2010年9月30日木曜日

宮城県美術館へ行ってきました。

やっと観に行けました。


宮城県美術館で行っている「新しい美術の系譜」展です。実を言うと、この美術館が出来たのは1981年ですから、僕はもうすでに仙台を離れていて、たまに帰ってきても行く機会は有りませんでした。そう初めての訪問だったわけです。

今回の目的は写真作品です。そのほとんどはかつて観たことのあるものでしたが、それでもオリジナルはなかなか見られませんので、再会するのが楽しみでした。中でも素直にいいなと感じたのはオノデラユキさんの初期の作品「古着のポートレート」からの一枚でした。約1mm四方程度の大きさのものでした。本当はシャツが写っているものの方が好きなのですが、ざっくりとしたセーターもまたその存在感が際立っていて、しばらく立ち止まってしまった程です。

その他はほぼ予想通りで、まぁ、サクッと見て、また会ったねと言った感じです。その後、企画展会場から常設を観て、併設する佐藤忠良記念館に入りました。1990年に開設されたらしく、とてもきれいで瀟洒で素敵な感じです。入口から回廊するような形で作られ、大きく分けると4部屋構成になっています。僕はまず頭だけのブロンズ作品に惹かれました。モデルとおぼしき名前がタイトルとなったそれらは非常に生き生きとして、思わず声をかけたくなるほどです。全体を飾る作品のほとんどが女性をモチーフとしたものなのですが、どれもが柔らかなフォルムとたおやかな明るさというか単純に生きることの喜びが感じられるものです。

また、感心したのは、その配置ですね。ガラス張りで外が見える部屋では、外にも同様に作品が設置されているのですが、見るポイントにより絶妙のバランスを取っています。そして、その部屋から3部屋への入口から見える光景は、一枚の絵を見ている気分にさせられます。3部屋目の照明をやや落としているのはその効果を狙っているとさえ思わせます。

3部屋目からは真っ直ぐに繋がっているのですが、最後の部屋への入口は周囲が木製になっていて、その奥に帽子シリーズの女性像が白壁をバックに設置されています。それが遠目からみると一枚の額装作品を思わせ、ホント美しいのです。

これは、とても嬉しい発見でした。誰もが素直な気持ちで作品に触れることが出来ます。
仙台にいる方は、絶対見に行って欲しいですね。晴れた日がお勧めです。

2010年9月29日水曜日

早起きの朝

3日ぶりの秋晴れです。


今日は久しぶりに6時前に目が覚めてしまい、普段は2度寝するところをしっかりと起きてしまったのも、カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しかったせいかもしれません。カーテンを開けた音に気付いたのか、他で寝ていたpolkaも起き出して来て、ソファーの背の上に朝日を受けるように登ってきました。陽を浴びてキラキラと光る全身の毛は、こちらから見ると逆光になり、とてもきれいです。

僕は普段部屋にいる時には、大抵はソファーが定位置なのですが、座ると言うより、上で寝そべっていたり、胡坐をかいていたりしていることが多く、はたから見れば実にだらしない格好でいます。最近は気温が下がってきたこともあり、胡坐をかいている足の上に、polkaが乗ってきます。人恋しくなるのではなく、単に暖かいからだと思っているのですが、やはり何の抵抗も無く膝の上で寛いでいる姿は年を取ったとはいえかわいいものです。

ほとんど運動もせず寝てばかりいるので、お腹はぽってりとして身体もそこそこに大きく、そのせいもあり顔が小さく見えます。よく人から、眼が大きいと言われるのですが、要はバランスの関係のような気がします。身体の割には顔が小さめ、そんな中で眼が目立っているのでしょうね。

陽の光は心を穏やかにします。膝の上で顎を撫でられて眼を細めているpolkaを見ていると、朝のニュースから流れてくる不幸な出来事すら優しい気持ちで見られるから不思議です。(決して、出来事自体良いこととは思っていませんが)

さてと、今日は外出します。

愛車(自転車)を走らせて、風や太陽を一杯受けようと思っています。

2010年9月28日火曜日

今日は一日雨のようだ・・・。

秋の長雨。


そんな感じになってきました。雨はホント鬱陶しいです。何が嫌かと言えば、頭から濡れるのはそうでもないのですが、足元から沁み入り靴中が濡れてくるのに我慢できない時があります。中途半端に濡れるくらいなら、いっそのこと水たまりに足を突っ込んで、びしょぬれにしてしまおうかと思ってしまいます。

今はまだ素足にサンダルを履いている状態(季節感がまるでないっ!)なのでそれほどではありませんが、靴下を履くようになってからの雨降りは特に嫌になります。沁み込んだ雨が自分の体温で妙に熱を持ち、足指に絡んでくるような感覚は、歩いているそばから靴を脱いで裸足になり、解放されたい気分にさせます。

そんなわけもあり、以前は雨の当たらない地下ばかりを歩いていて、さながらモグラのように活動していました。仙台は駅付近にはそのような道がありますけど、大抵は地上を歩くしかありませんから、どうしても外出しなければならない日が雨だったりすると、余計気分が落ち込みます。

いくらここで文句を連ねても、お天気は変わってくれませんので、雨の日に楽しく外出する方法みたいなものを考えているのですが、なかなか思いつきません。

今日もずっと雨のようです。

何か思いつくかもしれませんが、それよりも片付けなければいけない仕事のことを考えろよと、もう一人の自分が言っています。

そうですね、先ずはそっちですね。

2010年9月27日月曜日

「Justice(正義)」 NHK教育ETV特集

昨夜NHK教育で放送されたETV特集は、教育番組の枠を越え、一種のエンタテイメント性も備えた優れた番組だったと思います。内容は、アメリカの名門ハーバード大学で、延べ履修学生数の記録を更新し続けるマイケル・サンデル教授が東大で、彼が教える人気授業「Justice(正義)」についての講義を映したものです。


彼の講義の特長は、「君ならどうするか?何が正しい行いなのか?その理由は?」と、学生に投げかけ、活発な議論を引き出す対話式であることです。僕は、4月から同じく教育テレビで放送されていた「ハーバード白熱教室」を偶然知り、その面白さを感じていたのですが、果たして議論や自分の主張を表面だって出さない日本の学生が、どのような対応を取るのだろうと興味がありました。

2部構成で進められたのですが、所用で後半の部分だけを見ることが出来ました。議論の詳細をここで掲載するには、僕自身の文章力や表現力では誤解を与えかねないので割愛しますが、発言していた学生には、何より自分の主張を明確に伝えようとしていたことに感心しました。そして、しっかりと自分の言葉で話している姿には、感銘さえ受けました。

もちろんサンデル教授の進め方は、非常に巧みで要領を得ながら、難題を徐々に深く掘り下げながら、その答えを学生に求めていました。その為、答える学生もしっかりと自分の頭と心に問いかけをしなければならず、一種の緊張感を保ちながらも決して感情に走ることなく、言葉に出来たのだと思います。この議論において、結論は出ません。ただこのような異なる見解の個人が社会を作っていて、冷静に議論を重ねることで常に真理や哲学に触れているのだと再認識させるだけの説得力はありました。

今から約40年前、昨夜の舞台となった安田講堂は学生に占拠され、彼等は世の中を変えられるとの理想を持って、未来を真剣に考えていました。時代は変わり、日本も世界も急激な変化を要求されながら、グローバル化の中、情報だけが身近なものとして入ってくるようになり、それによる価値観の多様化も進みました。

今は、世の中の常識や慣例といったことも変化し、ますます個人としての考えや行動を求められるようになっていると思います。また、そのような行動や発信するメディアやインフラも以前よりは遥かに整ってきています。過激で暴力的な行動や発言は必要ないと思いますが、人と人が理解し合い互いに共存していかなければならないことは誰もが分かっていることなのだと感じます。

それでも、答えは多分ひとつでは無いし、永遠の課題なんだろうな。

2010年9月26日日曜日

後1週間

次回写真展ハービー・山口 ヨーガン・シャドバーグ”Two in One in England” は、10月2日、今週の土曜日から始まります。昨日は月一に行っている私的な催しがあり、壁一面をスクリーン代わりにして映像を観たりしたので、今日、その壁面に残りの作品を展示すれば、作業は一旦終了します。その他の必要なこまごまとしたものは、それほど急いで行うこともないので、余裕で開幕を待つだけです。

さて、この期間中、約6日あるのですが、以前ここで紹介した10月3日まで宮城県美術館で行っている「新しい美術の系譜」展を観に行こうと思っています。何か順番が逆のようですが、過去に一度は見ている作品が多いこともあり、その面白さは想像出来ますので、それを再認識しに行くような感じです。

さて他の日はと言えば、やることは色々とあるわけで、ああでもない、こうでもないと考えながら、ギャラリーに籠っていると思います。もし、時間に余裕がある方は、いつでも遊びに来て下さい。ポートフォリオをお持ちになっても良いですし、ちょっと聞きたい事があるからといったことでも構いません。

ただし、ご連絡は下さい。僕も息抜きに表に出ていることもありますので。
会期前ですので、ゆっくりと観ることも出来ますよ。

それでは、これから作業に取り掛かろうと思います。

2010年9月25日土曜日

「敷居が高い」

「敷居が高い」


よくお客さんに言われる言葉のひとつです。おそらくは、ギャラリーの雰囲気や展示されている作品を見て、あるいは僕のいかつい顔を見て、「手が届かない。ハードルが高い」と感じて話しているのだと思います。僕はその言葉を聞からせると、いつも疑問に持ちながら、曖昧な笑みを浮かべているだけです。

本来の意味は「相手の家に不義理や不面目があって、その家に再び行きづらい」と広辞苑にはあります。時代と共に言葉の使われ方や意味が変わってくることは実際あることで、特にそのことをとやかく言うつもりはありません。僕自身も後者の意味合いで使用する場合もありますからね。

僕としては、全くそんな意味も方向性もこのギャラリーに持っていません。まずは、写真本来の良さ、そこから派生してアートとしての存在や価値を知ってもらいたいのが第一でした。なので、様々な作風の作家を選択し、展示会を重ね、よそでは決して見られないものを行ってきました。それは、上から単にあてがえられるものではなく、身近なものとして接して欲しいとの思いからでもあります。

確かにそんなレベルの高い作品を見てもらっているわけですから、「手が届かない。ハードルが高い」と感じるのは当たり前かもしれません。それは、多分にこれまでの環境や周りの状況によるものが大きいと思っています。つまりは、慣れていないということです。

僕が今行っていることは決して新しいことでもなんでもありません。ただ、このような文化的な事業(大げさ!)は東京一極集中の時代が今も続いていて、地域にはあまりなかっただけです。かといって、ただこちらに持ってきて見せるといったことだけをしようとは考えてはいません。東京と同じ事をしても面白くないですからね。

そのひとつとして、商業ギャラリーではあまり行わないであろう”Sha-gaku”なんて言う審査すらない公募展を行ったわけです。写真を撮られる多くの方は、いずれは自分の作品を展示し、発表出来ればと考えています。そんな方々にとってのきっかけになればと思ったからですし、広く東北圏で、独自性を持った写真家の方が現れないかなとの期待感もありました。

自分の中では一応の結果はあったのですが、まだまだです。僕もギャラリーとしても常にオープンな状況でありたいと思っています。そして、可能性というハードルを自らの手で押し上げないようにして欲しいとも思っています。

「敷居が高い」とは、一度経験してこそ言える言葉なのですから。

2010年9月24日金曜日

イチロー10年連続200安打達成おめでとう!!

イチロー10年連続200安打達成おめでとう!!


今朝早くからあらゆるメディアに取り上げられているので、知らない人はいないのではないかと思いますが、ホントすごいですね。鈴木一郎、どこにもいそうな名前の彼が、今や日本中を始めアメリカでも超一流の野球選手として、またまた認められたわけです。

年齢は36歳。一般の社会では、中堅からベテランへ徐々に変わっていくようなポイントで、これからって時期です。まぁ、スポーツ選手の場合、活躍できる期間は大抵短いので、それこそ自分の体力や精神状態との戦いであるわけで、僕たちの遥か想像を越えた努力をしているのでしょうね。

昨年、9年連続になった時のインタビューで、「人との競争は終わった・・・やっと解放された」というような事を話していましたが、周りの人間はどうしても人との比較をしてしまうので、そこから受ける期待感や評価に対するプレッシャーは、その目標が高ければ高いほど計り知れないものなのだと思います。この年200本打てない恐怖を感じたとも言っていました。イチローであってもそうですから、僕のような凡人には耐えられないことなのかもしれません。

内野安打が多いという意見もあるようですが、まぁ、そうであっても出来るならやってみろよと言いたいですね。なんであれ、公式的な見解の下、形として残しているわけですから。史上初、前人未到と冠されることって、そうそうたやすく出来るものではありません。しかも、それが誰にでも理解出来るものとしての結果ですから、余計すごいところです。

常に注視されながら、結果を求められる世界の中で、一定のレベルを維持できることは、見た目は変わらなくても、実際自分の中では進化し続けている(精神的にも肉体的にも)ことなのです。

やはり、それがプロであるということかなと・・・。

2010年9月23日木曜日

秋の一日

寒いです。以前にも同じ書き出しの日があったと思いますが、以前にも増して寒さが感じられます。昨日と比べると10℃以上低いんじゃないですかね。ギャラリー内はそれほど寒さを感じないのですが、自室にいると結構それが感じられます。polkaも今日はベッドにもぐり込んで出てこようとはしません。昨夜少しだけフンつまり状態になり、苦しんでいたようですが、夜中にようやく出て、その為に体力を消耗していることもありますが。


このビルは築30年以上ですので、あまり換気には気を使っていないこともあり、夏場はすっかり熱気がこもってしまい、夜になってもなかなか温度が下がりませんでした。ようやく熱気も取れ、過ごしやすくなったと感じていた矢先ですから、あまりに急すぎませんかと言いたいですね。

それでも、秋はとても好きな季節です。徐々に暖かくなっていくのが感じられる春が一番好きなのですが、秋は落ち着きといったところでは一日の長があります。それは、いわゆる日本人的なわびやさびにも通じるところです。人生の中でも終幕に程近く、ようやく自分自身が分かり始める頃のように思います。(ちょっと、遅すぎるか)

今日はあいにく雨ですけど、晴れた日に公園なんかで落ち葉を踏みしめながら、木々からの木漏れ日を受けていると何故か幸せな気持ちになれます。つかの間の暖かさなのかもしれませんが、そんな陽の光がとても愛おしいように思えるのです。そして、思わず足元から伸びた自分の長い影を見ながら、じっと立ち止まってしまいます。

今年もそんな一日があればいいなと思っています。

2010年9月22日水曜日

消費されないもの

さてっと、今日は出かけようか、どうしようかちょっと迷っています。普段あまり外出出来ないので、会期準備中は世間を覗いてくるというか、実際に目で確かめ、手で触れ、感触としての残していたいものをあれこれ自由に探しています。


Web上の情報は、現在のところほとんどが視覚情報ですから、全てを確かめることは出来ません。色にしても、感触にしても、香りにしても、それは想像の域であって、そのものズバリであることはありません。実際、情報に興味を持ち、その後実物を見たり、手に取ったりした時のギャップは、往々にして大きい場合が多いですね。しかも、自分の感じたイメージと違っている方が多いように思います。

逆に、画面ではそれほど感じなかったものが、実物を目の前にした時に想像の域を遥かに越えてしまっているものもたまにはあります。だから、何かを購入したいと調べて、その衝動にかられても、注文ボタンを押さないように心掛けています。いつも、それは検討のひとつではあるけど、現物を見るまでちょっと待とうねと心に言い聞かせているのです。

ボタンひとつで、好きなものを注文し購入できることは、とても便利で良いことだと思ってはいます。生活必需品のように常に消耗し、消えていくものやもうすでに購入の経験もあり、それが有用なものは、こんなあり方で充分だと思います。そう、消費されていくものについては、現在のライフスタイルにも合っているのかと感じます。

それじゃあ、今、消費されずにずっと残っていくものってなんだろうなと、時折考えてしまいます。消費という意味合いに違いがあるかもしれませんが、形あるものは最後には朽ちていくものなんだろうし、残されていったものにしても、その時とは違ってきているわけだから、もしかしたら人の手を介していようがなかろうが消費されないものなんてないのかもしれません。

じゃあ、形の無い感動や思い出といったものは、どうなのでしょう。形が無いからすでにそれはモノではないわけで、消費するしないを語る以前の事のような気がしますが、その時に得られた感情はモノ以上に自身に残っていくものだから、ある意味消費されずに残っていくものなのかもしれません。それでも、その記憶や状態は、歳を経るごとに曖昧にぼんやりとなっていくわけで、記憶の中で消費(風化、排除?)されていくモノであるとも言えます。

結論めいたことは言えませんが、取りあえずは今この目の前にあるもの、考えていること、そこから受けた感情の揺れや感動といったもの全ては、いずれはどこかで消費され、去っていくものなのだろうと・・・。

人との関係もそうなのかな・・・そう思うとちょっと哀しいですが・・・。

話がズレていきそうなので、今日はこれでおしまい。

2010年9月21日火曜日

いつかは・・・。

いつも感じるのですが、会期前にあれこれ悩みながら展示をしていた作品も、終わってしまえばあっという間に片付けられてしまいます。すっかり取り去られた白い壁面を眺めていると、寂しさ半分、次回の展示でどんな姿に変わってくれるか期待半分といった感情が湧いてきます。そして、同時に次はどんなもので化粧をしてくれるのかいと壁自身が語っているような感覚にも捉われます。


10月2日開幕のハービー・山口、ヨーガン・シャドバーグによる二人展 Two in One in England の展示作品はもうすでに到着しています。昨日午後に全ての確認を終え、展示方法と順番を決め、一部を除いて展示をしました。一部を除いているのは、今週予定しているレビュー、相談の催しとメーリング・リストの方限定に定例で行う催しが、25日(土)14:00から行われるからです。内容はこの場では発表出来ませんが、もし、関心、興味がある方はご連絡下さい。

さて、作品ですが、ヨーガン氏は60年代、ハービー氏は70年代、時代は違っていますが、イギリスに住む市井の人たちの表情や光景を写し撮った点では共通しています。年代や場所が違っているので、それぞれの環境や世相の違いが見受けられますし、やはり大戦からの年月の差が作品にも現れてきているように、僕には感じられます。

それでも、共通して言えることは、写し撮られた人々の表情や情景からは、未来を信じられる、そんな明るさが見えてくることです。その為に、今こうして生きているだと言わんばかりなのですね。当たり前に将来を夢み、豊かになる(物質的にも精神的にも)ことを信じている、そんな感じなのです。

僕がまだ子供だった頃、兄弟、友人以外の周りの人間はみな大人であり、その大人たちは自分の子供やこれから社会へ出てくる若者たちに、それ相応の夢や希望を持っていたように思いますし、それをかなえさせてあげたいと願っていたはずです。日本はちょうど70年安保の頃ですから、本当はそうではなかったのかもしれませんが、少なくとも少年であった僕の眼にはそう映っていました。

さて、僕ら大人は今の子供らにどんな未来を見せてあげられるのだろうか。夢や希望を持つことがごく当たり前のことなんだよと素直に言えるだろうか。

分かっています。大それたことなんて出来ないことは・・・。

ごく一部の人たちに対してしか出来ないことを重々承知の上、そうして生きていけば、いつかは・・・と思いながら、毎日を送っているのです。

2010年9月20日月曜日

”Story vol.2”が終了して・・・。

”Story vol.2”が昨日無事終了しました。今年の異常気象は集客にも影響を与えると懸念していたのですが、通常とほぼ変わらぬ程度で、来ていただいたお客さんには感謝の一言しかありません。欲を言えば、写真を撮らない一般の方に、写真の魅力をもっと知っていただきたいのですが、それはもう少し先に取っておきます。


プロとアマチュアの話を以前載せましたが、今回の参加者は職業として写真と関わりの無い従来からの言い方をすれば、アマチュアの方々です。それでも、それぞれが自分の視線で独自の表現をしています。そして、伝えたいことや思いのようなものを、自分自身を見つめながら、展示・発表に到っています。見る側に対しての、問いかけでもあるわけです。

僕自身は、そういった方々との出会いを通して、展示する場を提供させてもらい、出来る限りその意向に沿ったやり方でサポートするだけです。今回見に来ていただいたお客さんの中には、現在募集中の”Sha-gaku”やClub Blossomに興味を示し、参加を検討されている方もいます。ただ、現実として展示まで行い、発表を通して自分を表現しようと決断される方はとても少ないものです。

それは、僕自身もとてもよく分かります。展示までに要する労力(作品制作の困難さ)や費用の面での負担は、はたして自身の発表するという行為に見合ったものであるかの判断が付きづらいこと、また、その行為によって自己の充実感が得られるものかとの不安があるからです。ですから、一歩前に踏み出すかどうかの判断は、そういった懸念や不安を押しやる程のモチベーションやエモーションが自分の中にあるかが、ひとつのポイントになります。

でもね、僕はこうも思います。絵画や版画といった他のアートでは、それを制作し、作品として揃える為には多くの経験や技術を必要とします。その一方で、カメラは携帯にも付いているように、日常的に誰でも使用し、撮れてしまうものです。それ程身近なもので、アート足りえるものが生み出せるかというと、自信を持って、あり得ると断言出来ますし、そのことは実際歴史が証明しているものだとも思っています。

それって、むしろすごい可能性があることだと思うんですね。どんな人でも、シャッターを押した瞬間に、アート足りえるものが出来てしまうとも言えるのですから。考えることは重要で、大切なことです。それなくしては意味を持たないこともあります。

でもね、そんなことよりも、まずは自分に問いかけてみて下さい。自分が何かの理由でカメラを手にし、そこからあるものを表現し、周りの世界との関係性を持ちながら、形あるものとしてそれを残し、伝えてみたいとの気持ちがあるのなら、実行に移すべきです。

僕はそんな人たちをこれからも応援していきたいと思っています。

2010年9月19日日曜日

きっかけ

さて、今日は”Story vol.2”の最終日です。世間は3連休で行楽に出かけているのか、はたまた家庭でのんびりと過ごしているようで、大通りを走る車がいつもより少なめです。お天気の方もいまにも雲に覆われた空から雨が降り出しそうな感じで、よほど日頃の素行が悪いのではと思ってしまいます。


今日は参加されたメンバー3名がいらっしゃる予定です。是非、多くの方に来ていただいて、わいわいがやがやとしながら、終了を迎えればと思っています。明日以降、撤収や次回準備になり、結局あまり落ち着けないまま過ごすことになるのですが、これはこれで楽しいものです。

また、23、24日(木、金)に予定しているレビューについても、参加を募集していますので、気軽に来て欲しいと思っています。特に作品としてまとまっていなくても全然構いません。僕としても今後の参考にしてもらえればぐらいの気持ちですので、もし参加される方は僕から言われたことを全てそうだなんて思わなくても良いです。むしろ、そこから自分のこれからの進め方なんかを、自分自身で考えるきっかけになって欲しいのです。

よくモチベーションやテンションを上げるとか維持するにはとか言われますけど、周りでそうさせることは大事なことだとは思いますけど、必要かと言えばそうではありません。結局は、それを判断、決定するのは自分自身ですからね。ただ、目標や目的を曖昧にしてやみくもに何かを行っても、それは上手く行くはずありません。それも、自分自身が良く知っていることです。

こんなことを書いている僕自身もはっきりとした意識や意思を持っているかと言えば、第三者が見ればそのようには映らないのかもしれません。目の前にあるひとつひとつの問題や懸念を不安に感じながら、遥か遠く離れたところでうすぼんやりと輝いている光に向かって、もがき進んでいるだけですから。

今日もその一日が始まります。興味がありながらもまだ見に来られていない方は、すぐに来て下さい。もしかすると、今自分がしていること、これからしようと思っていることへの参考やきっかけになるかもしれませんから。

2010年9月18日土曜日

普段の服装

以前、普段の服装について書きましたが、この数年は本当に服装には無頓着です。一言で言うと、普段居て楽な方向へ向かって行っているだけです。年中、ジーンズやパンツに、シャツを羽織るだけで過ごせたならどんなにいいかと思います。


日本は四季があるので、それに合わせてと言うか、生理的に寒さを感じるので余計に着込むようになったり、暑さに耐えられなくショートパンツになったりしているだけですけど、非常に面倒に感じます。お客さんを相手にしている商売でこれはちょっとと思う時は多々あるわけで、取りあえずは見苦しく見えないようにはしているつもりです。

それでも、人並みに服装に興味があった時期はありました。高校の頃は、世間では「VAN」や「Kent」といったいわゆるアイビー全盛でしたし、僕の通った高校は当時では珍しくブレザーだったこともあって、次第に周りの友人にも感化されながら、流行を追いかけたものでした。まぁ、当時はお金も無く、アルバイトも出来ない時代でしたから、ただ雑誌なんかに載っているものを見て、指をくわえていただけですが。

今でも覚えていることですが、そんな時分に、祖父が僕にスラックスを買ってきてくれたことがありました。ブレザーにも合う濃紺のものです。タグを見ると「Kent」とあります。僕はいつも雑誌でしかお目にかかった事のないブランドタグに感激しながら、早速穿いてみたのですが、サイズが合いません。それでも、かなり詰めてもらって、ベルトで押さえながら、高校時代はずっと穿いていた記憶があります。

当時は買ってもらったことに、素直に嬉しかったんだろうと思います。でもね、今考えると、祖父がどこで調べたのかは分かりませんが、若者しかいないような店内で、サイズも良く分からずにひとりでスラックスを選んでくれた行為そのものの方が嬉しかったんだと思います。

そんなこともあり、やがて大学を卒業し、東京へ就職が決まり、普段はスーツを着るようになり、プライベートの服も選ぶようになってきました。流行も取り入れながら、人並みに気を配るようになったわけです。まずは、外観からといった感じが強かったように思います。

でも、今はこんな調子です。この年で、これでいいのかとは考えていますけど、自分の中や他との関わりにおいて、これでもいけると感じている間は多分変わらないのでしょうね。

2010年9月17日金曜日

ギャラリーの責任って・・・。

“Story vol.2”は今週一杯となり、来週から次回への実質的な準備期間になるわけですが、この期間で、これまでの構想や想像が具体的な形として表れます。プロの作家の作品をこちらに持ってくる場合と”Sha-gaku”、”Story”といったギャラリー主催の企画展の場合とは、事前の流れやその内容は大きく違っています。


前者は既に展示会として行われていますから、それほど検討・考慮する範囲が少ないですが、地元・近県のアマチュアの方を対象にしている後者の場合は、作品性も考えもマチマチですから、個別の対応が必要になります。

また、僕自身が作品を制作するわけではありませんから、それらのイメージや作品性を考慮しながら、制作者に対してアドバイスや参考意見を提示し、出来るだけ効果的に見せなければなりません。その一番の理由は、最終的な責任がギャラリーにあると考えているからです。僕はその事を念頭に置いて、出来る限りコミュニケーションを取り合いながら、実際の展示まで事を運ぶようにしています。そんな積み重ねの末、自分の頭にあるイメージと現物がどれほど一致しているかが、この期間で見えるわけです。これは、楽しみでもあり、不安でもあります。

これまでは大きなトラブルもなく、ややもすればこんなもんだと思いがちになるのを抑えながら、自分の中にあるレベルを下回わらずに出来ていると思っています。もっとも、これは僕よりも、制作者の力によるところが大きいのですが。

次回は、ハービー・山口、ヨーガン・シャドバーグによる二人展です。確立された世界観を持っている2人ですから、僕は特に何もする必要はありません。心地よく、お客さんに見てもらえることを考えるだけです。

その後の、江口敬個展は、現在作家とコンセプトや展示プランを確認・検討中です。江口さん自身初個展ですので、かなり力が入っていますし、僕もその期待というか具体化に楽しみながら取り組んでいるところです。もし、現在の2人のイメージがそのまま具体化すると、非常に面白いものになります。これほどまでに、越えなければならないハードルを上げなくても、と思える程ですので、最近は、僕は本来、サディスティックな人間なのかもしれないと思い始めてもいます。

手前味噌ですけど、秋口から年末・年始と、カロス・ギャラリーは面白いですよ。

おっと、現在開催している”Story vol.2”もあと3日あります。

見逃さないようにして下さいね。

2010年9月16日木曜日

ポジティブに捉えればですが・・・。

今日は一日中雨降りのようです。

朝目覚め、カーテンを開けた時に、陽の光が差し込まないのって、ちょっと損をした気分になってしまいます。それに加えて雨音が聞こえてきたりすると、ますます気分が滅入ります。元来面倒くさがりなので、先ずは傘をさして表に出なきゃいけないと思うことが、行動を鈍らせます。なので、用事がある場合は、極力一回で済ませるように考えてしまい、これはこの次にしようとか、自分にとっての優先順位を決める訳です。


これまでの経験則から言って、次の機会にしようと思い、その時点で行動を起こさないものは、この次に行うまでに今以上の労力と時間が必要になります。そうして、あの時しておけば、こんなに苦労しなくても良かったのにといつも思います。しかも、仕事が猛烈に忙しく、時間がほとんど取れない時に限って、結局はそうしなければならなかったことが多いのです。

ここ数年はそんな状態でしたから、今出来ないことはもう出来ないかもしれないとの思いを持ちながら、優先順位を付けるようにしていました。だから、自分にとって必要だと感じたものは、無理をしてでも行ってきたように思います。人からはよくやるよねと、半ば厭きられていたかもしれません。

今は、より慎重に構えるようになっているのか、とても自制しているなと自分でも感じことがあります。自制というと何かかっこいいようですが、結局は我慢しているだけの話で、誰もがしていることを、少しは当たり前に考えるようになってきただけですね。

案外、雨の日は、ほとんど表に出たりしないので、考え事や、検討したりするには絶好の日なのかもしれません。取りあえずは、そう考えると、雨の日もまんざらではないよねという気持ちにもなってきます。まぁ、ポジティブに捉えればですが・・・。

2010年9月15日水曜日

「Harmony」 Will&Rainbow

HarmonyWill&Rainbow 2004

今ギャラリーで流れているアルバムです。
ピアニストであるウィル・ブールウェアのソロプロジェクトによる、おそらく日本限定のアルバムです。紙ジャケット仕様のこのCDアルバムを、今は無き渋谷のHMVで目にした時には、ウィル・ブールウェアなるピアニストがどんな人なのかも知りませんでした。


何となく、中央に写る老夫妻が気になり購入してしまいました。いわゆる、ジャケット買いというやつです。ジャケット裏面の曲目紹介に、キャロル・キングやキース・ジャレットなんかの名前も見つけたことも購入した理由ではあります。

帰宅して、包装しているビニールをはがしてみると、中に参加しているメンバーが紹介されていました。記載されているミュージシャンは、ジャズ、フュージョン好きの人なら誰しも一度は聞いたことがある人ばかりです。もうすでにその世界でトップに認められた人ばかりです。2004年でしたから、それぞれが全盛期かと言えばそうではありません。でも、それだけで充分に期待させてくれるものでした。

一聴すると、それはまさしく職人の味わいというか、難しいことや奇抜であるとか殊更に技術を前面に出すわけでもないのに、異常なまでの奥深さと繊細さを醸し出しているのです。僕のお気に入りは、フィービー・スノウがボーカルを取った、キャロル・キングの名曲「Will You Love Me Tomorrow」ですね。

このアルバムを聴く度に、ここで演奏しているミュージシャン達って、どうしてこんなにも簡単そうに(実際はそうではないのですが)、時に楽しげに、時にメランコリックに、深い表現力を感じさせるのだろうと思ってしまいます。ほとんどが聴きやすい、入り込みやすい楽曲であるだけに、ややもすれば平板になりがち(いわゆるBGM的な感じ)ですが、そうなっていないところが流石です。

2010年9月14日火曜日

自分を取り戻せる時間

外は昨夜からの雨が降り続いています。気温も下がり、ようやく暑さから解放されたのか、polkaは一人掛けソファの上で身体を丸めています。一週間前のフン詰まりから体調は持ち直しているようですが、何か少し違っても見えます。水は以前と変わらず飲むのですが、エサの減りが少ないのです。本能的にそうしているようにも見受けられますが、前から気まぐれのように食べなかったりしていたこともありましたので、余計な心配なのかもしれません。


ネコの年齢はよく分かりませんが、すでに僕の年齢を越え、老ネコの部類に入っていることは確かです。病院でも足腰は衰えて来ていますからと言われましたし、いつの間にといった感じです。人間の場合も、普段から一緒にいるとあまり気が付きませんが、少し年月を経てから久しぶりに会ったりすると、その変化は一目で感じますので、数年前のpolkaを知っている人には変わって見えるかもしれませんね。

僕自身、年代によって見た目の印象は違っています。本人が見ても分かるほどですから、他人はもっとそう感じると思います。若い頃、20代では必ず実年齢より上に見られていました。まぁ、老けて見られていたわけです。それが、30、40代につれ徐々に実年齢に近く見られるようになり、ようやく容姿が年齢に追いついたといったところです。

今はと言えば、怪しいオヤジですね。夜中にひとり歩いていると、職務質問されるのではないかと感じる時もありますから、その自覚は充分あります。人は見かけじゃないよと言いますが、やっぱり第一印象は外見ですからね。

そういうわけでもないのですが、夜はあまり出歩かなくなりました。これじゃいけないとは思っているのですが、そばに寄ってくるpolkaの相手をしている方が、心落ち着くのです。物言わぬpolkaに耳を傾けながら、ただ見ているだけですが、きっとそれは自分を取り戻せる時間でもあるわけです。

2010年9月13日月曜日

”Story vol.2” 今週一杯です。

早いもので、”Story vol.2”も今週一杯になりました。”Sha-gaku”から”Story”へ続く流れの中で、僕は仙台を含む東北圏の写真家をピックアップしたいと思っていました。これは、ギャラリーを開設した当初から考えていたことで、大げさに言えばこれまで慣習のように思われてきた中央依存の文化環境や発信といったものが、地域からでも、個人としても可能じゃないのという夢のような始まりにしたいと思ったからです。


“Sha-gaku”で5名、”Story”で4名、小出さんが重複していますので、8名の参加してくれた者の方には本当に感謝しています。おそらく、皆さんは少ないよねと思われるかもしれませんが、写真を撮られる方の多くは、いやほとんどの方は、自身の楽しみや記録としての使われ方をしています。したがって、それを作品化し、テーマを持って発表まで考えている方は少ないものです。

ギャラリーに訪れ、展示・発表されている作品を見、それに刺激を受け、いつしか僕も、私もこのような形で発表出来ればと考える方は実際いらっしゃいます。手前味噌になりますが、ここで発表される作品は、質的にもレベルは高いし、それぞれの個性も前面に出ていると思っています。でも、そんな作品を見て、自分のレベルではまだまだと腰を引いてしまうか、あるいは大したものではないと思うかは見る側の自由です。その辺りも参加者の少なさの原因の一つであるとは思っています。

また、地域において最優先されるものは、コミュニティーだと感じています。つまり、何か事を起こす場合、個人としてではなく、あるかたまりとして、その相互関係から結果を導き出すことを良しとしている傾向にあるということです。それはそれでとても良いことだし、僕自身も否定はしません。

それでも、パーソナルなアートとしてモノを創造することは、結局は個に依存されるものだとも考えていて、それが集合することで、相乗効果として更に良いものになっていくように思うのです。つまりは順番が問題だということですね。

是非とも、ギャラリーへ来ていただいて、そんな部分も感じてもらいたいと思います。

2010年9月12日日曜日

自分を見つめること。

仙台に戻り、これまでには無い写真専門のギャラリーを開設したのですが、この1年半余りで様々な考えや感情が僕の心の中に生まれたような気がします。生まれたというよりも、これまでしまい込んでいたものであったり、気付かなかったことが自然に再認識出来たといった方が良いと思います。その理由として、以前と比べて、絶対的に自分自身を考える、あるいは見つめる時間が増えたことがあります。


役者は、ある芝居に出演する際に、大抵は台本をもらいます。その中の登場人物の一人を演ずるわけです。人によってその読み方に違いはあるのでしょうが、物語や演ずる人物は自分自身も、その世界も身の周りにあるものではないので、先ずはその中の環境や歴史と言った説明されている部分を理解します。その後、その中での自分の立ち位置、そして演ずる人物の心を見つめ、場面、場面あるいは物語全体を通しての気持ちの揺れを感じながら、最終的にテキスト(言葉)と身体で表現するように思います。

これは何も舞台の上だけの事では無く、社会の中で自分自身を意識し、生活している場合にもあてはまるような気がします。違いは、物語では無く自分の人生だということです。そして、それが非常に重要な点ではあります。

よく忙しさのあまり、自分を見失うと言われますが、確かにそれはある意味正しいことで、やはり物理的な時間も必要なんだなと感じます。そうして、自分を見つめることが出来なければ、何も生まれないのかもしれないとも思っています。僕の場合、時間がありすぎて、考えすぎる傾向になってやしないかと気にしていますが・・・。

さて、芝居も然り、何かを表現し、それを発表する行為は、自分自身を晒しものにすることを内包しています。だから、その発露を自分自身で理解出来ていなければ、そこから何かを伝えようとしても無理なんだし、そういう気にもなれないよですよね。

一日の数分でもいいですから、そんな時間を持ってはどうでしょう。その行為は、決して他人との比較では無く、自分への問いかけであって欲しいと思います。そこから、生まれてくる何かが、本当の個性や自分となって表れてくるのです。

まぁ、理解する前に、一歩踏み込んでしまうことも、ひとつの手段ではありますけど・・・。
(こちらの方が、現実的ではあります・・・なぜなら、人生には限りがありますから)

2010年9月11日土曜日

楽しいひととき

昨日は、12月に個展を行う予定の江口さんとの打ち合わせでした。いつも福島から車を飛ばして来てくれる彼には本当に感謝しています。その上、提示するプランから必要な作品構成やその内容についても理解を示してくれているので、僕としてはとても楽しいひとときなのです。


実は、今回の個展は彼にとっては初めてのものですが、かなりハードルの高いものだと思っています。作品のテーマやコンセプトはそれぞれ明確に写真家自身の中にありますが、それをどんな形で「見せる」かも大事な要素になります。初個展ということで、ストレートにそしてスタンダードに見せるやり方は、それはそれで正しいと思います。(いわゆる作品を整然とした中で見せるという意味で)

今回はちょっと違っています。僕が彼のポートフォリオから感じたものを、展示コンセプトとして具体化したものになっています。もちろんそれは僕だけのプランや意見ではなく、彼の意思も含めたものでなくてはなりません。僕の提示した内容に、共感や理解した上で、決定されなければならないものです。

昨日は、それがほぼ決定しました。まぁ、それが現実のものになるには、いくつかの壁があることも確かで、彼自身もそのことを分かっています。でもね、何故か、楽しく、面白く、自分にドキドキしたり、いくつもの感情がごちゃ混ぜになってしまう、そんな写真展になる予感はあります。根拠のない自信かもしれませんが、それって経験知や暗黙知のひとつだと感じていて、ある日突然、確信に変わるものです。

残り3カ月、自信が確信に変わることを信じて、僕も出来るだけのサポートをさせてもらいます。
皆さんは、楽しみにお待ち下さい。

2010年9月10日金曜日

先ずは個の発信から。

寒いです。昨日の書き出しは涼しいです、でしたが、昨晩は毛布を出してしまいました。今朝の最低気温が、16℃程度だったと言います。予想最高気温が、29℃ですから寒暖差が7℃あるわけで、秋から夏へ、そしてまた秋へと一日の中で変わっていく感じです。


でも、こんな澄み切った青空は、とても気分の良いものです。今週末は、定禅寺ジャズ・フェスが開催されます。天気予報ではあいにく傘マークが出ていましたが、出来ればこんな青空の下で演奏してほしいですね。今年は、エキナカにもステージがあるようですので、新幹線ホームから改札を抜けると、生のジャズが聞こえてくるかもしれません。とても、素敵です。

このところ、新聞にもその動きが掲載されています。もうすでに20年になるのですが、毎回開催が出来るだろうかと懸念しながら行っているようです。実際、この不況でスポンサーも減ってきていますし、毎回寄付を呼び掛けています。ボランティア・スタッフの集まりも徐々に減ってもいるようですし、非常に残念に思います。

アートを取り巻く環境もそれほど変わりはありません。それは、日本では社会とアートとの結びつきがいびつで、その仕組みが整っていないことに起因していると考えられます。いわゆる「箱もの」と言われる文化公共施設なんかがその例に挙げられます。バブルや好景気であった頃は、企業メセナという言葉も聞かれましたが、今はどうでしょうか、ほとんど耳にすることがありません。

公、民ともその存続自体危うい中、社会とアートの関係性に力を入れることはとても難しいことのように感じます。それでも、現在は個で発信出来る機会がインフラとして整いつつあり、世界は徐々にではありますが狭くなってきています。たとえ小さくとも、そんな個と個の繋がりから、独自性を出しながら、社会とアートの関係性を探っていくチャンスなのではないかとも思うわけです。

特に地域においては、自分たちのコミュニティーに対して、持続することは行っても、それを外側に向けて発展させることが非常に苦手で、自信を持っていないように思えます。アートは、社会や生活に潤いを与え、気持ちの豊かさ、充足感を感じさせるものです。ある種の人たちにとっては、生きる糧でもあります。それが、決して趣味の範囲に留まらない理由でもあり、延々と続いている訳です。

取りあえずは、ひとりひとりがもっと自信を持ち、その自覚の中で発信していけば、きっと変わっていくと、僕は思うのです。

(楽観的すぎますかね)

2010年9月9日木曜日

「感じる」

涼しいです。昨夜の台風通過に伴って、気温は下がり、一気に秋気配どころか、秋になったようです。それでも、23、4℃はあるようで、いかに今までが異常な暑さだったことが、肌を通して実感出来ました。今朝もそんな感じなので、ショートパンツからジーンズに変えました。


polkaの調子はいくらか良くはなっているようです。本調子にはまだまだですが、歩いたり、水を飲み出したりしましたので、もう少し様子見しようかと思っています。

昨日もpolkaの話で、語り合えれば、少しは分かり合えるのにと書きましたが、いやそうかなという思いが昼間中僕の頭をよぎっていました。それは、「感じる」ということです。

当然ですが、分かると感じるはまるで違うものです。両方とも脳が介在していますが、その行く付く先は違っている場合の方が多いですね。

実際、人は視覚からの情報で、あるものの姿や形、内容までの80%程度を得ると言われています。残りの部分は、聞いたり、触れたり、匂いを嗅いだりして、そのものを理解しようとするわけです。じゃあ、そのどの部分というか流れの中で、「感じる」というものが発生するのかと・・・。個人的には、最も強い感覚「感じる」があった部分なんじゃないかなと思っています。

説明といった付随する情報は、時に人を惑わせ、誤った理解を生んだり、自分が初め感じた物とはまるで違ったものに変えてしまう場合があります。しかしながら、「感じる」そのものが正しいことだとは限りませんし、分かったような気持ちになるだけということもありますし、第一に生死に関わるものについては、充分にその説明を聞く必要があると考えています。

時々、「感じる」イコール「理解する」になったら、どんなに楽になるのになと思うことがあります。これは、何の説明も無しにコミュニケーションを取れてしまうことと繋がります。こうなると、言葉無しでも伝わることになります。

でも、もしそうなってしまったら、非常に生きにくい世の中になることは、全ての人が知っていますし、それを望んではいないはずです。ですので、分かり合えないぐらいがちょうど良いのかもしれません。

その上で、もし「感じる」と「理解する」ことが少しでも一致していれば、そこから大きな喜びへとなり、カタルシスへと変わっていくような気がします。話にまとまりが付きませんが、分かり合えるとか理解する部分を先ずは横に置いて、「感じる」ことをしていかなくちゃと、思った次第なのです。

2010年9月8日水曜日

polkaの調子が悪いようです。

昨夜からpolkaの調子が悪いようです。ギャラリーから自室へと戻ると、いつもはドアの前に待っているのですが、姿がありません。こんな時は、以前から持病となっている便が思ったように出ない時なのです。


案の定、部屋の隅でぐったりしています。何度か排便を試みながら、出ない為におう吐した跡も見られます。お尻を見るとぷっくりとしているので、ちょっとまずい状況だなと思いました。それでも、すぐに病院に連れていくわけにもいかず、今晩は様子を見て、明日にこのままだったら連れていこうと決めました。

そして、今朝になったわけです。どうやら便は出たようです。それでも、その為に多くの体力を使用してしまったのか、床にへばりついています。お尻はどうなっているかと見てみると、ぷっくりは取れていましたが、周囲に赤みを帯びていました。

さて、どうしようかと・・・。当たり前ですが、polkaは何も語りません。以前もそんな状況になった事はあるのですが、その時は半日ぐらいで回復し、動き回るようになりました。こんな時は、いつも思うのです。どんな形でも意思の疎通ができたらと・・・。

一緒に暮らし始めて、12年。人間同士だって、本当の事は分かり合えないのかもしれませんが、人にはそれを伝える術があります。誤解や思い違いが生じたとしても、表面的であったとしても、痛い、かゆいぐらいは分かります。もちろんその先の心の奥まではと言われると、少々自信は無くなりますが。

取り合えず便は出ているので、少し休ませてみます。それでも症状が変わらない時は、病院に連れていこうと思います。長く生きていれば、色々とあるのが当たり前ですが、やっぱり心配ではあります。

2010年9月7日火曜日

敷居が高い。

台風9号の影響なのか昨夜から降っていた雨が、打ち水のように地面を黒く濡らし、ほんの少しだけ涼しげにしてくれました。連日の猛暑日にいい加減麻痺してしまった体内の温度センサーも、今朝は赤信号から黄色ぐらいにはなった感じがします。


台風9号は進路を東に向けており、どうやら東北地方も縦断しそうな気配です。涼しくなってくれるのは大歓迎なのですが、大雨になるとまたお客さんの足は遠のいてしまうので、痛し痒しといったところです。今週は安定しない雲行きが続きそうですね。

お客さんの動向って気候にも左右されるものですが、昨日の地方紙夕刊のコラムで、美術館は何か敷居が高く行きづらいといったことが書いていました。美術館はその運営形態から私設(と言ってもほぼ公的な意味合いが強い)と公設に分けられるのです。私設の場合は、個人のコレクションから発生しているものが多いので、独自性があります。したがって、見る側も限られてくるわけです。この事は行きづらいことと直接関係はありませんので、むしろ、公的な美術館に言えることのように思えます。理由をここで言及すると長くなりますので、それはまた別の機会にします。

さて、僕がしているギャラリーや画廊といったものも、非常に特徴を持っているものです。特に販売まで行っている商業ギャラリーとなると、その専門性は大事な要素になります。したがって、取り扱う内容に興味もあり、ある程度理解が無いと、見てもしかたないものとの印象が強いのです。その辺りが、一般に敷居が高いとの表現になってくるのですね。まぁ、以前は実際そのような態度でいる画廊やギャラリーが見られてもいましたから、ある意味仕方ないのかもしれません。

アートは、作る側と見る側のシンパシィーにより成立しているとも言えます。そして、そのシンパシィーは、お互いに押し付けられた関係性ではなく、ごく自然に感ずるがままで合って良いと、僕は思っています。よく作家自らが、観客は理解していないと嘆いていることを聞いたりしますが、そんなのは驕りに過ぎません。

そんなことが、ますますアートは敷居が高いもので、何をしているか分からない物にしているのです。まずは、見て、自分なりに感じ、考えてみて下さい。そこで、何も感じられなくても、不思議なことでは有りません。大事なのは、実際の作品をその眼で見ることです。そこから何かしら、新たな関係が発生していくのだと、僕は思っています。

2010年9月6日月曜日

ちょっとした告知

今日はちょっとした告知です。


現在開催中の”Story vol.2”は19日(日)までですが、次回ハービー・山口写真展「Two in One in England」までには2週間の準備期間があります。その間を利用して、皆さんの写真作品や疑問等にお答えしたいなと思っています。

日にちは、23日(木、祝日)、24日(金)の2日間です。

時間は、希望に出来るだけ合わせようと思っていますので、右下のメール・アドレスもしくはカロス・ギャラリーへお電話下さい。

特にかしこまったものではなく、気軽な気持ちで考えてもらえれば良いと思います。作品はポートフォリオとしてまとまっていなくても構いません。もちろん無料ですが、ずっとギャラリーに居る訳ではありませんので、事前に希望日時をご連絡下さい。

さて、話は変わって、カメラのテレビCMと言えば、先ず宮崎あおいさんを思い出すのですが、ソニー「NEX」に使用されている楽曲がいいですね。アレンジにも依るのでしょうが、とても懐かしい気持ちにさせてくれます。もちろん元歌はリアルタイムで聞いていましたし、それとは違った雰囲気があって、何故か若かった頃の日々を思い起こさせてくれます。

YouTubeの動画がまた泣かせます。

http://www.youtube.com/watch?v=aAzc4Gtq84U
 

2010年9月5日日曜日

今観てみたい映画

「やぎの冒険」


沖縄の中学生、14歳の仲村颯悟(なかむら・りゅうご)さんが初めて監督した長編映画です。今朝のNHKのテレビ番組で偶然知った映画です。番組の中でも、少しだけ映像が映っていましたが、僕が何より驚いたのは、14歳の仲村さんがインタビューで答える言葉に、全く曇りが無く明解であったことです。

小学生の頃から、ホームビデオで自主映画を撮り続け、その数は30本を超えると言います。2009年、沖縄観光ドラマコンペティションで、本作の土台となる短編「やぎの散歩」の脚本が弱冠13歳にして選ばれ、今回の長編映画のメガホンをとるようになったとのことです。

これまでは、自主映画を仲間内で制作していたのですが、今回はまるで違います。当たり前ですが、周りにいるスタッフ約50名が全てプロで大人なんですね。彼自身、初めは撮影指示の出し方、言葉づかいとかコミュニケーションを取るのに苦労をしたと話していましたが、それは初監督をするどんな人でもそうだと思います。

物語は、沖縄で食べられている「ヤギ鍋」を通して、食べて生きる意味を考え、知ることで少年の成長を描きだしています。とても、普遍的なテーマでもある「生きる」ことを、彼なりの解釈で、映像化しているのだと思います。

また、彼は小学生の頃から、自分の思いや考えを言葉とし、それを映像にしてきたと話してもいます。これは、なかなか言えることではないですよね。そして、沖縄という自分の住んでいる場所へのこだわりから、生活感のある本当の沖縄を撮りたいとも話しています。

もう、しっかりと自分の中に核のようなものがあるのですね。

さて、この才能を活かすのも殺すのも周りの大人だなと、ちょっと不安にもなりました。彼自身、すごく真っ直ぐだから・・。

全国上映されるのか分からないのですが、沖縄では試写会も終え、9月18日から沖縄県内をロードショーするとのこと。公式サイトはこちらです。

http://yaginobouken.jp/index.html

2010年9月4日土曜日

折り返しです。

“Story vol.2”は2週目の週末です。1カ月の会期期間の中間ポイントになります。


個人で展示・発表を考える場合、先ずは会場の選定から始まるのですが、作品の種類や大きさ、展示形態により、ある程度は限定されていくものです。また、会場を借りることがほとんどですから、大抵は1クール、一週間が基本になっています。

多くのクラブやサークルの発表会のように多数の方によるものについては、1週間という期間は適当なのかもしれませんが、個人で自身のテーマ性や考えを伝えたいと考えている場合は、とても短いように思います。展示会はライブですので、会場に来てもらえることが第一になります。また、展示・発表の雰囲気も会場でのみ感じられるものです。

より多くの人にその機会を持ってもらう為には、ある程度の期間は必要ですし、そうでなければあれこれ苦労を重ね制作してきた作品にも気の毒のような気がします。そうは言っても、費用的な面の制約があるわけで、個人で長い会期、展示会を行うことを困難にさせているのが現状です。

僕は以前から、個人的に発表を行う期間として、1週間が適当だよねといった通例のような言われ方に疑問を感じていました。その前提として、あくまで個人的な考えですが、趣味の範囲の延長としての展示会といった風潮があるように思えるのです。

発表をするには、人それぞれ理由があるはずです。理由が無ければ、何も形として世に問う必要もありません。自分の中で、処理、消化されれば良いだけです。

なので、自身の作品を形あるものとして発表し、それを出来るだけ多くの人に見てもらいたいと思っている人たちに対して、出来るだけ負担の少ない状態で、より長い期間展示出来る機会を作れないかと考え、このような企画を行っているわけです。

こんな名も無い小さなギャラリーの企画に参加して、何になるかと考えている方はいると思います。この場から、すぐに全国区に飛び出していけるかと言えば、そんなことは、今のところありませんしね。

でもね、一度見に来てもらえれば分かると思います。

無名の力(参加者にはとても失礼な言い方ですが)って案外すごいものですから。

2010年9月3日金曜日

テレビってやつ

地上波放送を見るようになってから、1年以上経つのですが、今でも積極的に見ようとしているわけではありません。単純に環境がそうなったことが理由のひとつで、普段はただ流しているような感じです。未だ地デジ化されていない状態で、今後どうしようかとも考えていません。いずれかの段階でどうするかを決めないといけないのでしょうが、あまり興味がないのです。


それでも、中には興味や関心のある番組も放送されていますので、選択しながら見てはいます。そんな中でちょっと気になるところは、損得勘定を前面に出したり、そういった情報が絶対的に正しいと言っているような番組が見られるところです。

民放各社はそれぞれの社の方針に沿った番組制作を行っていますが、そこにはスポンサーが必ず存在するわけで、その影響力は強いものだと思います。なので、ここで述べられていることの全てが正しいことかと言えば、そうではありません。このことは何もテレビに限られたことではなく、新聞、ラジオ、その他報道に関わるメディア全般に言えることです。

僕自身、今でももっとも影響力のあるメディアはテレビなんだろうなと思っています。

ネット情報の方が早いし、今ではほとんどの情報を得るようになったという人たちは増えているとは思いますが、一方でテレビはいつでもどこでも環境さえあれば、スイッチ一つで見られるのですから、絶対数でテレビに勝る物はないと思っています。

テレビに関わる人たちは、その影響力を常に意識しながら番組制作をしているのだと思います。より便利になること、その人にとって利になることを放送すること自体、決して間違ったことではありません。そういう情報を欲している人は、多くいる訳ですからね。

それでも、そんな情報を疑いも無く鵜呑みにする人たちがいることは確かですから、そんな人たちがあらゆるものを損得で判断し、行動してしまうのもいかがなものかと感じてしまうのです。

話にまとまりが付かないのですが、そういう情報といったものはある程度は疑いを持って見ましょうよということです。僕は、そんな番組を目にすると、損得だけを考えて、世間と同じ型にいることだけが、決して良しでは無いのだよと自分に言い聞かせているのです。

2010年9月2日木曜日

居場所・・・。

暑い暑いと書いてばかりいる気がしますが、polkaもその異常な状態を感じているせいか、今夏は普段の居場所が違います。これまでは、常にエアコンが効いた部屋にいたので、ベッドやソファの上であったり、あるいはその中にもぐり込んだりしていたのですが、フローリングの方が少しは涼しく感じるのか、寝室の家具と家具との間のわずかの隙間にもぐり込んでいます。


何で、こんな狭苦しい場所を好んでいるのかは、全く理解出来ませんが、本人は気に入っているようですし、こちらとしても害はないのでそのままにしています。まぁ、彼なりの考えがあって、自分の居場所を見つけたといったところかもしれません。涼しくなってから、考えが変わるかもしれませんが、それまでは放っておくつもりです。

そんな姿を見ていると、自分も過去において、その時その時で、無意識の内に自分の居場所を見つけようとしていたのではと思います。本能的にとか生存の為とか根源に関わるものではないにせよ、そうすることで世間との関係に折り合いを付けていたように感じます。普段は強がって自分はひとりで生きていけるとか世間は自然に自分を認めざるを得ないと口では言っていても、内心どうしたら今のポジションでいられるのか、はたして本当に正当な評価を受け、自分というものを認めてくれるのだろうかと不安であったりします。

そんな葛藤の中、人はそれぞれの居場所を作ることで、安心や安定を求めるわけで、僕自身もそんな考えはどこかにあったし、そうすることで仕事やプライベートでの楽しさや喜びを得ていたように感じます。それって、家庭、地域、職場、世間全般、あらゆるところで生きる上での術であり、常に求めているものなのでしょうね。

さて、現在の僕の居場所は・・・? 物理的な居場所は明確にあり、いつももっともお気に入りの場所にいる訳だから、それだけを見ればとても幸せなことだと思います。でもね、自分という人としての居場所は今も探しているところなのです。

いい年をして青臭いことをと言われそうですが、それが正直な気持ちなんだろうと思います。

2010年9月1日水曜日

雑誌「せりふの時代」の休刊に思う。

以前紹介した「せりふの時代」が、2010/vol.56 夏号を最後に休刊となりました。年4回の季刊誌として、14年に渡り224作の戯曲を掲載してきたこの雑誌が休刊になるとの情報を得た時から、その意味をずっと僕は考えていました。


いわゆる文字離れからくる出版業界の不況、小説とも違う戯曲と言う特殊性、読者数の少なさなど、いろいろな原因が考えられます。演劇は好きだけど、その戯曲まで読む人は確率としては非常に少ないと思いますし、ましてや、演劇を一生涯見ない方がいてもなんら不思議なことではありませんので、雑誌の刊行自体特殊で、まぁ14年もの間、よく続いてきたものだとも言えます。

この中に、俳優の篠井英介さんが連載している「カンゲキ」と言うエッセイがあります。今回で16回目ですので、4年に渡り掲載されているものです。篠井さんは、今は珍しい女形の役者です。顔を見れば、たいていの人は思いだすのではないでしょうか。名前まで言える人はと言えば・・・、?が付くかもしれませんが、とても素敵な役者さんです。

最終回のエッセイに雑誌休刊について述べていますので、少し引用します。

「本誌が今号で休刊になります。

残念でなりません。本屋さんから一つ演劇の雑誌がなくなるということは、私は肩身がせまいような、悲しい思いでいっぱいになります。・・・中略・・・たとえば、「演劇」を一度も観ないで人生を終える人のほうが、日本国民の大多数であろうということ。・・・中略・・・こんな一般社会の「演劇」に対する認識を認識したうえで、私らは時にマニアックに時にエンターテインメントに、いろんなジャンルの芝居作りにうつつをぬかそうではありませんか。

演劇作りのプロたちが、ほんの少し社会との関係に関心をもって仕事をしていたら、『せりふの時代』は続いていたと思います。
こじつけですかね。いえ、せめて演劇界全体のことをもっと感じようとしてみませんか。まず、自分も芝居を作っているのに、他の芝居に興味のない人が多すぎますしね。・・・・略。」

これも現実のひとつ。演劇に限った事ではなく、広く一般的にアートを取り巻く環境をも表わしているように感じます。

さて、どうしたら・・・。答えは意外に簡単なのかもしれませんが、まだまだ考えること、しなければならないことはたくさんありそうです。