2010年5月31日月曜日

吉野和彦写真展、無事終了です。

吉野和彦写真展が無事終了しました。うちのような小さなギャラリーは、天候により大きく集客が左右されます。僕もそうですが、雨降りや寒い日が続くと、外に出るのが億劫になってしまいます。それでも、せんだいアート散歩イベント中でもあり、これまでとほぼ変わらぬお客さんがいらして下さいました。


初めてギャラリーの存在を知り、恐る恐る扉を開けて下さった方々には非常に感謝しています。これまでに感じたことの無い写真世界に触れていただけだのではないかと思います。吉野和彦の描く作品は、何か分かりづらい印象がありますが、実は意外に人の営みにおけるもっとも基本的な部分に触れているので、純粋にその視点や良さに見入られた方が多かったように思います。

本当に有難うございました。

さて、今日からは次回の公募写真展”Sha-gaku”開催準備にかかります。仙台を始め、東北圏のアマチュア写真家によるこの企画展は、これまでには無い展示会だと考えています。

是非とも直に見ていただき、自身も購入・支援という形で参加されることを願っています。

7月にはギャラリー初の在仙女性作家 木戸孝子写真展を開きます。取りあえず、今は”Sha-gaku”に集中しようと思っていますが、並行して進めなければならない部分はありますので、混乱せずに楽しみながら行いたいと思います。

先ずは、自分が楽しめなければ、見る人は楽しめるはずがありませんから。

2010年5月30日日曜日

日々過ぎて行く中で。

吉野和彦写真展は今日が最終日です。5月も明日で終わります。何か、あれよあれよと日々過ぎて行ってしまうような感じですが、次回の公募写真展”Sha-gaku”開催にもあまり時間が無いので、明日以降提示するプレートなんかをぼちぼちと作っていく予定です。


しかも今回は、僕ひとりでの作業というより、参加者それぞれとの共同作業になりますから、不安でもあり楽しみでもあります。今までは、作品を前にしながら、全て自分自身の考えで展示を行っていました。出来るだけ自己満足にならないように気を付けながら、直感に頼る部分が多かったように思います。

Sha-gakuは、表現も展示方法も自由であることが前提なので、僕が入り込む余地はあまり無いし、むしろ参加者それぞれの考えを前面に出してもらえれば良いのです。作業自体、経験が無い方には一緒に行う事で、ある意味ワークショップ的な感じで行えるとお互いに楽しめるんじゃないかと思っています。

絶対に楽しい写真展になるような予感はするのですが、これも見に来て下さるお客さんがいなければ始まりません。言葉に語弊があるとは思いますが、いわゆるサークル的な部分は無いと思います。互いに比較されることを承知で、参加してくれていますからね。

だから、来られるお客さんにはリベラルな眼で見てほしいと思いますし、是非作品を購入して欲しいと思っています。”Sha-gaku”は単に作品発表を見てもらうだけの場では無く、お客さんが参加出来る場でもあるわけです。

より多くの人に、参加者の表現を素直に感じて欲しいと願っています。

2010年5月29日土曜日

松本隆という人

今週水曜の夜に、NHK総合で放映された特集シリーズ「音楽のチカラ」を偶然見ました。少し遅く自室へ戻り、テレビをつけたところ、松本隆さんの姿が映し出されていたので、そのまま見入ってしまいました。松本さんは多くの方に知られている作詞家です。40年の作詞家活動の中で代表曲も数え切れないほどありますし、すでに巨匠の域ですね。


画面から流れ出る彼のぼそぼそと話す姿を見ていると、全く偉ぶったところも無く、大変な巨匠とは思わせない所があります。むしろ、何か昔からいる職人さんのようなイメージが、僕には感じられます。職業的に作詞家として活躍されていたのですから、常に一般的に受け入れられる作品を作り続けることを求められていたわけです。それ自体、作家として非常に大変なことだと思いますが、何故かその自然体でやんわりとした姿勢には、少し拍子抜けしてしまう感もありました。

それでも、見ていてとても感じたことは、長年の経験や積み重ねが無駄な部分をそぎ落とし、なんか良い年の取り方をしているなぁということでした。まぁ、今も現役で創作をしていることが、その源なんでしょうけど。

「はっぴいえんど」の頃の映像が見たくなって、YouTubeなんかで色々と探していたのですが、結局この映像がとてもよかったので、載せておきます。

http://www.youtube.com/watch?v=lBHJHoVNDEQ
 
僕もいいオヤジですが、本当にいい大人ってなんだろうと、考えることがあります。僕たちの年代の人間が何かを残し、今の若い世代により良い環境(文字通りの自然環境といったことでは無く)を作ってあげなければとの思いは、大それたことではなく身近な部分として考えています。


松本さんのドラムを叩いている姿を見ていると、ますますそんなことを感じてしまうのです。

2010年5月28日金曜日

暖かな陽の光のように。

日差しが部屋に差し込んでくる朝は、それだけで気持ちの良いものです。気温は低いものの、それだけでとても穏やかな心持ちになります。天気予報は一日中曇り空になっていますが、今は雲の切れ間から暖かい陽の光が顔を出しています。


僕たちは普段そこにあるものに、それほどの関心を持って過ごしていないことが多いです。そこにあることが当然であるように感じ、実はそこにあることすら忘れている場合があるように思います。逆に、非日常的な出来事や光景、物については、敏感に反応するものです。それがこと生活に直接関連してくる場合は、尚更ですね。

ギャラリーや美術館、劇場といったものは、非日常的な空間です。大抵の人はそのような空間に日常性を求めていませんし、そんな場所にはおそらくは興味も示さないでしょう。その為に、さまざまな趣向や内容で普段目にすることではない何かを目の前に提示し、集まってもらうようにするわけです。

それでは、何故そんな生活と関連してこない非日常的なものを求めて、ギャラリーや美術館、劇場に人々が集うのかと言うと、普段の生活では得ることが出来ない感動や喜び、あるいは恐れや悲しみといった感情の揺れを直に体感したいがためじゃないかと、僕は思うのです。しかも、感情というものは、現在の自分自身の考えや外部環境とかと密接な繋がりもあるので、体感するレベルはその時々で違っていきます。そんな意味では、自身の現在の立ち位置なんかを思わず確認できる場所でもあると思います。

実は発表する側も同じことで、創造し、制作する過程は非常に孤独なもので、ともすれば自分自身を見失いがちになることも多くあります。だからこそ、発表、解放する機会が必要なのです(そこで、自分を見直すというか)。

そう考えると、非日常性は常に日常に隠れているだけで、普段見えていないだけなのかもしれません。なので、不必要なものであるとか、無駄であるとか、価値の無いものでは決してありません。それは、普段気にも留めていない陽の光に、時として優しさや安らぎを感じてしまうことと一緒だと、僕は思うのです。

2010年5月27日木曜日

作品を発表すると言うこと。

昨日午前中に、7月開催予定の”Story vol.1”企画 木戸孝子写真展"The Ordinary Unseen"の案内状が出来上がって来ました。それがこちらのイメージです。

オフセット印刷時の色再現は難しいこともあり、実物はこのイメージよりも若干赤が被っていますが、とてもシンプルな感じになっています。打ち合わせも兼ねて来ていただいた木戸さんも満足された様子でしたので、一安心といったところです。


打合せはいつもギャラリーで行っているので、毎回足を運んでいただいていて、ホント申し訳ないなと思いながら、ついつい甘えてしまっています。打合せは時間の長さが感じられない程、とてもスムーズに進められていきます。それはおそらく、木戸さん自身の人柄の良さと物事に対する公平さ、そして常に前向きな姿勢によるものだといつも感じています。

結構話が脱線することもあり、僕もグチのような事を話したりするのですが、自分の意見を持って話して下さるので、それではいけないのは分かっていても、何だかそんな話だけでも良いような気分になってきてしまいます。まぁ、楽しみながら、順調に進んでいるところです。

昨日もそんな話の中で、webでの作品発表について少し話が出たのですが、僕自身はそれ自体を否定はしません。何より、手軽に楽に発表出来る環境が現在あるわけですから、それを利用するに越してことはないですから。でも、もし本当に自己表現の形として作品発表をするのなら、やはりここにあるものとして、展示・発表しなければ自己満足に過ぎないような気がします。

情報発信の場としてwebを活用することは、現在では大切でかつ不可欠なことだと思います。でもそれはあくまでも情報に過ぎません。また、発表にはよほどでない限りは、自己投資も必要です。また、万人に対して感動や喜びを与えるもしくは感じてもらえることは、並大抵なことでは行きません。先ずは一部の人たちと、自己表現した思いや考えを共有出来れば、それで良いように思います。そして、それは、行動として起こさなければ、決して伝わらないものでもあるのです。

8月予定の、”Story vol.2”は、そんな思いを持った方々の参加を願って止みません。ギャラリーには、いつかは、自分の作品を発表したいと思っている方々がお見えになります。そんな方々とお話をしていていつも感じることは、前に踏み出さなければ、そこから先は見えてこないし、それは他人ではなく自分で起こすもの、と言うことです。

今からでも遅くはありません。ご応募お待ちしています。




http://kalos-gallery.com/event/planning.html

2010年5月26日水曜日

モノクロームの世界

月曜日と昨日の午前中に、現在仙台メディアテーク5Fで行われている「第2回B&W Sendai Photographers 写真展」を見に行きました。月曜日はあいにくとどしゃ降りの雨だったので、来場者は少なめでしたが、それでもあの雨の中見に来るお客さんがいることには少し驚きでした。うちでしたら、おそらく誰も来ないでしょうから。


このグループには面識がある方もいらっしゃいますが、そんなことを抜きにしても素晴らしい展示会であったように思います。アマチュアとプロが混在していて、それぞれにレベルの違いはあるにしても、今の自分のスタイルや個性が充分発揮されたものでした。

ひとり4mもしくは8mの壁面に、展示方法もテーマも自由に作品が配置されています。プリントも銀塩であったり、デジタルであったりとマチマチです。共通していることは、モノクロームであること。色彩に彩られることなく、会場全体に光と影のコントラストが躍っているようにも見えます。

一口にモノクロームと言っても、実はそれぞれに全く違う色を感じるものです。それは単純に制作方法によるものもありますが、描かれている対象やトーンの違いなんかにものすごく影響されてきます。一見して強く、硬く感じられるプリントでも、実はとても優しいイメージを内在している場合があり、それは受け取る側の主観によるところもあるのですが、それもまた不思議なところではあります。

また、そんな現実感とは離れた部分や逆に現実を強く意識するようなモノクロームの世界は、見る側の想像力や感性を試すような状況を作り出す場合があるのですが、そんなことはあまり考えずにただ感じたまま、目の前の世界を楽しめば良いのです。

会期は本日26日までです。時間はPM5:00までですので、ご注意を。

是非、お見逃しなく。

2010年5月25日火曜日

身の程・・・身の丈

今日は朝から自転車で2か所ほど回っていました。昨日とは打って変わって夏のような天気の中、肌に感じる風がとても心地よかったです。たった今ギャラリーへ戻ってきたので、更新もちょっと遅めになってしまいました。さて、何を書こうかとおもむろにPCの前に座ってみたものの、何も思いつきません。そんなわけで、ここしばらく感じていたことを書こうと思います。


身の程に合った生活、身の丈にあった大きさを良しとして生きていくことはとても大切なことです。でも、もし、人それぞれに器が決まっていて、その大きさを自覚し、納得して生きているのだとしたら、それはとても悲しいことだとも思います。

遥か昔、日本に身分制度があった頃は、それがごく当たり前のことのように、社会制度として理解されていました。大多数の人はそれに従い、それが自分自身の将来へ直結していたわけです。身分制度が無くなってからも、長い間、特に女性は慣例を重んじる社会環境の中でそういう思いをしてきたのだと思います。(今だってある部分ではそんなことが残っていると、個人的には思いますが)

さて、現在はどうかというと、言葉としての不公平さは世の中全体で無くそうとはしていますが、現実としてそうではないことが多くあります。昨年来の派遣切りなんかはその一例なのかもしれません。一方で情報社会として既に認知されているネット上のSNSやコミュニティーやtwitterなんかは、オープンでフラットな世界として拡大を続けています。そう言った意味では、やや健全な世界へと向かっているのかも知れません。

この場で、そんな世界上での顔の見えない匿名性とかを云々するつもりはありません。実際ネット上での言葉や行動がリアルタイムに現実の世界へ繋がっている例はいくらでもあります。ただ、その中での自分も身の程に合った自分なんだろうかと、ふと考えたりします。バーチャルの世界での身の置き方といったところなんだと思いますが、僕の場合は、自分が自分ではないような感覚がまだあるなというのが正直なところです。(ネット上でも現実なんだけどなぁ)

一方、現実(生)の世界でも、今の自分自身についての身の程や身の丈を意識しながらも、それ自体を納得というか自分自身で制限したいとは思っていません。その思いのようなものは年齢を重ねるほどに、徐々に強くなってきているようです。

やはり、これからの少ない時間で、何を残せるのかを考えるようになってきたことと関係があるように思います。決して大それたことではないにしても、自分から枠を意識し、納得してしまったのでは、まだ見えていないだけの可能性を捨ててしまったことのように思えるからです。

僕自身、単純にあきらめが悪いだけなのかもしれませんが、もうちょっとジタバタしてみようと思っているのです。

2010年5月24日月曜日

「裏切りの街」を観て・・・。

「裏切りの街」


パルコ劇場からのメールで作品タイトルを初めて見た時には、とても違和感を覚えました。これまで観てきたポツドール公演の三浦大輔さんと結び付かない、そんな印象を受けたからかもしれません。ほどなく、特設サイトがアップされ、スチールや内容を見てもその印象はあまり変わらないものでした。それでも、パルコプロデュースでメジャーな劇場での演出にこれまでとは違う何かを期待せずにはいられませんでした。

本編3時間15分、2部構成という結構長めの作りが、ますます期待感を強いものにしていきます。物語に登場してくる人物は、誰もみなダメさ加減を持つ、普通の人のように見えます。しかも、三浦さんの演出は決してそれ自体を否定も肯定もせずに、淡々とした流れの中で、綿密な構成で綴られていきます。ややもすれば、退屈な戯言を見せられているような感じになりがちな所を、役者それぞれの個性を引き出しながら、上手にかじ取りを行っているように思えました。

1部がそんな感じでしたので、2部では劇的な構成やいささかドラマチックな展開になるのか(タイトルのように)と思いきや、流れに任せるような生き方をしている登場人物同様、物語は何もなかったかのように終焉を迎えます。この辺は、これまでポツドールを見続けてきた人にとっては、消化不良気味であったかもしれません。

でも、僕はそんな静かな構成の中に、現在と言うリアリティーが表出しているようで、これはこれでありだなと思えました。プロデュース公演という制約の中、自分自身を率直に表現・演出しようとしている三浦さんがいたように感じます。これまでいくつもの実験的な芝居を行ってきていましたが、このメジャーで大きな劇場を舞台に、決して眼にみえる刺激的な行為や演出だけではなく、ひとつの物語として成立させる試みは逆に実験的要素があったように思います。

そんなわけで、1年3カ月ぶりの生の観劇は、その幕切れのゆるい雰囲気同様、いつもの居心地の悪さよりも際立った余韻を残してくれました。変わらぬ古澤君にも会えたし、大満足の夜でしたね。それにしても、久しぶりのパルコ劇場は、何故か思ったより大きさを感じなかったのが、とても不思議な気分でした。

2010年5月23日日曜日

"Sha-gaku" ~ 販売をするということ。

吉野和彦写真展も残り1週間になりました。外はあいにくの雨模様で、外出するのも面倒だとは思いますが、是非足を運ばれて見てほしいと願っています。広告、宣伝が行き届かないので、ギャラリー自体あまり知られていないのが非常に残念なのですが、せんだいアート散歩の効果もあってか、これまで写真に触れたことのないお客さんが来てくれるようになりました。


写真に対する認識は、まだまだ絵画や彫刻、版画といったアート作品と比較して、下に見られている傾向はあります。あまりにも身近で、携帯でも写真を撮れる時代ですし、フィルムカメラの衰退も相まって、写真自体の存在意義がアートとしてのそれよりも原点である記録としてのそれに戻っていってる感じがします。

web上のブログでは、そのほとんどは視覚的な記録の一部として取り上げられているわけで、数ある作品発表のサイトにしても、数多ある情報の中に埋もれてしまっているのが現状です。そんな流れだからこそ、自らの表現を現実のものとして、展示し、作品として発表することが求められているのだと、僕は思うのです。

6月に開催する”Sha-gaku”は、ひとつの指針のようなものです。参加するメンバーはアマチュアで、展示・発表に関しても経験が少ない方々です。僕は経験が無いからと言って、レベルが低いかと言うと、決してそうではないと思っています。もちろん、方法論としてさまざまな経験を積んだ方が有利であることは確かです。

今回は、展示作品とポートフォリオ作品を区別して販売をします。ポートフォリオ作品の一部はサイトでも販売を行っています。キャリアも無いアマチュアの作品を販売すること自体、正しいことかどうかは分かりませんが、見る人の心や体に直接感じられ、それに共感や感動を受けるのに、それがプロの手によるものである必要性は無いと思います。

購入されるという事は、単純に他人の手に渡ることを意味します。買った方はそれを部屋に飾り、毎日眺めてくれるかもしれません。そんなことを想像すると、制作する参加者はいやがうえにもその制作スタンスに変化がおきると、僕は思っています。(これは売るための作品作りとは違う部分のことです。)

なので、見られる方は是非、共感を受けた作品を手にして欲しいと願っています。

先ずは、こちらをご覧になられて下さい。そして、出来れば、実際に見て肌で、心で、頭で感じ、理解することをお勧めします。

http://kalos-gallery.com/exhibition/sha-gaku.html

2010年5月22日土曜日

夜の催し

昨日は月一回、恒例の催しで、8名程の参加がありました。初めての夜の開催で集まるかどうか疑問でしたが、植田正治さんの映像を観たりしながら、楽しい夜を過ごしました。久しぶりに来ていただいた若い女性を含めて、残った4人であれこれ話をしていたら、あっという間に時間は22:00を回っていました。ホント、有り難いことです。


僕にとっては、ギャラリーという場で、様々な写真作品を直にお見せして、作家の思いや考えを理解してもらえるよう分かりやすく話すことが役割だと思っているので、気が付くとそんな風になっています。話しすぎるほど、話してしまったような感じで、また、言いたい事をそのまま話してしまったと少し反省しながら、後片付けもしないまま、自室へと戻りました。

部屋に戻り、足もとで頭を摺り寄せてくるpolkaを踏みつけないようにしながら、冷蔵庫からビールを取り出し、ゆっくりとソファーに身を沈めました。適度に疲労を感じていましたが、それは嫌な感じでは全く無く、むしろ心地よいものでした。しばらく、テレビも付けないで、ぼんやりと明かりひとつだけ点いた部屋で、ビールを飲んでいました。

窓から見えるビルにはまだ煌々と明かりが点いています。中では、今、この時間にも仕事をしている人がいるのだろうなと想像していると、自然に僕も明日からまた頑張ろうかという気持ちが湧いてきました。

人との関係性がゆるく、曖昧な今だからこそ、その状況が居心地良いとしても、生身での人との繋がりはとても大事なんだと思います。過多な情報に取り囲まれて、それを逃すまいとして汲々として生きている事よりも、もっと大切なことがそこにはあるように感じます。

それって、多分、人が現実の中でこそ生きていけることの確証みたいなものなのかもしれません。夜の時間は人に色々なことを思い巡らせ、考えさせる傾向があります。それでも、決して感傷的な気分に浸っているわけではなく、昨夜は素直にそう思えたのです。

2010年5月21日金曜日

今の僕は・・・。

今日は朝から既に暑くなる雰囲気です。ギャラリーの前を足早に過ぎていくスーツ姿のサラリーマンの人たちは、大変かもしれません。僕はここ10年程、スーツなるものを着る機会がほとんど無く、多くても年に2回から3回程度です。冠婚葬祭の時は、勿論それなりにしますけど、それ以外は普段着のまま通勤もしていました。


ほぼ内勤で、会社ではユニホームだったこともあり、朝晩着替えればそれで良かったのです。でもそれ以前は、外回りもしていたので、一応スーツなるものを着て、毎日通勤していました。その頃もユニホームはあったのですが、大抵はシャツの上に羽織るような感じで、夏場でもネクタイはそのまましていました。今は、クールヴィズなんてこともあり、そんなこともないのかと思いますが。

今はどうなのかと言えば、朝から寝るまでほぼ同じスタイルです。部屋着に着替えることもあまりしません。というより、ただ着替えるのが面倒なだけなのだと思います。そう、かなり無頓着なんですね。

20代の頃は、それでもファッション雑誌(メンズクラブは良く見ました)なんかも見たりして、アイビーやらトラッドやらにはまったりもしましたが、今思うと気恥ずかしくなります。元来、着飾ること自体、あまり好きではないのです。もちろん、ファッションはその人の個性でもあるので、全てを否定するわけではありません。基本、自由ですから。

それでも、こうしてギャラリーを開き、お客さんと接したりするようになってからは、本当にたまにですが、どういう風に見られているのだろうかと思う事はあります。やはり、第一印象は見た目が一番強烈に残りますからね。多分、変なおやじぐらいに見られているように思いますが・・・。

でも、それはそれで良いと僕は考えていて(違うよと言う人はいますが)、体裁も含めてあまり飾ることが無いようにしています。なので、初めて接する人(ほとんどがそうなのですが)にも余計なことを言ってしまっているなと感じることがよくあります。それでも、もしここで話しておかないと、もう二度と会えないかもしれないし、何より今自分がこの話をしたいんだなと思えることの方が大事な気がするのです。

そう、言葉もファッションのような気がします。人は時代の流れや自分の立ち位置なんかに左右されながら、大概話す言葉を選んでいます。それは個性として顕著に現われてしまうものだからですね。自分自身の感情をストレートに言葉として発すること自体、とても難しい今だからこそ、僕は出来るだけ余計なものは省きたいと感じています。

もし、ギャラリーにみえられて、失礼があったら、ここで謝っておきます。

今の僕はそういう人なのですから。

2010年5月20日木曜日

貸本屋の女性店主

「ゲゲゲの女房」に毎回登場してくるものに貸本屋があります。今の若い人にはあまり馴染みも無く、よく分からないかもしれません。昭和40年代、僕が小学生だった頃までは、実家のすぐ近くに貸本屋がありました。小学校から帰ると、毎週決まって少年漫画の週刊誌や月刊誌を借りにいったものです。


そこは、70歳を超えたと思われる(自分が幼かったから余計年齢が上に見えたかもしれませんが)女性がひとりで店を切り盛りしていたこともあって、新刊本と言えば、週刊誌や月刊誌ぐらいで、本棚にあるものはほとんど変わらなかったように思います。もっとも、僕は少年漫画しか借りに行っていなかったので、本棚に何かが新たに加わっていても気付きもしなかったのですが。

店に入ると、左手奥に小上がりのような所があり、ドラマで演じている佐々木すみ江さんがさらに年を取られたような感じのその女性は、いつも座布団を敷いた上に正座していました。週刊誌ですから毎週決まった曜日に出版されるわけです。もちろん、僕のような人間は何人かいるし、一回に数冊しか入荷しないこともあって、人気のあるものは当日借りることが難しく、いつも2番目に借りるつもりのものを持って帰った記憶があります。

僕も幼くして常連さんだったのですが、やはりその女性に「今はないけど、明日には貸せるよ」と言われると、ハイと素直に答えるしかありませんでした。

中学に上がる頃には、クラブやら友達付き合いの方に夢中になり、行く機会もめっきり少なくなりました。やがて、店も無くなり、その女性と会う事もなくなりました。それでも、毎朝「ゲゲゲの女房」を見るたびに、何故か薄暗い貸本屋の隅の方で、ひとり座っている女性店主の姿が目に浮かびます。また、そこにほぼ隣接していた映画館から漂っていたポップコーンの香りなんかもふとした瞬間に思いだしたりします。

昭和や幼い日へのノスタルジーといったものは普段はあまり意識しませんが、僕にとってはその貸本屋や映画館は、原風景のひとつなんだと思います。

2010年5月19日水曜日

「ノー残業デー」

先週の新聞に、プロ野球楽天球団が、水曜日の主催ナイターを対象に、会社からクリネックススタジアム宮城までのバス送迎サービスを付けた観戦チケット「ライナーチケット」を発売するとの記事が載っていました。30人以上の団体が購入できるらしいのですが、水曜日は仕事を定時で切り上げる「ノー残業デー」にする企業が増えていることに目を付けたとのことでした。


「ノー残業デー」という言葉を久しぶりに聞いたなと思っていたら、意外にも今年から実施をしている会社が多いらしいのです。僕が初めてこの言葉を聞いたのは、多分1995年頃だったと思います。当時はバブルもはじけ、低成長時代の中、企業にとっては経費削減、労働者にとっては労働時間の短縮による健康・増進を掲げ、大、小企業限らず取り入れようとの気運はあったように思います。

でも、大手企業は別として、組合等が無い中小企業にとっては、言葉だけが先走りして、本格的な実施までは至っていませんでした。また、おのずと一般社員は残業代も減るわけで、いくら早く帰れても何をしたらいいのかなんて意見も出ていたことは確かです。

それから、15年以上も経過し、生活に対する価値観も多様化しているので、皆さんはどういう心持で感じているかは分かりませんが、先のニュースのようにまだまだ日本には個よりも集団を意識したPRの方が受け入れられるようです。

僕の場合は、毎日が「ノー残業デー」でもあり、夜にメールなどの連絡が入った時にはその対応もしていたりで、どっちでもないような感じですが、実際のところオン、オフの切り替えはあまり必要とは思っていません。

そんなわけで、もし今日はノー残業デーだけど、さてそのまま家に帰るのもなんだな・・・と感じた時は、いつでもギャラリーへお出で下さい。自身で撮られた写真を見てほしいとお持ちになっても構いませんし、作品解説をしてほしいとの要望も受け付けます。

その時は、これを読んだのだけどと一言言っていただけると嬉しいのですが。

2010年5月18日火曜日

電光石火の一日

たった今戻って来ました。昨日の朝、新幹線に乗り込んだ時には、仙台は久しぶりに寒さを感じない程でしたので、東京はさぞかし暖かいだろうと想像していましたが、案の定、ジャケットを着ていると汗ばむ程の陽気でした。街ゆく人の中には半袖の人もいました。


1年3カ月振りの東京は妙な懐かしさと相変わらずの人いきれに包まれていました。東京駅から目黒まで向かう山手線は、昼時だと言うのに結構混んでいました。まぁ、サラリーマンの頃も平日の昼は電車には乗っていなかったこともあり、特に強い印象は無かったのですが、やはり人が多いな、始終動いているんだとの感は覚えました。

目黒のギャラリーで日本のGW中に行われたソウル・フォトの内容を聞いたりしてみると、大昔に良く行っていた頃のソウルとはだいぶ違っているように思えました。出展料も日本のそれと比較するとかなり安いとのことですが、僕にはとても手が届くものではありません。仙台の地で、なんとか写真文化やアートの浸透をしていく為の方策を模索していくしかないと改めて感じます。

その後は、蒲田で知人に会い、久しぶりに元気な姿を見て嬉しくなったのもつかの間、渋谷へと向かう時間となってしまいました。もっと時間が取れれば良かったんですが、ホントごめんなさい。渋谷駅に着いた時には、開演30分前ぐらいでした。少しずつ陰っていくスクランブル交差点を人ごみを避けながら渡りきると、一路PARCO劇場へと歩いていました。渋谷の狭い道筋は、あのころ毎週のように芝居を観に行っていたことを鮮明に思い出させてくれます。

観劇の内容は、別の機会に整理してから書きます。観劇後集まってくれた若い面々、かつて一緒に働いていたメンバー達とは、夜の10:30過ぎに合流しました。みんな、元気そうに笑顔でお出迎え。嬉しかったです。明日も仕事で早いだろうに、終電間際までいてくれて、ホントに有難う。

朝から深夜まで、電光石火の1日。ホテルに戻り、ベッドに横たわっていると、短いながらも濃い時間の連続が、僕の体に心地よい疲れとなって訪れ、いつしか眠りについていました。

2010年5月16日日曜日

明日、東京まで行きます。

今日も気温は上がらないようです。全国の天気予報を見るたびに、仙台での最高気温と東京の最低気温にあまり差が無いことに、今でも時折驚いてしまいます。ギャラリー内も空調は止まれません。去年は確か止めていたと思うので、本当に温暖化に向かっているのかと思ってしまいます。


いよいよ明日芝居を観に東京まで行きますが、以前の仲間に会えることが楽しみのひとつでもあります。まだ1年しか経っていないわけだけど、それぞれがちょっとした曲がり角に立っていた1年だったので、久しぶりに楽しい時間を持てたらと思っています。ごくごく個人的な集まりにしたかったので、僕の方から今回の東京行きを話している人は2,3人だけです。あまり大げさになっちゃうのも嫌だったし、少しの時間しか取れないし、少人数で濃い時間が過ごせる方がいいかなとの思いです。それでも、みんな忙しく大変なのに、観劇後の遅い時間に集まってくれることには感謝ですね。

勿論、古澤君との話も楽しみです。先日もメールをやり取りしていて、彼の気概みたいな部分が文面から感じられて、あぁ、本当に芝居が好きなんだなぁと改めて思った所です。僕は約1年振りのリハビリのような観劇になるので、感じた部分をうまく伝えられるか心配だけど、それも今の自分ですからね。

この1年はずっと画面上で芝居を観ていたわけですから、劇場という限られた空間で実際に演じられる姿を久しぶりに観ることに心躍ります。いろいろな情報抜きにして、出来る限り素直に観たいと思っています。

そんなわけで、明日から明後日までは、PCも持ち歩くつもりはありません。メールでの連絡も一時中断になってしまうと思われますので、あしからず。

2010年5月15日土曜日

公募写真展”Sha-gaku”の準備をしていて思ったこと。

現在公募写真展”Sha-gaku”の準備をしています。と言っても、それほど混乱しているわけではなく、実際の展示や販売に関わる問題を再検討しているような感じです。初めての試みですので、その場でやってみなければ分からない部分はあるのだと思っています。


参加されるメンバーの方も、展示自体に経験がある方、無い方色々といらっしゃいます。ましてや、販売まではどなたも行っていないようなので、こちらからの注文があれこれとあり、少々面倒かもしれません。出来るだけ多くの方に見て頂ければとの思いが一番なんですが、それと同じぐらいに買っていただきたいとも思っています。

料金もポートフォリオ¥3,000、展示作品¥3,000もしくは¥5,000としています。キャリア等は考えていないわけで、少々乱暴なやり方です。そして、参加者の方にとっても安いと思われるのではないかとの心配もありました。

それでも、参加者の方々は、お客さん(他人)の手に渡ることを、かなり意識されています。このことは、通常のアマチュア対象の公募展では無いことだと思います。いわゆる良い作品(万人に認められるといった意味で)には、制作者がプロであろうがアマチュアであろうが、あまり意味を持ちません。まぁ、限られた人々に認められる場合でも一緒ですね。

この金額を高いか安いか、どう感じるかはお客さんそれぞれの価値観にもよってきます。ちょっとおいしいものを食べにいけたり、日常のちょっとした便利品を買えるような金額ですので、生活そのものに直結しないものにそれほどの対価を支払うだろうかとの疑問はあります。

僕自身、アート自体が生活に直結しないと思う部分はありますが、より身近な存在であって欲しいと思っています。それは、人は、この世の中で、あるものを見、体験した際に、感情に揺れを覚え、言葉や表情でその思いなりを表現し、物理的だけでは無い幸せを感じることが出来る唯一の生き物だからです。

昔から言われているように、幸せはそこにあるのではなく、そこに感じられるものであることと同じことだと、僕は思うのです。

2010年5月14日金曜日

The Melody At Night, With You


僕はそれほどのジャズ好きというわけではありませんが、少し気が滅入ったりしてくると引っ張り出してくるCDがあります。誰もが知っていると思いますが、ジャズ・ピアニスト キース・ジャレットの「The Melody At Night, With You 」というアルバムです。


ジャケットのイメージも好きなのですが、中腰で少し前かがみになりながら、スタンダードをひとりで弾いている姿が目に浮かびます。キース・ジャレットを有名にしたのは、プログラムの一切無い完全即興によるピアノ・ソロ・コンサートで、それをそのままレコーディングした「ザ・ケルン・コンサート」のCDではないかと思います。とても素晴らしいアルバムですが、僕には時折聞こえるキースが出すうめき声がちょっと耳に障るように感じられます。


この「The Melody At Night, With You 」は、1996年に発症した慢性疲労症候群という聞きなれない病気からようやくピアノが弾けるようになり始めた1998年に、自宅のスタジオで録音されたものです。とっても優しく、そしてピアノをいとおしそうに弾いている感じが好きです。ちなみにこの作品は療養中彼を献身的に支えた妻のローズ・アン・ジャレットに捧げられていると言われています。

今も聞きながら、この文章を書いています。別に気が滅入っているわけではありませんので、ご心配なく。いつもと変わらぬ朝、一日の始まりです。

2010年5月13日木曜日

来て見て感じて下さい!

寒いです。また、1カ月前に戻った感じで、昨夜はガスストーブに点火していまいました。ホントに妙な天候で、体調を崩す人も多いだろうと思います。


僕の方は、先々週当たりから次回写真展の”Sha-gaku”や”Story vol.1”の準備なんかで結構雑多な仕事が多いですね。と言っても、普通の昼間はギャラリーを離れることが出来ないので、お客さんがいない間にPCに向かって、無い知恵を絞ったり、情報集めをしたりしているだけですから、そんなに慌てることも無く比較的のんびりとやっています。

それにしても、今回の吉野氏の作品はホントもっと多くの方に見て頂きたいものです。毎朝ギャラリー内を一周してチェックするのですが、飽きることがないのです。現在、せんだいアート散歩の期間中で、仙台市博物館の入場者数が報道されている様子を見ると、正直羨ましくなります。時折、他の参加されているギャラリーはどうなのかなと考えたりします。

場所的には仙台の北に位置している数少ないギャラリーのひとつなので、なかなか足を運ぶのが億劫になるのかもしれません。しかも、ほとんどの人が一旦は通り過ぎてしまう程、分かりづらいようですし、あきらめて帰られることもあるようです。そんな時は連絡して下さいね。

見なかったことを残念に思える程の作品をお見せしているつもりでいます。それから、ギャラリー内のゆったりとした雰囲気で、心を休めてもらえれば良いのです。

”Sha-gaku”は、アマチュアの方の作品が展示されます。参加される方と打合せで話を重ねるたびに、良いものになる予感が膨らんでいます。

是非、是非、来て見て感じて下さい!

吉野和彦写真展は今月30日まで行っています。

2010年5月12日水曜日

時間と記憶

最近、つい昨日起きた出来事やお客さんとのやり取りなんかが、遥か遠い昔のように感じる時があります。遥か遠い昔と言っても、何十年前のような事ではなく、昨日だったのが1週間前のことのように感じる程度です。物理的な時間と自分が感じる時間との違いは、その人の環境や性格なんかに影響されるのだと思います。


ギャラリーをオープンし、サラリーマン世界から飛び出してしまった当初は、自由であると同時に今やることの順序や判断がよく分からないまま、やってしまっていたような感じでした。それでも生活のリズムを出来るだけ崩さない事だけは心がけていました。このブログを始めたのもそんな理由のひとつです。

朝起きて、店を開けるまでの午前中、ひとつの区切りとして、感ずるままに文章を書くこと。他人にとっては、ごくごく個人的なルーチンワークのように見えるのでしょうが、全くその通りで、時折面倒だなと感じることはあります。それは、特に見る方を意識して書いているつもりがあまりないことと、別に書かなくても問題はないとの気持ちがどこかにあるからかもしれません。(実際そうなのですが)

じゃぁ、時間を決めなきゃいいじゃない、思いついた時その時点で書けばよいと言われそうですが、比較的自由である自分に何かひとつの決まりごとのようなものを与えることで、安心感を得たいのかもしれませんね。そんなこともあり、このブログで書いたことも、すぐに忘れ、遥か遠い昔の記憶のように思えてしまいます。(言葉にして何かを伝えたいという欲求があまりないのかな。)

年齢と共に、単に記憶力が衰えてきただけなのかもしれません。時間の感覚が段々と曖昧になり、気が付くと今ここに至るみたいな感じを覚えるたび、しばし愕然としてしまうこともあるのですが、今のところ日常にさして影響が少ないことが救いです。

多分、こうして今書いていることも、しばらくすると忘れるんだろうなぁ。

2010年5月11日火曜日

覚悟ある選択

昨日は来月開催される南アワールドカップ・サッカーの最終メンバー23名の発表があったので、久しぶりにテレビを始め、報道各局が取り上げていました。開催まで1カ月を切った世界屈指の競技会ですが、何か盛り上がりに欠けます。ここ数試合の日本代表の結果がそうさせているのかとも思いますが、寂しい限りですね。


発表のサプライズとして、どの報道も第3のキーパーとして川口選手が選ばれたことを挙げていました。ワールドカップの1次予選は、3試合しかないんですよ。キーパーは他のフィールドプレーヤーと比較して交代する機会も少ないし、通常なら2名でいいのかなと思います。しかも、川口選手は、昨年はケガで試合にも出場していないし、これまでの代表戦にもほとんど出ていないと思うので、何故という声が上がるのも当然です。

実際、質問でも第3のキーパーという難しい立場でと答えているように、監督自身も出場機会は無いと考えているわけです。それでも、3度のワールドカップ出場経験を活かして、チームの精神的支柱としての立場で期待しているようなことでした。

また、力あるプレーヤーから順に選んだわけではないとの言葉もありました。この言葉って発言にすごく勇気がいることですよね。何故なら、サッカーもそうですが、プロであることの第一条件として、プレーヤーとして実力があり、結果が出せることです。各ポジションで力、実力ある方から順番に選んだほうがどれほど楽だったのかもしれません。

それだけ、岡田監督の覚悟が感じられた選考でもあったわけです。淡々と発表しているその姿を見ているとますますそんな感じがしました。周りから客観的に冷静に判断して、これはどうなのと言ってる人達は多くいますが、僕はその覚悟に乗って、応援したいと思いました。もちろん南アには行けませんが、テレビの前でその生きざまのようなものを見ていたいと考えています。

2010年5月10日月曜日

「iPad」 先行予約受付の日

本日午前10時より「iPad」の先行予約受付が開始されます。ホントもうすぐです。取り扱い先はソフトバンクモバイルですね。このソフトバンクモバイルというところが、とても現在を象徴しています。


これまでは、このようなある意味家電の分野に入るような機器は、メーカーが販売を担っていたわけですが、通信インフラサイドから発売されるのも時代の流れなのでしょう。もちろん通信インフラが無ければ、ただの箱(板?)ですから。

通信分野は携帯にしても家電ではありながら、そのネットワーク網や通信インフラ自体、もともとNTTが独占的でしたので、当初はそこに乗らないと販売も出来ないといった状況でした。規制緩和によって、その幅は緩められ、各社の特長やサービスを出しながら、製品が発表されるようになったのも最近の事だと個人的には感じています。

さて、今回の「iPad」ですが、本離れと言われて数年経っている日本で、どれほどの支持を受けられるかは楽しみであります。1990年代に「電子書籍」なるものが発売されましたが、媒体がCDであったり、コンテンツが貧弱でしたので普及には至りませんでした。当時の状況とはライフスタイルも価値観も違ってきていますので、注目ではあります。

本に限らず、ゲームやその他コンテンツが増え続けていくでしょうから、そちらを目的で買う人もいるのだと思います。もちろん熱烈なマックファンは買うのでしょうね。それでも、将来的に紙媒体の書籍が無くなるとは思えないし、本でしか味わえない部分もまだまだあるので当面は両方が並行していくのかもしれません。

資料や文献としてのデータ化は、それを使用する人々にとっては歓迎されるものではあります。3Dやら触感、はたまた匂いや味なんかまでもが再現出来るようになったら、それはそれで面白いなとも思います。

僕にはまだ必要が無いと感じているのですが、やっぱり売れちゃうのでしょうね。

2010年5月9日日曜日

上演時間3時間超~?

「裏切りの街」が7日に幕を開けました。ネットでの評価もぼちぼちと出てきているようですが、あまり見ないようにしています。古澤君には開幕直後でもあるので、連絡を入れていないのですが、普段のように演じてくれていればいいなと勝手に思っています。


上演時間の情報が公式サイトにもないので、ちょっと調べてみました。明確ではありませんが、結構長めのようです。2幕物らしく、それぞれが110分、70分と休憩を含めても3時間以上の芝居みたいです。

上映時間って、初日から徐々に短くなっていくこともあるので、あと1週間後にどうなるかですが、その長さだけでも期待は大きくなりました。一方で、この長さだと会える時間がかなり遅くなるので、ゆっくり話が出来るだろうかと考えてもしまいました。また、1年半ぶりの観劇で言わばリハビリのような状態できっちりと見通せるだろうかと心配もしています。

ポツドールでの芝居と内容や演出は変わらないと思うので、結構しんどいだろうと思います。作、演出家の三浦さんやポツドールを知らない観客は、観ているだけで、精神的に大変かもしれません。もっとも演じている役者の方がずっと大変なんですが・・・。

何か、これまでのPARCO劇場の歴史を変えてしまう芝居を観られるような気がします。心躍る気分ですね。

感動ってある意味驚きでもあるわけだから、ワクワクする瞬間やゾクッとすることも必要で、それは芝居に限らず、表現しているもの全般に言えることだと思います。しかも大前提として面白くないといけないって部分が必ずあって、その複雑性が興味深いところなのです。

いやぁ~、楽しみ。

2010年5月8日土曜日

連日の松尾スズキワールド

夜中に芝居のDVDを取り出してきて、暗い部屋の中見ることが日課のような感じでいるのですが、この2日間は選ぼうとして選んでいるわけでもないのに、何故か松尾スズキ関連が多いのです。10日後に迫った古澤君出演の「裏切りの街」(昨日初日)を観に行くことがそうさせているとは思えないのですが、気が付くと取り出してしまっていました。


一昨日の夜、「蛇よ」から始まった松尾スズキワールドへの旅は、「ニンゲン御破産」、「女教師は二度抱かれた」を経て、「キレイ」でひとまず一旦終了を迎え、多分「裏切りの街」へと続いていくのだろうと思います。個人的見解ですが、松尾さんの良さは、おおらかなネガティブさというか、誰しもが持っている闇の部分をさらけ出しながらも、その実そんな自分を楽しんでいるかのような錯覚を感じさせてくれることです。

人間誰しも欠点やコンプレックスを抱えながら生きているものです。大抵の人はそんな引け目を感じる部分を隠しつつ、他人との関係性を持っているものだと思います。素の自分をありのままに体現し、世間を渡っていきたいとは願ってはいても、それはまずいよともう一人の自分が抑えようしていることは、誰しも経験あることでしょう。

松尾さんは、そんな人間の弱さを粘質的な笑いに包み、丸ごと飲み込んで貰っちゃおうとしているような気がします。もちろん虚構の舞台世界ですから、そんなことが出来るのかもしれませんが。

「裏切りの街」は、松尾さんの本ではありませんし、出演者の一人なのですが、底の方では繋がりが感じられるので、とても楽しみではあります。まぁ、笑いのエッセンスはほとんどないと思いますが、普通のおじさんとしての部分が見られれば、それで良しかなとも思います。

2010年5月7日金曜日

”Sha-gaku” Special Site を開設しました。

昨日、HP内に”Sha-gaku” Special Siteを開設しました。まだ情報未定の部分もあるのですが、無責任にもアップしてしまいました。


“Sha-gaku”は、簡単に言うとギャラリー主催のグループ展になります。それでも、他と違う所は、テーマも表現方法も自由で、しかもギャラリー空間を活かした使用法が考えられることです。ギャラリー内部は入口から見ると左右反転のL字で、Lの下側はほぼ四角になっていますが、入口側の空間は壁面が段々になっていたり、途中出っ張りがあったりで四角ではありません。

正直、レンタルスペースを意識した作りにはなっていません。作品構成によっては、いくつもの別パートとして展示可能です。“Sha-gaku”では壁を切り売りのような格好を取っています。使用出来る壁は2面の制限はありますが、続けて使用しても、離れた個所で使用しても良いので、同じ参加者がテーマを変えて、壁1面ごとに違う展示も行えるわけです。

さて、”Sha-gaku” Special Siteでは、作品自身を紹介すると共に販売も行っています。しかも敢えて参加者のプロフィールは載せていません。もちろん皆さんアマチュアの方ですが、自由な表現に肩書といった括りは必要ないと考えているからです。

ネット上で見える範囲には限りがあります。やはり実際の作品を見ることで、参加者の思いや考えが理解できるのです。それでも、もし画面から飛び込んでくるイメージに何かを感じ、共鳴出来る部分を得られたのなら、是非購入してほしいと思っています。表現するものはその価値を購入という形で認めらたり、支援を受けることで、自身のモチベーションを維持できるものです。

このブログのみを読んで下さっている方もいらっしゃると思いますが、是非一度ご覧下さい。

http://kalos-gallery.com/exhibition/sha-gaku.html
 

2010年5月6日木曜日

手作り作品リスト

窓の外は曇り空、朝目覚めた時はほんの少し寒いかなと感じたのですが、実はこれが平年並みのようです。昨日、一昨日の陽気から比べればそう感じてしまうのは仕方ないことですが、そうそうお天気も続くものではありません。晴れたり、曇ったり、時には雨降りも必要なんです。何かちょっと感傷的な朝のようですが、特に変わったこともなく、普段通りの始まりです。


吉野和彦写真展も、早いもので今月一杯になりました。これまでギャラリーに見えられた大抵の方は、ポストカードサイズの作品リストをお持ちになります。

こんな感じのものです。

随時僕がプリントしているので、手作り感一杯です。作品タイトルとオブジェ全体の大きさを表記しています。作品タイトルはモチーフとした花の名前ですが、僕は花の品種や名前には疎いので、こういう花があるんだぐらいにしか思えません。まぁ、タイトルで作品を見るわけではありませんからね。


今週日曜は母の日です。母の日と言えばカーネーションですが、展示作品の中には残念ながら見当たりません。それでも、いろいろな姿態、表情を見せてくれる花たちを見つめているだけで、感情の揺れを感じます。これは初めて見た時から変わらないものです。

作品リストはまだありますので、早めにご覧にいらして下さい。
この機会を逃したら、当分は見ることが出来ませんから。

2010年5月5日水曜日

「第2回B&W Sendai Photographers 写真展」

今日は今月行われる写真展の紹介です。


仙台は多くのフォトサークルやクラブのようなものがありますが、僕自身仕事の関係もあってなかなか見に行けません。そんな中、モノクロに焦点を当てて、作品を発表しているグループがあります。年1回の発表を行っているようですが、昨年は会場の都合で行えなかったので、約2年振りになるのかと思います。

グループの何人かの方とはお付き合いさせてもらっていますが、皆さん本当に写真が好きな方ばかりで、知識も僕なんかよりも深いのではないでしょうか。

「第2回B&W Sendai Photographers 写真展」
2010年5月21日(金)~ 26日(水) 
午前10:00~午後7:00 最終日は午後5:00まで
会場 せんだいメディアテーク5階 (5b-1/5b-2)

せんだいメディアテークでは、井上雄彦 最後のマンガ展 最終重版<仙台版>も開催中ですので、見に行かれてはいかがでしょうか。最近はモノクロの写真を見かけることが少なくなりました。表現手段はさまざまですが、色彩の無い光と影で作られた世界に浸ってみるのも一考かと思います。

僕も休廊日に見に行こうかと思っています。

2010年5月4日火曜日

大切な瞬間

暖かいですね。今朝もそうですが、外に出た時の穏やかな暖かさを自然に感じます。もっとも、昨日は宮城県でも夏日を超えた場所があったので、お天気としてはちょっと困りものです。ほんと、寒暖の差が激しい日々は、体調を崩しやすいですから。


昨日は、午前中から久しぶりに駅まで行って、チケットを取ったり、案内状を置いてもらっているお店なんかを覗いてきたりで、結構バタバタとしていました。駅からの帰り道に、自転車を止め、公園でぼんやりとベンチに座っていると、照りつける日差しと暖かい風がとても心地よく感じられました。

ジャケットを着ていると汗ばむほどだったので、シャツ一枚になり、目の前で遊んでいる親子の姿を、このまま、横になって昼寝が出来たら、どれほど気持ちいいのにと思いながら、眺めていました。穏やかな陽の光を全身に浴びていると、何も考えないでここにいることの無意味さなんてものも条件なしに吹っ飛ばしてくれます。

ゴールデンウィークも中日で、今日当たりが行楽や帰省からの戻りのピークになるようですが、僕にはまたいつもの1週間の始まりの日に過ぎません。別に、卑下しているわけでも、悲観しているのでもありません。

いわゆるお店という場所は、様々なお客さんとの出会いの繰り返しで成立しています。そして、その出会いの中には、時としてとても大切な瞬間が隠されていることがあります。お互いに気づいているかどうかは、きっとこれから起こるであろう未来が証明してくれるのだと思います。

また今日もそんな大切な瞬間があるかもしれないのです。

2010年5月3日月曜日

万博~その意味するところ

おととい、史上最大規模の上海万博が開幕しました。日本からもこのゴールデン・ウィーク中に多くの観光客が訪れるのだろうと思いますが、報道されるニュースを見ているとかなりの混乱や混雑が見込まれ、僕なんかいるだけで疲れてしまうような気がします。


テレビ各局ではいろいろなパビリオンが紹介されていますが、日本館や中国館と並んでスペイン館の巨大な赤ん坊の姿が良く映し出されています。ちょっと調べてみるとデザインした方が、映画監督でもあるイサベル・コイシェと言う女性で、どこかで聞いたことのある名前でした。

「死ぬまでにしたい10のこと」と言えば、一時日本でも話題になった映画です。イサベル・
コイシェはこの映画の監督をした方ですね。僕は、制作がペドロ・アルモドバルだったので、監督の名前も評判も知らずに、このDVDで観たのですが、これがまた原作を超えて良かったことを思い出しました。(原作も読みましたが、こちらは独白で日記的な書かれ方だったので、ちょっと感情移入が出来ませんでした。)

さて、その巨大な赤ん坊は現代美術家のロン・ミュエック程は極限的にリアリスティックではありませんが、充分すぎるほどの克明さや表情の豊かさを感じます。ハリウッドの映画関係の協力で作られたと言いますが、ただの作り物になっていない所がすごいなと思います。間近で実物を見た場合、ちょっとした表情から、その意思や感情までもが伝わって来そうな気がします。

万博は各国の現在の技術、芸術、文化を表現する場として開催されたと言われています。これは、技術、芸術、文化は常に密接な関連性を持って、未来へと繋がっていることを意味します。一見関連性が無いように思われる芸術と技術ですが、実は先に発生する方は芸術であるのです。芸術家は自身の思い描く世界や現象を、想像から創造へと変え、表現しているわけですが、その一見奇想天外であったり、突拍子もないものから発想を受け、技術として一般に伝わるケースが多いのです。そして、それが独自の文化となって集合されるように思います。

これは逆に言えば、芸術、アートが理解されない国や地域には、文化は育たないことを意味します。日本はそんな国では無いと思いますが、よりグローバルでフラットな世界へと向かっている現在、取り残されていく事だけは避けなければいけないと感じます。

2010年5月2日日曜日

ようやく昨夜からガスストーブを止めました。

ようやく昨夜からガスストーブを止めました。とは言っても、若干寒いのでブランケットを取り出して、腰から下を暖めていましたが。去年の今頃はすっかり春模様だったような気がしますので、この調子が続いてくれないかと願っている次第です。


僕は元来痩せ型なので、寒さには弱いのです。昔は冬場、仙台に来るたびに、寒い、寒いと言っていましたが、住んでしまうようになってからはそうも言っていられません。ギャラリー内は作品もあるので、常に23℃の設定で空調していますから、全く寒くないので非常に快適です。入って来られるお客さんは、作品より前に暖かさに安らぎを感じるようです。

でも、ひとたび外に出ると状況は一変します。冬場でも自転車を愛用するようになってからは、特に風の冷たさを指先や顔に感じます。手袋なしで乗るようになったのも、ほんの数日前からです。東京からほんの300km北に行っただけで、これほど違うんだと、今年は生身で体験出来ました。

昔から環境は人を育てるとか変えるとか言いますが、実際その通りだと感じたのは久々のような気がします。やはり、雨や雪が降ったり、寒かったりすると外に出たくなくなるし、出て行く理由が必要になりますね。これも人それぞれ優先順位みたいな所は必ずあるわけで、生活に直結しているものから順番に並ぶのが普通です。

当然ギャラリーのような場所は、ずっと下の方になります。でも、日常のわずらわしさや仕事に追われがちな毎日を送っているような方には、最適な場所です。それは、作品と向き合う事から得られる安らぎや癒しといった感覚に、直に触れることが出来るからです。また、普段とは違った思考や感情の揺れのようなものは、生活に潤いや余裕を与えてくれます。

ようやく暖かくなってきました。コートを脱ぎ捨て、街に飛び出し、ほんの少し心を開放させることもとても良いことだと思います。

2010年5月1日土曜日

これがほんとの五月晴れ。

これがほんとの五月晴れ。


思いっきり光が射している朝って、やっぱり気持ちがいいです。こころなしか大通りを通り過ぎる車の量も少なく、休みの朝の雰囲気がまたよいです。

テレビに映し出された弘前城の桜の様子を見ながら、そう言えば今年は桜を見に行くことがなかったなと思いました。例年は、近くの公園にも桜があったので、毎朝通勤時に中を抜け、満開に咲く木の下を歩いたり、散った後一面白模様になった地面を横目で見ながら、春から梅雨へと移りゆく季節感のようなものを感じていました。

季節感を感じるものは人それぞれ違うと思いますが、僕の場合は路上に咲く花だったりするわけです。今はもう土のある場所が限られていますから、わざわざそういう所に行って、自然の一部やその空気感を味わうこともありますが、都市の中にぽっかりとある公園を見つけたりすると、自然とその方向に行ってしまいます。

もうすっかり葉も落ちた木々だけであっても、何故か惹かれてしまいます。近くに住んでいるであろう親子や散歩途中のご老人の姿が、木漏れ日の中照らし出されている光景を見つけたりすると、ますますその思いは強くなります。

仙台は杜の都と言われているように、緑が多い街並みです。それでも、何故かそんな光景を見ることがあまりありませんでした。僕の行動範囲が限定されていることが理由のひとつなのでしょうが、何か寂しい感じがします。

僕自身余裕がないだけなのかな?