2010年11月25日木曜日

感情は主観的なものだから

すっきりと晴れ渡っている朝は、すがすがしさと同時に凛とした趣があります。今日もそんな冷気が肌を刺し、日差しが眩しい朝でした。今の季節はまだ冬ではなく、晩秋にあたるようですが、その言葉自体に幾分もの哀しさを感じます。


四季のある日本では、それぞれの季節で自然は姿を変え、僕たちの前に現れてくれます。それは、僕たちが望む、望まないに関わらず、気が付けばいつものようにそこにあるものです。気付けよと声高に言ってもいませんし、押し付けがましいところもありません。

ただ、そこに或るだけです。そんな移り変わりを眼で追い、肌で感じ、あるいは香りとして得ることで、勝手に形容しているだけなのです。

だから、秋はちょっともの哀しいと言われても、秋という季節を形づけるもの達は、決してそんなつもりでいるわけではなく、むしろそんなことはないよと言いたいのかもしれません。その辺りが、人が感情の生き物だと言われる所以なんだろうと思うわけです。

僕は、感情というものは常に主観的であると考えています。主観的であることは、例えばそこにある花を見た時に、誰ひとりとして同じ感情を抱かないことでもあります。「美しい」の一言の中には、いくつもの意味があるように、そこから生まれる感情も無限であって良いわけです。

表現する者は、自分自身の思いや疑問といったものを伝えようとして、具体的に形づくるもので、時に意に沿わない理解や感情を持たれることがあります。(表現者としての立場から見て)それがよりパーソナルな部分から発生している場合は、特にその確率は高いもののように思います。

もちろんそこから普遍的なものへ繋がったり、拡がりがあるのなら、意図した部分を感じてもらえる率は高くなります。そこには、無理や押しつけがないことが重要ではあるのですが、案外そういったものは、作りだそうとする以前に身近にあるものなのです。

自然もそのひとつです。

そんな日常にある美しさやいとおしさをすくい上げ、磨きをかけて目の前に提示するだけでも、表現者としての意義はあるわけです。

しかも、それはごく一部の人に対してであっても構わないとさえ思っています。

生まれる感情が主観的であるのなら、全ての人に同じ感情を抱かせることなんて不可能なことなのですから。

0 件のコメント:

コメントを投稿