2010年12月10日金曜日

僕が今見たいもの

現在写真は誰もが撮れる環境にあります。携帯であれ、コンデジであれ、何であれ、カメラと名の付くものであれば、シャッターを押せさえすれば、意思とは関係なく、そこに写真として残されます。しかし、自分が意図し撮影を行い、それがまさに自分が思い描いた世界であったり、望んだように写されているかと言えば、そうではない場合の方が多いものです。


ギャラリーに見えられるお客さんの多くは、よくこういう表情を撮れますねとか、こういう瞬間を捉えられますねと言われます。確かにここで展示されるものは、それは数え切れないほどの写真からセレクションし、ディレクションされたものですから、そう思われるのも不思議ではありませんし、むしろ当然の反応だと思います。

今日は天気が良いからちょっと写真でも撮ってみようかといって生まれたものではないということですね。(偶然そうなったということはありますが)そこに価値があるわけです。勘違いして欲しくないのですが、カメラに対しての知識や造詣が深く、卓越した技術を持っていれば、そんな写真が撮れるかと言えばそうではありません。確かにそれだけでも優れた写真は撮れるのでしょうが、その時の感情や思い、考えが見る側に素直に伝わるものではありません。

大事なのは、作品として「見せる」、「見られる」ことへの意識はもちろん、もっと重要な常日頃「見る」ことに自分の意識を働かせているかどうかではないかと思います。これは、言いかえると、漫然とシャッターを押すのではなく、どこを見ているかということです。(例えそれが対象物でなくても良いのです)ある人はそれを「視点」と言ったり、「視線」と言ったりするのですが、そのオリジナリティーや特異性だけが注目される場合もあります。

でも、僕が今見たいと思うのは、もっと内省的で、しかもその対象がどこにでもあるような身近な人やものであって、そこからより普遍的なものへ繋がっているようなものです。具体的ではないので、多分言っていることがよく分からないだろうと思います。

あるものや出来事に、100の美しさや捉えられ方があるとしても、誰しもが感じられる本当のものはひとつしかない、そんな類のものです。

大げさに言えば、「真理」のようなことでしょうか。

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