2010年6月24日木曜日

美しい夕焼け

昨日は”Sha-gaku”参加者2人がギャラリーに来てくれて、色々と話をしていたこともあり、時間があっという間に過ぎて行ったような感じでした。一昨日の河北新報夕刊に記事掲載してもらったおかげで、問い合わせの電話も何本か入りました。また、17:00以降、仕事帰りに訪れてくれたお客さんもいましたので、終了までの時間がいつもより早く感じられましたね。ホント、有難うございます。


そんな1日を終え、実家へ自転車で向かっていた途中、一人の女性が空に向けて携帯電話をかざしていました。一目で写真を撮っていることが分かりましたので、その先を見たところ、空にはまるでパステルで描かれたような夕焼けがありました。

自転車の速度を緩め、周りに注意しながら、僕もその夕焼けを見ていました。時間はすでに19:00をまわり、少し前ならすっかり日が暮れていてもおかしくない時間なのですが、昼の名残を惜しみながら、最後の明るさを保とうとしている様子でした。ビルの谷間に見えるいくらか緑がかった青色の上に、白い雲が4つ程層をなし、その間からピンクとオレンジの中間のような色合いが漏れています。そこから上はまた緑がかった青色が広がっていました。

秋の燃えるような夕焼けの景色ではなく、全てが淡いトーンに包まれた一種幻想的とも言えるような夕焼けです。家路へ急ぐ人々は、そんな夕焼けの存在に気付いていないかのように、歩みを速めています。僕は交差点の歩道の隅に自転車を止め、写真を撮っていた女性がその画像を身近の人に見せながら、美しい情景の仔細を話したり、あるいは自分のブログへ載せたりする様子を勝手に想像しながら、ぼんやりと夕焼けを眺めていました。

自然のあるいは日常で作りだされる一瞬の美しさや圧倒的な景観は、それ自体、見たまま、感じたままの姿で写真として切り取ることは、非常に難しいことだと僕は思います。今、ここで言葉として表現していても、その時感じたことのどれほどが伝わっているのかも疑問です。

だったら、写真を撮ったり、またその写真自体を言葉として説明する必要性なんかないよね、ということに繋がってしまいそうです。撮る側、見る側それぞれが写真と言うひとつのもの(あるいはまとまり)に対して、様々な解釈や感じ方をすることに何ら異論を唱えはしません。むしろ、そんな中にこそ表現の可能性があると思っています。

夕焼けからだいぶ話がずれてきました。まぁ、それにしても、昨日の夕焼けはそれ程美しく、わずか数分間のはかないものでしたが、とても素敵なひとときだったわけです。

気付かせてくれた女性に感謝ですね。

0 件のコメント:

コメントを投稿