2010年9月22日水曜日

消費されないもの

さてっと、今日は出かけようか、どうしようかちょっと迷っています。普段あまり外出出来ないので、会期準備中は世間を覗いてくるというか、実際に目で確かめ、手で触れ、感触としての残していたいものをあれこれ自由に探しています。


Web上の情報は、現在のところほとんどが視覚情報ですから、全てを確かめることは出来ません。色にしても、感触にしても、香りにしても、それは想像の域であって、そのものズバリであることはありません。実際、情報に興味を持ち、その後実物を見たり、手に取ったりした時のギャップは、往々にして大きい場合が多いですね。しかも、自分の感じたイメージと違っている方が多いように思います。

逆に、画面ではそれほど感じなかったものが、実物を目の前にした時に想像の域を遥かに越えてしまっているものもたまにはあります。だから、何かを購入したいと調べて、その衝動にかられても、注文ボタンを押さないように心掛けています。いつも、それは検討のひとつではあるけど、現物を見るまでちょっと待とうねと心に言い聞かせているのです。

ボタンひとつで、好きなものを注文し購入できることは、とても便利で良いことだと思ってはいます。生活必需品のように常に消耗し、消えていくものやもうすでに購入の経験もあり、それが有用なものは、こんなあり方で充分だと思います。そう、消費されていくものについては、現在のライフスタイルにも合っているのかと感じます。

それじゃあ、今、消費されずにずっと残っていくものってなんだろうなと、時折考えてしまいます。消費という意味合いに違いがあるかもしれませんが、形あるものは最後には朽ちていくものなんだろうし、残されていったものにしても、その時とは違ってきているわけだから、もしかしたら人の手を介していようがなかろうが消費されないものなんてないのかもしれません。

じゃあ、形の無い感動や思い出といったものは、どうなのでしょう。形が無いからすでにそれはモノではないわけで、消費するしないを語る以前の事のような気がしますが、その時に得られた感情はモノ以上に自身に残っていくものだから、ある意味消費されずに残っていくものなのかもしれません。それでも、その記憶や状態は、歳を経るごとに曖昧にぼんやりとなっていくわけで、記憶の中で消費(風化、排除?)されていくモノであるとも言えます。

結論めいたことは言えませんが、取りあえずは今この目の前にあるもの、考えていること、そこから受けた感情の揺れや感動といったもの全ては、いずれはどこかで消費され、去っていくものなのだろうと・・・。

人との関係もそうなのかな・・・そう思うとちょっと哀しいですが・・・。

話がズレていきそうなので、今日はこれでおしまい。

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