2010年11月24日水曜日

「隣の芝生は青く見える」

「隣の芝生は青く見える」


誰もが知っていることわざ、慣用句じゃないかと思います。簡単に言うと、他人の物が良く見える例えですね。僕を始め、他人(身内であっても)と比較し、その有り様や持っているものなんかを羨んだりすることは誰しもが抱く感情をひとつです。まぁ、その中身には、それほど違うものではないとの意味も隠されているのでしょうが、素直にそう感じてしまうことは往々にしてあるものです。

その根底として、あまり認めたくない不公平感があるわけですが、そういう状態になった時に、どういう行動を取るかが大きな意味を持つように思います。自分は自分だとして考えたり、いつかはそうなればとの思いから前向きに動いたり、仕方ないよなと現状に甘んじることを良しと思ったり、人それぞれ色々な考えを持ちます。

では、様々な表現手段を持って、形あるものとして創造し、何かを伝えたいと思っている人も同じように感じるのかと言うことになります。本来、オリジナリティーや自分の世界観をメッセージとして表現しているわけですから、他人のそれと比較しても仕方ないと思われますが、実際はそうではありません。

同じ人間である以上、感じ方の大小や影響力の違いはありますが、皆そんな気持ちを抱くのだと思うのです。どうしてこの人の作品からは伝わってくるものが明確に有るのに自分のものは全く伝わらないとか、この色や表現はどうやったら出来るのだろうとか、感心したり、嘆いたりしているわけです。そんな疑問や問題を自分自身に問いかけながら、現状から飛び出そうと模索している姿は、修行僧のそれを思い起こさせます。

それでも、そうした事をしているまたは出来る環境にいることは、まだましです。望んでいてもそれすら許されないもしくはその環境が目の前にあってもそこに飛び込めない人々は、僕の眼にはもっと哀しく映ります。

以前、人が環境を作らなきゃと書きましたが、その思いは「自分ちの芝生を青く見せる」ことに近いのかもしれません。しかし、これは、決して他人との比較や競争ではありません。先ずは自分が行動として表わし、可能性を示そうよということを意味しています。

きっとそれが、求められる大人としての役割のような気がするのです。

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