとした時に現われる症状ですが、病院に行くといつも言われることが、疲労性という言葉です。このところ、あまり体も動かしていないし、思い当たる節は無いので、そんな感じでもないのかなと思っています。


人は生まれてからしばらくは成長の期間ですが、後の大半は衰退というか色々な部分が衰えていくものです。最終的に死に行きわたることは、明白の事実で、唯一生まれてから確実に自分の身に起こることを保障されたものです。保障されたといういい方は語弊があると思っていますが、生まれてこの方自分の思い描いた通りに生きられる人はほとんどいないわけで、何の保証もないまま生活しているような気がします。

以前の仕事で、プラスチックのクリープ試験に立ち会ったことがあります。クリープ試験というのは、簡単に言うと、一定の試験片を定荷重で引っ張った時に、どの時点で破壊するかを試験するものです。長期間に渡って行われることもありますが、僕が立ち会ったのは加熱状態のそれだったので、とても短い時間で結果が出るものでした。最初の内は何も変化しないように見えていますが、徐々に温度が上がるにつれて伸びを見せると、ある時点で突然破断してしまいます。これは、疲労性によるクリープ試験ではありません。なので、結果はすぐ出てしまいます。

その試験を見ながら、人の一生は疲労性によるクリープ試験のような感じなのかなと、ふと思いました。一生をかけて、肉体的な衰えや精神的な要因で徐々に疲労し、死に至るわけです。でも、人は試験機に取り付けられているモノではありませんから、ただ単純に破壊に向かっているわけではありません。その為の学習や知恵が備わっているのです。

長いようで短い一生。

結果はすぐには見えないけれど、破壊してしまうままに任せることはしたくないと思います。

2010年3月15日月曜日

表現すること・・・その自由さ

今月の私的な催しも昨日で終わり、今回はごく少人数の参加になりましたが、とても有意義な時間が過ごせた気がします。ギャラリーで出している案内状をたまたま目にして、イメージに惹かれたり、思わぬ作家の名前に誘われるように訪れてくれた何人もの方々。ほんの一瞬だけ話をし、作品やギャラリーに触れて下さっただけで、また訪れてくれる方々には本当に感謝ですね。


先週告知した公募展”Sha-gaku”にもすでに何人かのお申込みがありました。1.5m~2mの幅の壁面にどんな世界を作ってくれるかは、楽しみでもあり不安でもあります。スタンダードに展示を考えている方やそうではない方々の作品が、壁伝いにさまざまな風景を醸し出してくれることでしょう。

音楽でもそうですが、調和や関連性はそれだけである種の心地よさを与えてくれます。しかしながら、不安定さや不協和も刺激としてとても大切な要素だと考えています。昔から表現手段のひとつのやり方として、起承転結ということが言われますが、分かりやすさの面ではとても理に適ったものだと思います。でも、みんながみんなそのやり方で表現していれば、見る側に分かりやすく、面白いものかというとそうではありません。

表現はもっともっと自由であって良いわけです。そんな、自由さも僕はみたいのです。時には理由やコンセプトなんかは必要でないとすら考えています。一歩踏み出して、自己表現する楽しさや困難さを肌身で感じて欲しいとの思いもあります。

そこには見も知らない人たちとの繋がりみたいなものも含め、日常では得られない何かを見つけることが出来るかもしれません。そんな出会いの場でもあってほしいのです。

2010年3月14日日曜日

ルーチンワークそして繋がり

毎日ギャラリーに降りてきてすること。


○朝一日に一回だけ、自動販売機で缶コーヒーを買う
○このブログを更新する。
○今は何もない白壁を一周して見て回る。
○パソコンの前で頭に浮かぶ企画(実現可能・不可能関係なく)や考えを思ったままに入力していく。

今は準備休廊で、比較的時間に余裕があり、その間に映画や芝居とかの映像も見たりするのですが、上の4つは必ずすること、もうルーチンワークのようになっています。ほとんどが一人での作業や行動なので、話すことはほとんどありません。

この2日間は私的な催しがあって、お客さんと話をさせてもらったこともあり、それだけで気が落ち着く感じがします。人と向かい合い話しをすることは、大抵の場合、立場や利害が付いてくるものなので、そのわずらわしさや気まずさに辟易してしまう事がありますが、やはり、人はどこかで世の中との接点を持たないときついんだろうなとも時々思います。今はそれが現実の世界でもネットといったバーチャルな世界でも有りなんだろうと思えるようになってきました。

顔の見えないネットの世界だから言えること、その全てを肯定するつもりはありませんけど、発せられる言葉には色々な思いを感じることも出来るし、共感を得ることは現実としてありますからね。そういった意味では、繋がりという概念も常に変容しつつ、それを理解しながら許容しなければ生きていけないのかもしれません。

今日もお客さんが来られます。楽しいひとときにしたいとの思いもあり、少しでも伝わればとも思っています。これもまさに繋がりなのですから。

2010年3月13日土曜日

永遠に解けないなぞなぞ

現在準備期間中のギャラリー内は、壁には作品も無く、いわゆるホワイトボックス化状態です。もうじき、展示を始めますが、それまではプロジェクターを設置し、壁面に直接投影しての映像を楽しみたいと思っています。もちろん、昼は雑事も含め、仕事をしていますので、見るのはもっぱら夜になります。


昨夜はもう何度となく見てきた、「ゴドーを待ちながら」という芝居を見ました。サミュエル・ベケットが作ったこの芝居は、演劇を知っている人はだれでも聞いたことがある有名なものです。いわゆる不条理劇の代表作です。

2幕仕立ての芝居の中で、主人公となる2人の男性(今で言うとホームレスのような人たち)がひたすらゴドーという者を待ち続けます。その間に交わされる会話にも、果たして意味があるのか無いのかさえ分かりません。舞台上には、大抵は一本の木だけがあります。でも、僕が見ているものは、何年かは不明ですが、串田和美さんと緒方拳さんがシアターコクーン内特設小劇場・TheatrePUPAで行ったものを、松本へ持って行って上演したもので、舞台上には何もありません。

舞台進行上、ドラマらしいドラマは何も起きません。初めて見た時(このバージョンではありません)は、これは一体何なのと思いましたが、不思議と気になり、ネットや本で調べたりもしました。実際、TheatrePUPAでの公演も観に行きましたが、やはり僕にとってはなぞなぞでした。そんなこともあり、テレビ放映があると知った時に、もう一度見ようと思い、録画していたものなのです。

不思議なことに、見るたびにその印象や感想が変わります。見えなかった部分が見えてくるというのか、ただ単にそう思えただけかもしれませんが、その時の自分の感情や世間との繋がり(立ち位置のようなもの)のようなものにも関係があるのかもしれません。それだけ、見る側の感覚が試される意地悪い芝居とも言えます。

20世紀を代表する写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真集の表紙に、サミュエル・ベケットのポートレートが使われています。いかにもといった風貌で、神経質で繊細な気質を感じます。


それを捉えるブレッソンもやはり大したもので、恐れ入りますね。多分、僕はこの写真集を手に取る度にベケットを思い出し、またその芝居を見てしまうような気がします。そして永遠に解けないなぞなぞに頭を巡らせるのだと思います。

2010年3月12日金曜日

新しい何か。

右下の演劇情報で紹介されている劇場は、PARCO劇場ですが、いわゆる民間企業が母体の劇場です。500名以上の収容人員、知名度も全国区であり、僕の感覚では大劇場のひとつです。ごくごくわずかな人だけが立てる舞台です。


そんな劇場の舞台に立って、芝居を行える事は、多くの演劇人には夢のようなものだと思います。中にはそうではない人たちもいますが、それでも、多くの人に観てもらいたいという気持ちは変わらないものです。

古澤君が出演することが決まって、そのニュースを見た時に、あぁ、今年は芝居が出来るんだと単純に喜んでいたけれど、改めて考えると、渋谷にあるPARCOだよなと、いらんお世話だけど、少しだけ心配してしまいます。

これだけの出演陣で、話題にも上がるだろうし、観る側も大きな期待を持つわけです。興味の対象は主には作品自体の出来になりますが、それを構成する役者の演技や振る舞いにいやが上にも注目が集まります。世間の評価と言うのは、結構きついもので、ネット上のレビューを見ていると良く分かります。

僕自身、古澤君についての思い入れみたいな部分があり、普通に観に来られるお客さんとは多分違うと思うので、本当に楽しめるかなという不安はあります。それでも、出来るだけ客観視しながら、舞台から発せられる言葉や感情を受け止め、新しい何かを感じられたらとの期待もあります。

あっ、もしこれを彼が読んでいたら、プレッシャーになるかな。それでも、奇抜であるとか目新しいとかではなく、新しい何かが観たいですね。その何かは、今は何なのかは分かりませんが、そんな一端が垣間見られるだけでもいいかなと思っているのです。

2010年3月11日木曜日

雪道を歩くように。

歩きづらいです。ギャラリー前の通りは、車道と歩道の境が無く、車2台が行きかえる程の道なので、雪が溶けシャーベット状になってしまってしまうと、おのずと地面の露出している車道側を歩くようになってしまい、行きかう車を気にしなければなりません。大通りの方も同じで、車道はすっかり地面が見える状態になっていますが、歩道はほぼ変わりなく、とても歩きづらいのです。


もともと、雪道用の靴も持っていないので、だいぶ以前に買ったワーキング・ブーツを引っ張りだそうかとしましたが、普段ローファーしか履いていない僕にとっては、とても面倒で出しても履かないだろうなと思い、止めることにしました。今日はこれから晴れるようだし、明日以降かなり状況は良くなるだろうと楽観しながら、慎重に歩きながら、外に出ようと思っています。

今は会期準備中なので、外回りで営業もしなければいけないのですが、先日発表した6月の公募展やら「せんだいアート散歩」やらの資料やまとめの作業をしているので、PCの前に座っていることが多いです。

明日から3日間は、私的な催しを行いますので、そちらの準備もしなければなりません。今回はお集まりになるお客さんも少ないのでそれほど準備は取られません。映像用のスピーカーをセットするぐらいですか。いづれにしても、明日からは午後の時間に作業が出来ないので、今日出来るだけ進めようと思います。

いつも時間があるからと後回しにすると、結局はぎりぎりになってしまいますから、注意が必要です。僕の場合、その時はこれで良しと思っていても、後日見直してみるとこれじゃダメと自分でダメ出しするケースが多々あります。まぁ、考えすぎて前に進まないようにならない程度にはしていますが、結構優柔不断なんですね。

以前の商売柄、長年リスクばかりを考える癖が付いている影響もあります。大胆であることと無謀であることの違いを判断することは、この年になってもなかなか難しいものです。

それでも、結局、最後は思い切りが無いと何も出来ないし、その前に、今やることがあるもしくは思いつけることは大事なことです。雪道を歩くように、一歩ずつ進むこと、そして、枯れてしまったら、終わり。

2010年3月10日水曜日

大雪の日、スタンプが届きました。

春の珍事と言って良い程の、一面雪景色の朝です。仙台での積雪は、朝7:00現在で23cmと、5年振りの積雪量だそうです。昨日午後から降り始めた雪質を見て、これは積もるなぁと思っていたのですが、ここまでになるとは予想していませんでした。


そんな折り、朝からちょっとしたトラブルでごたごたとしてしまい、ようやくギャラリーに降りてきてこれを書いています。トラブルは事無く済んだので心配はいらないのですが、未だ降り続く雪はいかがなものかと感じながらも、反射する光で異様に明るい様子は何か心躍るものがあります。火や光といったものは、それだけで日常の何気ない情景を一変させてしまう効果がありますからね。

そんな雪の中、昨日「せんだいアート散歩」で使用するスタンプが届きました。先週の説明会の後、考えた末に参加を決めて、速攻デザインして、発注していたものです。

それがこれだ。ワン、ツー、スリー。(どこかで聞いたことがあるフレーズ)


知っている人にはまたネコかよと突っ込まれそうなのを覚悟の上、あえて入れてしまいました。まぁ、このブログのプロフィールにもpolkaのイメージを本猫?には無許可で使用しているので、この際、統一しようかなと思ったわけです。アートって、何か敷居が高く、取っつきにくいものと思われがちですが、そんなことは決してなく、誰にでもその扉は開けられています。そんな思いも少しは込めてです。


デザインしていて感じたのですが、こんなものでもとても楽しい気持ちがしました。五十路のオヤジがパソコンに向かって制作している様子は、あまり気持ちの良いものではないと思いますが、本人は案外そんなことにはお構いなしです。

期間は4月中旬から約2カ月あります。是非、スタンプを押しにみえて下さい。

2010年3月9日火曜日

魂が震えた


昨夜届いた一通のメール。ブログに載せたからというわけではありませんが、古澤君からでした。なんと、偶然です。


それには、横浜美術館で行われているチェルフィッチュ公演を観に行って、ひどく感動、ショックを受けたことが書かれていました。彼の文面を引用すると、「魂が震えた」とまで書かれていました。

チェルフィッチュと言っても、多くの人は知らないと思います。主宰で作・演出の岡田利規さんは、「三月の5日間」で第9回岸田國士戯曲賞を受賞し、それを小説化した、「わたしたちに許された特別な時間の終わり」では第2回大江健三郎賞を受賞している程の才能の持ち主です。

芝居の特長は、セリフとも付かないような口語表現とそれとはまるで関係ないような身体表現ですかね。ある意味パフォーマンス的要素も感じられる全く新たな演劇手法で、主に若い年齢層に支持されています。こう書いても、おそらく想像は付かないと思います。

生で見ても、大抵の方には退屈なだけかもしれません。これまでの演劇における間であるとか観客との距離感とかがまるで違う為、会場を包む緊張感がある種の拒否感を生んでしまうからです。

それでも、常に注目を受けながら活動しているのは、古澤君のように「魂が震えた」と言ってしまうほどの人がいるからだと、僕は思います。そのことが、マイノリティーでありながらも、いつも自分の表現や言葉に向き合いながら、発表し続けている原動力のようにも思えます。

今朝ネットで調べると、約2年振りの新作公演で、タイトルは「わたしたちは無傷な別人であるのか?」です。明日まで横浜美術館レクチャーホールで行われています。当日券もあるかもしれないので、お近くの方は観に行かれてはいかがでしょうか。

2010年3月8日月曜日

再会の日を楽しみに。

昨日中に作品撤収を済ませて、少し筋肉痛の朝です。普段が体を動かさない生活をしているので、撤収の時は一気に済ませないと終わらない気がしてしまい、いつも休憩無しで行ってしまいます。やはり、年齢を考えないといけませんね。


それと、昨日から演劇情報を追加しています。演劇ライフのHPを見ていたら、貼り付けられるパーツがあったので、追加してみました。5月から始まるこの公演は、以前から何度か紹介している古澤君が出演するものです。

「裏切りの街」。なんて、昭和チックなタイトルでしょう。もっとも、作・演出の三浦さんは人の心の闇の部分を、これでもかと見せつける(客も引いてしまうほど)人なので、昭和だろうが平成だろうが関係ないと思いますが。今回はパルコ劇場という大舞台(よく知られた商業劇場といった意味で)と豪華出演陣ですが、いつもの嫌な劇空間を見せてくれるのか、それともまた違った一面を見せてくれるのか、いずれにしても楽しみです。

実はすでに古澤君に頼んで、チケットを予約しています。こちらでも会期中なので、とんぼ帰りになると思いますが、古澤君の出演している芝居は、2008年ポツドール公演「顔よ」以来ですから、実に2年ぶりになるのです。2009年シアタートップスで行われた「愛の渦(再演)」には、こちらの準備やらなにやらで観に行けなかったですから。

本当にいつの間にか時は経っているものです。少しですが、公演後会って話をしたいと思っています。実はこれが一番の楽しみであったりするわけです。

追記
情報の中の「新仙台」は「新世代」の間違いだと思います。仙台が入っていて、一瞬「おぉ!?」と考えてしまいました。

2010年3月7日日曜日

いつまでも僕の心に残っている親友

昨夜偶然NHKでのど自慢全国大会?を見ました。そう、毎日曜昼に放送されているお化け番組ののど自慢です。それは、全国の各地区チャンピオンがNHKホールに会して、グランプリを争うものでした。グランプリに輝いたのは、日本に来て3年目、静岡から出場したブラジル人男性が歌った演歌でした。


詩情あふれる歌声を聴きながら、僕は今から約20年前に知り合った一人のブラジル人男性を思い出していました。彼は企業研修のような形で、当時僕が働いていた会社に入り、半年間同じ部署で仕事をしていました。日系2世であり、顔つきもほとんど日本人にしか見えないけれど、日本語は1年間程度勉強しただけなので、始めのうちは会話がかみ合わなかったことを覚えています。

当時、僕はブラジル音楽が好きで、しょっちゅう輸入レコード屋に足を運び、あれこれ探していたこともあり、仕事以外での付き合いをするようになるまでにそれほど時間は掛かりませんでした。プライベートでもよく会うようになり、いつしかずっと前から知っていたかのような仲になっていました。彼は非常に繊細な心を持ち、僕なんかより日本人らしい感じがします。多分、2人並んで、どちらがブラジル人かと問われたら、多くの人は僕を選んだのではないかと思います。

彼との思い出は色々あるのですが、研修も終わりを迎え、一旦ブラジルへ帰国する直前、彼の妹さんが日本に遊びに来た時のことです。僕は、妹さんにも少しアジア的な雰囲気を楽しんでもらいたくて、横浜の中華街に2人を連れていきました。その時たまたま妹さんの誕生日が近かったこともあり、彼ら2人にプレゼントを準備していました。

それは、あの頃僕が良く着ていたポール・スミスのトレーナーでした。襟元が少々くたびれてしまったオリーブ色のそのトレーナーをその日も僕は着ていました。胸に小さな魚の刺繍を施してあるもので、2人には色違いで、また妹さんの方には魚ではなく鳥の刺繍が入ったものを選びました。

楽しく中華を食べた後、彼らにそれを手渡すと、2人ともえらく嬉しがりました。そして、彼は、僕に素直な喜びをこんな言葉で話してくれました。

ありがとう。とても感激しています。・・・・本当は、いつも○○さんが着ているトレーナーが欲しかったです。それは世の中に一つだけしかないものだから。

あれから20年以上経ち、その後音信も不通になり、どこで何をしているかは分かりません。それでも、いつまでも僕の心に残っている親友で、もう一度会いたいと、今でも思っているのです。

2010年3月6日土曜日

津波・・・その後。

今週、チリ大地震の影響で太平洋沿岸全域に津波が発生し、宮城でも大津波警報というこれまで聞いたことも無かった警報が出されました。警報で出されていた予想の波高さにならずに済んだのですが、養殖業者にはかなりの被害をもたらし、沿岸の民家等には浸水したところもありました。


今朝のニュースを見ると、避難警報が出された地域の住民で、実際に避難場所へ移動した方は全体の約6%であったようです。日本のほぼ裏側から迫りくる波を、ほとんどの人は本当に日本の裏側の出来事のように感じていたのかもしれません。

地震については、間近でその被害を受けたり、見たりしているので、もし確実に起きることが分かり、まだ避難する時間がある場合は、多くの人は逃げるのではないかと思います。そんな地震大国であり、四方を海で囲まれているにも関わらず、津波に関しては何か他人事のように思えてしまうのは、僕だけではなかったわけです。

警報は一日中テレビ画面上に流れ、いつでも見られる状況にありましたが、今まさに目の前で起きているという実感がないので、何か傍観者のひとりのように思えて仕方ありませんでした。いたずらに危険を煽るような報道や警告は人々に一層の不安感を与えてしまいますし、その辺の匙加減というか、伝達方法のむずかしさも感じました。

いずれにせよ犠牲者が出なかったのが幸いでしたが、対岸の火事のようなつもりでいると、いつかしっぺ返しを受けるような気もします。人は自分自身に起きた痛手や傷を容易に忘れることはありませんが、そうではないものにはひどく鈍感に出来ていると思っています。(そうでないと現実として生きていけなくなる)

なので、あえて自ら積極的に感じようとし、行動することを忘れてはいけないなとも、改めて感じたのです。

2010年3月5日金曜日

アートイベント

猫に目のような天気です。昨夜の冷たい雨が、今日はうってかわって穏やかな春のような暖かさです。路面はまだ黒く濡れていますが、昼ごろにはすっかり乾いてしまうでしょうね。


昨夜は、地元新聞社が主催する4月から行われる予定のアートイベント説明会があり、久しぶりに夜の街を歩いてきました。昨年から始まったこのイベントは、仙台にある美術館、画廊、ギャラリーといったアート関連を行っている業者と新聞社がタイアップして、アートをより身近なものとして、一般の方にも広めていこうというものです。

昨日の説明会の参加数は22業者、参加を呼び掛けた業者が約50社なので、半数程度集まった事になります。いわゆる地方都市である割には、意外に多いのかもしれません。

僕は新参者なので、様子見のような感じで説明を聞いていたのですが、結構お若い方もいらっしゃって、何故か嬉しくなりました。説明後の質疑では、予想通り協賛金についての意見が出ました。事を起こすには、必ずお金が必要になりますが、それを分かっていても、僕自身も正直なところ考えてしまいます。

アートは、飲食や日用品と違い、なにか良くわからないし、あっても無くても良いものとして捉えられがちなので、趣味の世界のように思われてしまいます。実際大昔には、パトロンの存在があり、アーティストの支援や擁護をするようなこともありましたが、今はほとんど無いといって良いと思います。

昨今の不況の中、ますます停滞して行くのではとの危惧はありますが、逆により身近なものとしてのアートの存在が求められているような気もします。キャッチコピーに癒しや安らぎといった言葉が頻繁に現われてきたのはこの数年ですし、たいていの人は潤いのある生活を望んでいるように感じています。

そういった意味では、イベント自体のあり方は間違ってはいないので、参加しようかなとの思いはあります。もうちょっとだけ考えます。

中村ノブオ写真展も今日と明日だけになりました。今週に入ってから来廊数も増えてきています。いつものように、じき終わってしまう寂しさがある中、重い扉を開けて入って来られるお客さんの姿が、僕自身の癒しになるのです。

2010年3月4日木曜日

「ガス人間第1号」

「ガス人間第1号」


実に変なタイトルです。先週NHK教育で放送された芝居で、録画はしておいたのですが、なかなか見る時間がなく、ようやく昨夜見ることが出来ました。

昨年10月にシアタークリエで上演されたこの芝居は、もともとは昭和35年の東宝映画が原作になっていて、原作の熱狂的なファンである後藤ひろひとさんが脚色、演出し舞台化させたものです。

後藤ひろひとさんと言えば、周りからは大王と呼ばれ、非常にユニークなキャラクターで知られ、俳優としても脚本家としても、独特の世界観を持つ方です。一番知られている作品は、「MIDSUMMER CAROL ガマ王子vsザリガニ魔人」ですね。「パコの不思議な絵本」というタイトルで映画化もされましたから。

後藤さんが作る芝居のタイトルは、いつも変っているのですが、今回の「ガス人間第1号」もそれを聞いただけでは何なのか良く分からないものです。でも、今回は後藤さんが付けたタイトルではありませんので、その当時の映画タイトルのストレートな言い回しというか、時代を感じさせるものですね。

物語はガス人間にされてしまった一人の男とその男が愛したヒロインとの悲恋や事件を主軸に、後藤さんらしい笑いの要素を加味しながら、とても分かりやすい展開で進みます。

出演者も後藤作品には初めての方が多く、特にヒロインを演じる中村中さんの存在感は特筆に値します。もちろん、主役であるはずのガス人間を演じた高橋一生さんの静かに抑えた演技も良かったのです(これは狙いだと思います)が、この芝居での絶対的な主役は中村中さんだったと思います。

中村中さんについては、ほとんどというか全く知りませんでした。何かの拍子にテレビで見かけたぐらいで、失礼ながら興味の対象ではありませんでした。が、この芝居で評価は一変しました。演技以前のたたずまいというか、あの若さでこの存在感を醸し出すとは、やはりただ者ではないですね。

このところ、話題性のみが先行してしまう芝居が多くあります。でも、これはそんなことを考えずに楽しめる芝居です。DVDにはならないと思いますが、機会があれば見て下さい。

そういえば、5月にPiper公演が仙台で行われるはずです。Piperは後藤さんを中心に4名のメンバーで構成されたもので、客演も加えながら活動しています。「ガス人間第1号」とは違い、いつものハチャメチャな舞台だと想像しますが、単純に笑い飛ばしたいような気分の方には最適な芝居です。ご興味があれば観に行かれて下さい。

2010年3月3日水曜日

雛祭り

3月3日です。そう「桃の節句」、雛祭りの日ですね。


僕は2人兄弟で、女の子がいなかったこともあり、実家で雛壇を見たことはありませんし、今までも雛祭りを行う機会はありませんでした。

物の本によると、もともとは季節の変わり目の邪気祓いから発生したもののようです。なので、女の子の為というよりは、老若男女を問わず皆の幸福を願う行事だったんですね。また、昔から桃には邪気を祓う力があるとされ様々な神事に取り入れられていたので、邪気祓いをする上巳の節句が桃の節句になったとのことです。

童話の桃太郎もそこから由来し誕生したとも言われています。邪気の象徴は鬼ですからね。それにしても、2月の節分に鬼祓いをし、また3月に邪気払いをするのですから、どれほどの邪気があるのかとも思ってしまいます。そんなことを考えると、邪気は季節の変わり目だけではなく、常に人の内にあるものなのですね。

人でなしイコール鬼のような人とか、映画やドラマの台詞で耳にするのも、鬼を人との対極として捉えるよりは、人に内在しているものとして意識しているからです。あの人は仕事の鬼だねとか鬼のような形相だねとか日常的に話されるのも、いい意味、悪い意味含めて、全ての人が持っているものだからだと思います。

僕ぐらいの年齢になれば、何度かそんな状況になった経験はだれにでもあるだろうし、なぜそういう事になったのだろうと後悔したこともあるでしょう。自分が鬼となり、良かれと思い、取った行動が、相手にとっては全然そうではなく、逆効果になってしまうことはよくあることです。

なので、せめて今日ぐらいは故事にならい、皆の幸せを願い、心穏やかに過ごそうと思っているのです。

2010年3月2日火曜日

続けること・・・。

数日前に、5月の「放浪記」公演を控えた森光子さんにドクターストップがかかり、公演中止になるとのニュースが流れていました。ネットでも新聞でも各社取り上げ、森光子さん自身の文章を掲載していました。


森光子さんは今更説明する必要もない、誰が見ても日本を代表する女優さんのおひとりです。現在の年齢は89歳になります。このニュースに掲載されていた年齢を改めて見て、えっ、もう89歳になっていたんだとの驚きの方が強かったように思います。

2か月間、連日4時間にも及ぶ舞台ですから、要する体力や気力は並はずれたものでなければやっていけません。それを、来年90歳になろうとしている女性が行おうとするわけですから、それだけですごいことです。

2005年日比谷芸術座での最終公演のDVDを今でも時々見ますが、とても80歳を越えている方の演技とは思えません。まだあの「でんぐり返し」もしていました。それから月日も経ち、2009年、芸術座から新たに生まれ変わったシアタークリエでの公演で、上演2000回を迎えたわけです。

何か年齢ばかりを取り上げていうように感じると思いますが、僕は常々これ程の長い期間主役として演じ、一定の水準で表現しつづけているプロとしての姿勢に感心し、尊敬しているのです。年齢もかさみ、近年の演技には、かなり酷評をしている方も見受けられます。もう止めた方が、逆に森光子さんの為でもあるという方もいます。

でも、僕は来年また、「放浪記」に出演している森光子さんの姿が見られることを願って止みません。続けることには、それだけで充分意味があることなのですから。

2010年3月1日月曜日

感動を有難う。

早いもので今日から3月、オリンピックも最終日になりました。


昨夜遅くフィギュアスケートのエキシビションを少しだけ見ました。競技中には見られない笑顔や緊張感から解き放たれたアスリートの姿に、超一流の選手でもやはり人の子なんだなと改めて感じました。

浅田選手が競技終了後に流した涙は、きっと喜びの涙に変わっていくだろうと思いますし、安藤選手も以前からオリンピックは今回限りと公言していましたが、もしかしたら次も狙うかもしれないようです。オリンピックの舞台に立ち、その魅力を経験した者にしか分からない何かが、わずか1日の間に、人としても一回り成長しているような表情に変えているように、僕には見えました。

オリンピックを始めほとんどの競技会では、常にその結果を求められ、もちろん選手もそれを目標にして日々練習を重ねているのですが、一人の人としては結果以上に得られるものがたくさんあります。

これは、何もこのような華々しい場だけに限らず、日常のあらゆるところにあると思っていますし、どんな人も生まれてから一生、心動かす瞬間を一度も感じないなんてことはありません。生活に直接繋がらないところであっても、人が生きていく上で必要不可欠なものなのです。

4年に1度の2週間。とても短い期間です。でも、その2週間の間で繰り広げられるさまざまなドラマは、それまでの4年、いやそれ以上の期間にわたって醸成されたものの結果ですから、人々はその想いや姿勢に心打たれるのです。

陳腐で言い尽くされた言葉ですが、心から感動を有難うと言いたいですね。