2010年12月31日金曜日

2010年最後の日

2010年最後の日になりました。今年最後だからといって、特に変わったことをするでもなく、こうしていつものようにブログを書いています。ここ数日は今年を振り返るような番組がいくつもあり、この一年に起こったことなのに、何か遠い昔の事のように感じます。


昨日もブログを書いた後、午前中早めに部屋へ戻り、掃除やら洗濯をしながら昼食を済ませ、少しだけソファーに横になっていました。polkaも僕のお腹に乗り、伸びをするように身をあずけていたのですが、そんな重さを感じつついつしか寝てしまっていました。眼を覚ますと同時に、付けたままのテレビでは夜の番組の再放送をしていたようで、一瞬、今がいつなのか戸惑ってしまいました。polkaは既に僕から離れ、一人掛けソファーで身を丸くして、ウトウトとしています。

ゆっくりと起き上がり、コーヒーでの飲もうかと台所へ向かったのですが、何故かギャラリーが気になりました。動き回った僕のせいで眼を覚ましてしまい、そんな僕をじっと見つめるpolkaを残し、降りていくこととしました。エレベーターを降りると、ギャラリーのドアを覗いている女性がいます。すぐに分かりました。以前、イベント時に手伝ってもらった女性です。今日が休みだとは知らずに、仙台に用事があったので、ギャラリーに来てくれたようです。

その女性は仙台から少し離れたところに住んでいるので、頻繁には来れません。おそらく、4カ月ぶりになると思います。それほど、変わらない様子に安心しながら、暖房も付いてないまだ寒いギャラリーへと入ってもらいました。それから、1時間ほどあれこれと話をしてから、帰ったのですが、僕がもし降りて来なければ、そのまま彼女は帰ったのだろうなと考えました。そう感じたわけでも、知っていたからでもなかったのに、全くの偶然にこんなことがあるのだととても不思議に思いました。

これも縁なんでしょうね。いろいろな縁が人を繋ぐとは経験的に分かっていても、その場に居合わせないと現実のものとして感じないものです。こんな小さなギャラリーで、ただ写真やカメラに興味があったり、アートに関心があるというだけで、様々な人と出会いがあり、いつもこれきり(次には会えないかもしれない)だと思うようにしながら接している毎日ですが、こんな日もあるのですね。

明日から2011年、個人的にも世の中的にもどうなるかはまるで分かりません。このギャラリーもいつまで続くか分かりません。でも、いつの世にも変わらないものはあるわけで、人それぞれ、それらをひとつのよりどころにして生きているのだと思います。

僕にとってのそれは何かと問われても、具体的に説明するのは難しいのですが、ひとつ言えることは、多くのものや人のためではなく、身近にいる人であったり、手の届く範囲のものにもっともっと眼を向けていくことかなと思います。そこに、新しい価値観なりを発見していければと。

それでは、皆さん良いお年を迎えて下さい。

2010年12月30日木曜日

Seeing is believing

今日から5日間の休みになります。といっても出かけるわけでもなく、特に変わったこともする予定も無く、のんびりと過ごすようになると思います。ですので、もし正月のテレビに飽きたとか散歩がてらにギャラリーの近くへ来た方は、連絡してもらえてばいつでも開けられます。


通常の営業は、年明け4日(火)からになります。江口敬写真展は会期終了まで休み無しで行う予定です。最近ちょっと腰の具合が怪しいので、この休みに手なずけて、備えようとは思っていますが、結局はなんだかんだと動いているような気もします。年末年始休みなしで仕事をしている方もいらっしゃいますし、そうそうぼんやりもしていられないですから。

さて、現在参加募集している企画が3つあります。3月から6月にかけてのものになるのですが、これが予想通りというか、まだまだ集まらない状況です。まだ時期的に間があるので、検討されている方や悩まれている方がいらっしゃるのでしょうね。Sha-gakuにしても傾向は同じで、ぼちぼちと参加者が集まる感じですから、致し方ないかなとは思っています。

今回の企画は対象がそれぞれ違っています。「Photo Showcase」は、ポートフォリオを中心として販売に興味がある方、「NorthEast Photographers」は文字通り、東北各地で撮影、作品制作をしている人々でその交流やつながりを意識しています。そして「Love and Joy(仮)」は、Club Blossomを主体として、初めて展示発表を行いたいと考えているような方々に向けられています。

今もし検討され、悩んでいる方は、江口敬写真展を一度見て下さい。全面的に僕がプロデュースしていますので、概要はつかめるのではないかと思います。また、ワークショップの企画である「写真作品~展示発表までのプロセス」やフォトコンサルを受けてもらえると、さらに展示・発表の意味を理解出来ると思います。

門戸は広く開いていて、決して敷居が高いものでもありません。前向きに思う気持ちを持つことはとても大切で、それだけで良いのかもしれません。でも、さらに一歩踏み出し、自分を試し、出すことが、結果的に自分にとっても周りの人たちにとってもプラスになるはずです。

昔からよく言われる「百聞は一見にしかず」。

これを英語で書くと、「Seeing is believing」です。

何か英語で直訳した方が、感じるものがありますね。

2010年12月29日水曜日

今年最後の通常営業日

今日が今年の通常営業最後の日になります。すでに仕事納めをした人は多くいるのではないでしょうか。ここ10年ぐらいは、年末31日まで仕事をしていたこともあり、あまり年末年始だからという気分も無く過ごしてきました。年に数回ある連続した休みのひとつぐらいの感覚ですね。
とりあえずは、皆さん、1年間ご苦労様でした。


ギャラリーの方は、知名度もまだまだ、来られるお客さんも数多くというわけではありませんが、わざわざ足を運んで下さった方々には感謝しています。ホント、有難うございました。

今年は公募写真展”Sha-gaku”を含め、地元であったり、地域で活躍されている方々にもスポットを当ててきました。プロの作家ではない写真展がどれほどのものかと仰る方はいらっしゃると思いますが、これもひとつの地域にある商業ギャラリーとしてのスタイルであると考えています。僕自身、著名でも有名でなく普通の人間です。少しだけ、写真を知り、ギャラリーを構え、多くの人に写真の良さやアート性を知ってもらいたいだけなのだろうと思います。

そして、それは一部の名の知られた作家にだけ出来ることではなく、どなたにも出来る可能性があることを現実のものとして感じて欲しいのです。その為の労であれば惜しみなく使いたいと思っています。もっとも、それぐらいしか出来ませんから。

才能は天賦のもの、生まれながらにして持っている特別の人だけが、その道で活躍出来るものだと思われています。しかしながら、天賦の才能はそれを私利のためにのみ使用していると、次第に色あせ、枯渇していくものです。世に問い、他の人に提供し、そこから生まれる感動や共感があってこそ、ますます備わってくるものだと思います。

世の中には、そんな種類の人々がまだまだ沢山いると、僕は信じています。だからこそ、自分自身を表現し、発表して欲しいのだと願っているのです。その形は、時代と共に移り変わり、それが現実ではなく、ネットのような仮想的な空間で発揮されても構いません。実際、そうしている方も急激に増えていますから。

それでも、目の前に現実のものとして示されたそれらの力に勝るものは無いと言えます。それは、毎日食事を口にし、眠るといった本能と同じ根っこから発生するものだからです。生きていくことは、この世に生を受けた時点で決められたことです。しかも、そこには限りがあります。一見して不条理とも思える中で生きていくのですから、自己表現し、そのことで他者に還元していくことは、かけがえのない尊いことなのだと思えます。

厚い雲の切れ目から差し込む一条の光が徐々に広がりを見せ、明るく大地を輝かせる、そんな人々との出会いを待ち望んでいるのです。

2010年12月28日火曜日

「最初の一音」

今や音楽はどんな場所でもどんな時でも、自分が聞きたいと思わなくても自然に耳に入ってきます。ギャラリーでもBGMとして、展示会ごとに変えながら常時流しています。ウォークマンなるものが世に出て、レコードがCDへと変わり、パソコンの普及から机の上のスピーカーから流れるようになり、さらに携帯電話を始め、小型の携帯プレーヤーにより、いつでも好きな音楽が持ち出せる環境になりました。


かつて、音源としての主流がレコードだった頃、気に入ったアルバムを聴くことは、一種の儀式のようなものだったと思います。紙ジャケットからレコードを取り出し、盤面に手を触れないようにして両側で押さえながら、ターンテーブルへそっと載せる。全ての機器の電源が入っているのを確認し、アンプのボリュームを一旦「0」にしてから、プレーヤーの針を回り始めたレコードへと落とします。

すぐに、ボリュームを適正なポジションへと変え、最初の一音が出るのを待ちます。ここまで来て、ようやく聞くぞとの態勢が整うわけです。今だったら、面倒くさい、CDを入れると自動で再生してくれるし、マウスをクリックすれば自然に流れると疎まれ、敬遠されるのではないかと思います。

そう、このアルバムを聴くと決めることから始まって、一連の動作を繰り返さなければ、それを全うすることは出来なかったわけです。つまり、常に積極的な行為が必要でした。何もこうじゃなきゃ音楽を聞いていることにはならないと昔を懐かしんで言っているのではありません。僕自身もそんな面倒なことをするより、スイッチポンで聞ける方が楽だし、便利になったことを素直に歓迎しています。

それでも、やはり聴くんだぞという気持ちは、レコードで聴く時の方が強かったかもしれません。特にまだ耳にしていない新しいアルバムの、最初の音が出た瞬間に覚える高揚感や安堵感、逆に落胆といった感覚は、今とはちょっと違っていたように思います。最初の一音で身体に電流が走るとかそこでの世界観を感じたりすることは、実際にありますし、それもアナログ的な行為と聴くという気持ちがあるから余計そう感じるのかもしれません。

展示会を観に来ることは、お客さんの積極的な行為そのものです。興味があるから来られるわけで、ギャラリーへの道すがら、おのずと期待感は高まっていると思われます。

そうすると、見せる側の僕としては、どうしてもドアを開け入った瞬間、眼にするものが一番の肝のように感じます。レコードに針を落とし、ちょっとの間で流れる一音と一緒のことです。

そこで何かを感じ、さらに作品へと眼が行くようになれば良いよねと思いながら、展示を考えているわけです。これはとても難しいことです。多分永遠にこれだと言えるものは出来ないと思っているのですが、現在出来るであろうことは、今回の写真展にはあります。

そして、実は2重の仕掛けにもなっています。

今年は今日を含め、残り2日です。

その眼で、「最初の一音」を確かめてみて下さい。

2010年12月27日月曜日

時を忘れ、話は尽きず。

トークイベントも無事終了しました。来て下さった方は7名と予想通り少人数になりましたが、この年の瀬の忙しい中参加していただき感謝しています。こちらの方はなかなか感想や意見といったものを口にしないのですが、活発な意見や質問が飛び交い、非常に中身のある話が出来たんじゃないかと思っています。その後の作品レビューでも、作品をお持ちの方はひとりでしたが、ほぼ全員が一緒に見て、聴いてくれていました。


アマチュアで写真を撮る方は、実は同じように写真を撮られている人たちの作品にとても興味があるのですが、作品も含め本人の制作に到る話なんかを聴く機会はあまりありません。だから、どんな思いをもって、撮影をし、作品化しているのか聴いてみたいのです。実際の話、第三者の見解やリベラルな眼で見た感想は、サークル等での仲間内では聴けませんからね。

昨日は本音のところや実際のプロセスとかをお話出き、僕にとっても、とても楽しく、有意義な時間だったように思います。そういった意味ではこの会期は、もっと多くの方に見て欲しいとの思いをさらに強く感じました。所詮はアマチュアのレベルだろうとか、使っているカメラはデジタルだしねえと言われる方は少なからずいます。それは、とても哀しいことです。

物事の本質は、その方法・手段に寄らないはずです。これは誰もが経験し、感じていることだと思います。作品の評価は、究極のところ、作品自体にあるのではなく、それを生み出す、作り上げた人に対して向けられるもので、しかもそれは同じフィールド、時間といったものに依存しません。時が経ち、違った場所で見た時に感じたことが、以前と違ったとしても間違ったことではないわけです。それもまた作り上げた人やそれを見る人がそれぞれに感情を持ち、多面であり、見る側は作品以上にそれを生み出した人に対して無意識のうちに眼をむけているからです。

さて、今日は午前中に少しだけ外出をします。それから、先日予告したように、展示作品全点をサイトで公開します。これは、見に来れない方々にお見せしたいとの気持ちもありますが、実際の作品を会場で感じて欲しいことが一番です。その予備情報ですね。

そんなわけもあり、年明けの開廊日を変更しようかなと思っています。まだ江口さんには話していませんが、2011年の始まりは4日(火)にします。営業時間は18:00までになりますが、お休みで家にいるのに飽きたとか、この日なら行けるかもと思ったなら、是非お越し下さい。

2010年12月26日日曜日

最近お気に入りのもの

最近お気に入りのものです。
知っている方は多いと思います。映画「空気人形」のOST(オリジナル・サウンドトラック)版です。実は音楽として聴いているのではなく(CDは持っていない)、映画を見ながら聴いています。映画用のサウンドトラックですから、これが本来の聴き方なのかなとは思いますが、映画が見たくてDVDを取り出しているのか、楽曲を聴きたくて映画を見ているのかよく分からない程です。


今更「空気人形」を語っても遅い感は否めませんが、この映画は僕の中では相当な高レベルのもので、是枝裕和監督の尋常ではない才能に改めて気づかされました。そしてここで使用されている楽曲を提供しているのが、world's end girlfriend(ワールズ・エンド・ガールフレンド)です。これがまた映像とドンピシャなんです。単純に演出効果の為の音楽もありますけど、そういうのって結局残らないもので、何か音楽が添え物のように感じられてあまり好きではありません。

映画は部屋でひとりで見ることが多くなってしまいましたが、「空気人形」は映画館の大型スクリーンで見るよりは、自宅でレンタルで見る方が良いように感じます。語っている内容やモチーフがそんな感じだからという点もありますが、あまり多くの人とましてや近しい友人や恋人なんかと一緒に席を並べて見るものではないような気がします。決して、大衆的ではないとの意味ではなく、周りを気にせずにひとりその世界に入り込めた方が、より理解や考えが及ぶような類の映画なのです。

予告やレビューで語られるようなファンタジーではありません。映し出される映像はとてもはかなくそして美しく、人工物で形作られた東京の街がこれほどにきれいなものなのかと再認識するほどです。内容は哀しいほど孤独感に満ち溢れ、都度、心が痛む思いを受けますので、万人にはお勧め出来るものではありません。音楽もそうかもしれません。

でも、この音は今の僕には一番合っていると思えるのです。


2010年12月25日土曜日

雪の日


雪が降っています。テレビでも全国各地の雪の様子が流れていましたが、ここ仙台市街でもやや弱くなりましたが、雪が降っています。市街地ですので、一面の雪景色とはなりませんし、したがってそれほどきれいなものでもありません。足元が滑りやすく、ちょっと出歩くのに困ってしまうなと思うぐらいです。


今日と明日はトークイベントの予定です。どうやら明日もちらほらと雪が降るようですし、この雪で来られないんじゃないかとちょっと不安です。今まで行ってきたイベントの日も、晴れ渡った記憶がないので、この程度ではめげはしないのですが・・・。

それにしても、僕はこれまで雨男とか晴男とか言われたことも無く、特にお天気で困った記憶もあまりありません。今年は初雪の時期も遅れ、雪なんか降らないんじゃないのと思っていた矢先ですから、何か、今日は雨男では無く、雪男になったような気分ではあります。

江口さんとは、お客さんがおひとりでもしましょうねとは話していますので、のんびりと始めたいと考えています。逆に濃い話が出来るかもしれませんし。

でも、ひとつだけ心配していることがあります。江口さんがちゃんと来られるかです。道路の状況がどうなっているかが気がかりですね。取りあえず主役に無事到着してもらえなければ始まるものも始まりません。

予定されている方も足元に気を付けていらして下さい。

暖めてお持ちしています。

2010年12月24日金曜日

クリスマスに楽しいひとときを

クリスマスイブですね。最近の調査では、クリスマスに関心の無い人が、30%ほどいるようで、もう特別な日との意識はあまり無いようです。仕事が忙しいとか長く続いている不況による閉塞感がそうさせているのかもしれませんが、元々はキリストの誕生日ですし、イベントとしての意味合いの方が強くなっていますので、そんなものなんだろうなとは思います。


さて、明日のクリスマスと日曜日、2日に渡ってギャラリートークを行います。時間は両日とも14:00からを予定しています。特に時間は気にせずに行おうと考えていますし、来られる方も気軽に来てもらえれば良いと思っています。著名な人たちの講演会等を聴きに行くことは、僕も以前はよくあったのですが、会場の設定や規模の関係で、いつもちょっと離れたところから眺める感じが多かったように思います。

今回は少人数であることを意識していますので、ざっくばらんに近い距離で話を進めたいとの思いがあります。もちろん主役は江口さんであるのですが、参加される方々にもその一端は担っていただきたいので、その辺りを頭に入れながら進めようと思っています。

世に知られる著名な方の話には、やはりそうなるだけの理由が隠されています。そこに到るまでの経験や知識そして志や思いといったものが、自然の内に現れ、想像もしていなかった人間性のような部分まで見えてくることがあります。それは、著名な人であればある程、表面上のキャラクターなりが作られたものになりがちですから、顕著に現れるようです。そのギャップを知りたくて、見に行く場合もあります。

失礼な話ですが、江口さんはプロの写真家ではありませんし、いわゆる良識ある一般の方です。それでも写真により作りだす世界は独自のものを持っています。以前書いた誰しもが持つ多面性と関係があります。話の中で、そんな面を直接感じてもらえたら嬉しいと思っています。

クリスマスに関心がある人も無い人も、写真に興味がある方は是非いらして下さい。

クリスマス・プレゼントとまではいかないとは思いますが、楽しいひとときを過ごせますよ。



江口敬写真展”Beyond”ギャラリートーク
12月25日(土)、26日(日)
両日とも14:00~15:00頃まで(時間の許す限り)
予約不要、入場無料

場所は、いつも暖かくしているカロス・ギャラリーです。

2010年12月23日木曜日

季節外れの嵐の日

嵐のような昨日とはうって変わり、日差しのある明るい朝です。台風一過の後に空が晴れ渡るような感じです。まさに昨日は季節外れの台風のような一日でした。ほんの少し外に出ただけで、傘は飛ばされるわ、足元はぐしゃぐしゃになるわで、こんな日は大人しくしているしかないと感じたんじゃないですかね。


そんなわけで、昨日は予想通り、お客さんの足も遠ざかり、僕はひとりのんびりしていました。さて、今日は天皇誕生日で祝日です。一息入れるように、週の間に休みがあると、昔から得をした気分になるのは僕だけでしょうか。特に今は師走で、何やら忙しさや慌ただしさだけを感じる頃ですので、余計そう思ってしまいます。まぁ、今は祝日、日曜関係なく仕事をしている人もいますので、一概にそう思う人ばかりではありませんね。

何にしても、ある目標がある場合、その中間点はとても意味あるものになります。このまま進んでいけば良いか、または違ったやり方をしなければいけないと考え直すこととなるか、最悪撤退もといろいろなことを考える機会であるわけです。それと同時にやっと中間点だと思うまたはもうここまで来たかと、ホッと感じる時期でもあります。

僕の場合は、まだまだ中間点すら程遠いと思っています。思い描く目標や目的に対して、どれほど進んでいるかの実感があまりありません。時に、ここでこうしたことをやっている意味や意義が果たしてあるのだろうかとさえ思えることがあります。そう、夢物語の中で、幻想を見ているだけなのかもしれないと。

それでも、現実は毎日訪れて来るわけで、そのたびに決断や対応をしています。と言っても、そのひとつひとつはそれほど大それたことではなく、普通に生活している人と変わりないものではあります。

以前、ミニー・リパートンの言葉で、「コップ半分の水」の話を書きましたが、残り半分しかないと考えるか、まだ残り半分もあると考えるかで、その後の行動や判断は変わってきます。また、そうした結果、完全に満たされてしまったその時どういう思いを抱くかで、これまでの評価が表れてくるのだと思います。

コップ半分にも満たないと感じている状況でどうすれば良いか、そこが問題ではありますが、大河も雨水の一滴からとの言葉もあるように、少しずつでも積み重ねていくしかないのだよと、自分に言い聞かせているのかもしれません。そこから何か見えてくるものがあるでしょうし、昨日のような風が吹くかもしれませんからね。

少なくとも、吹き飛ばされるだけにはならないように、とは思っていますが・・・。

2010年12月22日水曜日

雨の一日 今日はのんびり行こう。

今朝は強い雨が降っています。どうやら一日中こんなお天気らしいです。となると、お客さんも来られないだろうから、奥の部屋でひとりサイト更新準備やぼんやりと考え事をしていようか(決して後ろ向きにではなく)と思っているところです。


そんなわけで、サイト更新予告を。

現在開催されている江口敬写真展”Beyond”は、年末年始の休みを挟んで、約4週間あるのですが、師走や年始の忙しさを考えると、見る機会という点では日数は少ないように感じています。皆さんは限られた休みの中で生活をされているわけですし、見に行きたくても状況が許さない場合は現実としてあります。

そこで、来週12月27日に、展示作品全点をサイト上で公開します。もちろんサイトからの作品購入も可能です。作品公開に当たり、今回はLight Boxのスタイルを使用しようと考えています。ほぼ制作は終わっているのですが、少しだけかっこ良い感じになると思います。ということで、来るのが難しい方は、先ずはサイトから作品を楽しんで下さい。もし、そこに惹かれる作品があれば、是非ギャラリーへお越し下さい。展示ではさらに違った印象で見られることと思います。

今日は宣伝になってしまっていますが、多くの人に見に来ていただき、もし気に入ってくれたなら、作品を購入してもらいたいと言うのが、僕の正直な気持ちです。いや、先ずは展示された作品たちを見て、感じて欲しいのが一番ですね。その上で気に入れば、という話です。

今回の写真展から、”Angel”というものも企画しています。これは、作品やフォトブックを単純にパックで安くお売りしますよということではありません。より、写真作品やアートを身近なものとして触れて欲しいとの思いがあります。作品購入を考えている方は、是非ともこちらを利用して下さい。


日常の煩わしさや忙しさを忘れたいと思った時は、いつでもお越し下さい。


そんな空間がここにはありますから。

2010年12月21日火曜日

晴れた冬の朝

気持ちの良い青空が拡がっています。冬の空は雲も低く澄み切った感がして、しかもキリッとした寒さもあるので、眺めているだけで身が引き締まる思いがします。いつもいつもそんな思いをしているのかと言えば決してそうではなく、そう思うには自分の現在の状況や考えていることが影響を与えているように思います。


そうなるのには訳があると言われるように、結果に対する原因は必ずあるものです。何故か分からないけどそうなったということもありますが、多くの場合はその原因は自分自身の中にあると、僕は考えています。そのために、周りの状況がそうさせなかったとか、仕方なかったねとか慰めの言葉を掛けられたとしても、自分自身は納得していないことの方が多いものです。

また、原因となるものは、自分では気づかなかったものであったり、経験が足りない部分であったり、知識・情報として手にいれられなかったであるとか、いろいろとあるのですが、振り返ってみると、プロセスに問題や異常があることが多いですね。その為、始めからこのやり方ではうまい結果が得られないと言われることがよくあります。

仕事においては、そういう点は個人ではなく組織やグループとして問題解決や結果を導き出すやり方を探っていくわけで、ただそうしたいからとか何となくそっちの方がとかで進めることはありません。僕の場合、そうしたもろもろをほとんどは自分で判断し、決断しちゃっていますので、自分でもいけないなと感じながらも、ついついやってしまうことがままあります。

まぁ、そんな時はある程度結果も予想しているわけで、やっぱりなと妙に納得してしまったりします。そうして、学習、経験していくわけですが、これは失敗だけに言えることではありません。多くはありませんが、偶然が重なり、良い方向へ行くこともあります。

現実として難しいことではあるのですが、何かを判断する時に、今もっとも大事にしていることは、自分の気持ちですね。もちろんそこに到るまでは、考えに考えているつもりではいます。そしてそれがあまりに利己的であってはいけないとも思っています。

経験的に、今しか出来ないと思うことは、本当に今しか出来ないのですよ。数年後同じ気持ちでその時考えていたことを行ったつもりでも、それはやはり違ったものでしかありません。無理や無謀を他人に強要するつもりはありませんが、時には先ずやってみることが必要なことじゃないのと思ったりします。

それは、信念ほど強いものではないにしても、もし何か目標や夢のようなものがおぼろげにでも見えているのなら、しないわけにはいかないでしょうと言うことです。

澄んだ冬の空からそそがれる陽の光は、そんな僕の心を見透かしているようにも感じられます。身が引き締まる思いは寒さだけから来ているものではないのです。

2010年12月20日月曜日

クリスマスの日 ギャラリートークに来てみませんか

来週末はクリスマスですね。昨日と同じ滑り出しですが、江口敬写真展”Beyond”ギャラリートークを行う予定でもいます。日程は以下の通りです。


12月25日(土)、26日(日)

14:00-15:00頃まで(時間の許す限り) 場所:Kalos Gallery

トーク終了後、ご希望の方のみ作品レビューを行います。

作品レビューに参加される方はご予約が必要ですが、ギャラリートークには予約は要りません。入場無料ですし、気軽に来て欲しいと思っています。

トークもかしこまったものではなく、ざっくばらんに疑問や質問にお答えする形で行います。どうもこちらの方々は皆さん遠慮がちのように思えます。おそらくは少人数になるでしょうし、そんなこと聞いたら恥ずかしいとかいいかな、なんて躊躇する必要もありません。むしろ、質問が無いと何を話そうかと悩んでしまいますので、どんどんツッコンで下さい。

まだ開幕2日ですが、見えられたお客さんには非常に評判が良いので安心しています。しばらくモノクロの展示が続いたので、カラー作品が展示されているギャラリーに新鮮な感覚を受けるのかもしれませんね。フォトブックも同様に、評価して下さっているようで、買われて帰られる方が多いです。ホント有り難いことです。

今回の展示には様々な思いとたくらみと仕掛けが仕込まれています。僕らが狙ったように感じて、楽しんでもらえるかは分かりませんが、この場にいなければ味わえないものです。僕もこの一年仙台で様々な展示会を見てきましたが、どんな人でも何かを感じられる、分かりやすさを狙ったものという点では、かなりレベルは高い方だとの自信があります。見ないと損をしますよぐらいの意気込みでいます。

会場内では、今回の展示についてのネタばれのような「江口敬写真展 "Beyond" 展示までのあらまし」という小文をお配りしています。見終えてから読まれた方が良いのですが、いつでもお声をかけて下さい。これを読むと2度楽しめること必至です。

月曜日でも年末年始休みでも連絡をもらえれば、時間が許す限り開けます。

是非とも、来て見て体験して下さい。

2010年12月19日日曜日

サンタクロースを信じていた頃

来週末はクリスマスですね。もう一カ月以上前から商店街にはそんな雰囲気の飾り付けがされていましたから、いやがうえにもそんな気分にさせられているのかもしれません。「2010SENDAI光のページェント」も、配電盤火災を受けて一時休止していましたが、17日から試験点灯を始め、20日には全面復旧を目指していると言います。


本当に幼い頃、僕も周りの子どもたち同様にサンタクロースがいるのだと信じていたと思います。思いますと書いたのは、あまり記憶として残っていないからです。年齢と共に記憶は曖昧になっていきます。記憶の領域に限りがあるのかとは思いますけど、全てを覚えてしまっているのも困りものですから、ちょうど良くなっているのだと思います。

学術的に言っても、子供には夢やファンタジーの世界を信じることは当然のことのようです。そうして、目の前にあるイルミネーションをきれいだと感じ、素直に喜びが体調の変化として現れたりします。心拍数が上がったり、まぁ、自然にドキドキとした感じになるわけです。

昨日から始まった江口敬写真展で、来られたお客さんの多くは写し撮られた対象が何であるのかに非常に興味を示しているようです。つまり、何物か分からないものを現実の経験や知識の中で得られたものと一瞬のうちに頭の中で、比較・照会を行っているのです。これはアートを理解しないこととは別の問題で、大人としての自然な行為なのだろうと思います。おそらく、子供はそうは考えないだろうし、理解不能なものについては、始めから興味を示さないかもしれません。

わざわざ足を運び、見に行こうとするのですから、自分自身も納得したり、そこから何かを得たいと考えていることも理由には上げられます。もちろん、僕としては見に来て下さるだけで有り難く、好きなように楽しんでもらえればといつも思っています。

それでも時には何の先入観無しに、自分の感性のまま、作品に触れてみてはいかがでしょうか。決して、そこで感じた事は、恥ずかしいことでも、間違っていることでもありませんから。

そう、かつてはサンタクロースを信じていた子供だった頃の自分を思い出しながら。

2010年12月18日土曜日

ようやく今日という日が来ました。


ようやく今日という日が来ました。いよいよ江口敬写真展”Beyond”の開幕です。準備はすっかり整って、これをアップしたらお掃除をして開廊時間を待つだけです。今回の写真展ではいくつかのアイテムを販売します。そのひとつがこのフォトブックです。

A5サイズでちょっと小振りではありますけど、全36ページとボリュームはあります。あまり使いたくはない言葉ですが、分相応のなりをしていると思っています。書店で良く見かける装丁が立派なきれいな写真だけを集めた写真集とは違います。写真展を見に来られて、その後フォトブックのページをめくると、その時の感情や感覚が蘇ってくるようなコンセプトで作っています。


中身は少しですが、こんな感じです。見開きも8枚ほどありますから、大きさも楽しめると思います。



江口さんの作品はその色彩の表現に特徴をもっていますので、これをブックとして印刷で再現するのは大変なことです。用紙も作品が映えるようにと、限りある予算の中やりくりをして下さって、かなり良いものを使用しています。ほんと、青森の朝日印刷さんには感謝です。

来られたならば、手にとって見ていただきたい、願わくば購入して欲しいと思っています。僕の撮影技術は稚拙なので、あまりうまく撮れていないのですが、実物はもっと良いですからね。

是非、足を運んで下さい。このブログを読んでくださっている方は、周りの方にもお話下さい。

お待ちしています。




2010年12月17日金曜日

誰もが始めからイチローにはなれないのです。

江口敬写真展が明日開幕します。8月から検討を重ねてきたもろもろが、全て明日披露されることになります。準備は比較的順調でした。それは何よりコミュニケーションがうまくいったからだと思っています。時代が変わろうが、方法手段が変わろうが、結局は人が人として行うことですから、そこに信頼であるとか相手を思う気持ちが無ければ、物事は前に進みません。ごくごく当たり前のことを当たり前にしたのだと思います。


そんな準備期間中に、サイトでは2つの企画を告知し、現在参加を募集しています。また、今日、さらに新たな企画を告知する予定です。既に告知しているものは、「Photo Showcase」、「NorthEast Photographers "relation"」、そして、今日告知するのが「Love and Joy(仮)」になります。

いずれも、それぞれに特徴を持った参加型の企画です。おそらく、こんなに参加型の企画を立ち上げても集まるの?と言われると思っています。それでも、あえてそうしているのは、これからのギャラリーの方向性を探るという意味合いがあります。これまで行ってきた企画展のほとんどは、既に一線で活躍をされている写真家のものが多く、言わばアート写真の紹介の役割であったと考えています。その間に、「Sha-gaku」、「Story」という、地域で活躍されている、これからの世代もしくはアマチュアとして真摯に写真作品と対峙されている方々にスポットを当てました。この中から生まれてきたのが、今回の江口敬写真展でもあるわけです。

カメラに興味を持ち、実際写真を撮っている方は沢山います。ギャラリーに来られるお客さんの多くはそのような方々です。そして、その中には、展示されている作品に感心し、いつかは私も展示発表をしてみたいと思われたり、或いは、自分の撮っている写真と比較し、まだ僕には敷居が高いなと感じたりします。

でもね、誰もが始めからイチローにはなれないのです。スタートは皆一緒です。何が違いを生むのかと言えば、確かに才能もあるのでしょうが、姿勢とか自分を信じる気持であったり、そこから一歩踏み出す勇気のようなものなんだと思います。それには年齢といった壁はありませんし、いつからでも始められるものなのです。

と言っても、実際はねと思われていることでしょうね。そういう方は、先ずは江口敬写真展に足を運んで下さい。また、この後予定している「Sha-gaku vol.2」で確認して下さい。きっと世界は拡がります。そして、目の前に広がる世界に一歩踏み出してみて下さい。

僕はいつでも、そういう方々との出会いを求めて止まないのです。

Photo Showcase」の詳細はこちら

NorthEast Photographers "relation"」の詳細はこちら

2010年12月16日木曜日

雪が舞い降りた日

昨日、ようやくと言うかやっと仙台の街に雪が降りました。朝から気温も上がらずに、時折小雨が降っていたのですが、午後過ぎにその雨が雪に変わりました。積もる程ではなく舞いながら肌に触れるとすぐ溶けてしまいそうな雪です。不思議なもので、気温は変わらないはずなのに、舞う雪の中を歩いていると寒さが弱まった気がします。


僕は学生だった3年間を、山形の米沢で過ごしました。仙台と比べると、今でも雪が多い町なんだと思います。その時住んでいた2階建てのアパートは、全員が学生で、かと言って寮のような交流も無く、ひとりひとりが淡々と暮らしていました。4畳半一間、トイレも台所も風呂も共同という今では見つけるのが難しいと言って良い、そんな類のものでした。そのアパートは、幹線道路から折れ、車がやっと2台通れる程度の小さな道の一番奥にありました。その先は一面の田んぼです。遠くには低い山並みが見えるだけです。ですから、稲穂が実る頃に、窓を開けると、よくある山間の田舎の風景そのものが目の前に広がっていました。

1年目の冬、一晩に1mほど雪が降ったことがありました。目覚めた後ウトウトとしながら、朝日が差し込む窓を開け放つと、ちょうど窓枠の下側ぎりぎりまで積っています。これ以上積もると、雪が部屋へなだれ込んでくるような感じでした。

そうして、それと同じ高さで、目の前の田んぼが雪で覆われていました。僕はしばらくの間、何も言えずにじっとその景色を見つめていました。寒さも忘れ、茫然としていたように思います。

朝日を受けた雪面はきらきらと乱反射し、遠くの山並みの頂きも雪化粧され、空は雲ひとつない青一色です。足跡ひとつない雪面は、自然の織りなす微妙な曲面を帯び、人工的には作りえない美しさがありました。まだ何者ではなかった自分(今もそうですが)と何物にも侵されていない白一色の世界をどこかで重ね見ていたのかもしれません。若さゆえの感傷です。

そんな自分も年を重ね、そんな雪面にいろいろな足跡を残しながら生きてきたように思います。これも人工的には出来ないものなのでしょうが、出来れば少しでも何かが感じられるような形になっていたら良いなと思います。

これから先も・・・。

2010年12月15日水曜日

最近のお気に入り

最近お気に入りの映像と楽曲がこれです。
NHKみんなのうた12月、1月で放映されているものです。


You-Tubeには、その一部がPVとしてあります。
http://www.youtube.com/watch?v=-Jov6c3r310

タイトルは「グランパツイスト」作曲、作詞は宇崎竜童・阿木燿子夫妻、歌っているのが今回が歌初挑戦でもある名優笹野高史さんと宮武祭ちゃんという11歳の女の子という豪華布陣です。そして、何より良いのが、映像として流れてくる人形たちの表情やしぐさがその情景や風景とマッチしていて、とてもほんわかとした気分にさせてくれます。

人形を制作しているのは、創作人形作家の高橋まゆみさんです。高橋まゆみさんは僕よりもほんの少しだけ年上で、現在は生まれ故郷の長野に住まれ、制作・発表活動をされているようです。同世代と言うこともあるのか、出てくる人形やその世界には親近感を感じます。古き良き時代、郷愁だけではなく、現在にも繋がる何かを感じます。

同じ人形作家では、与勇輝(あたえ ゆうき)さんのものも好きです。作品を見ていると、語りかけてくるような表情に、自分を見透かされたようで、一瞬たじろいてしまうこともあります。これも、描かれている時代に生きてきたという実体験だけから受けるものではありません。

そこには、現代まで綿々と人々の心にいきづいている根っこのようなものがあるからです。

みんなのうたの対象は子供なのでしょうが、その名の通り、みんなに聞いてもらえるように真面目に制作されています。子供だからなんてことは、まるでありません。子供に対してだからこそ、真剣に作らなければいけないのですね。

それほど遠くない未来は、彼らが作るのですから。

2010年12月14日火曜日

「らしさ」

寒波来襲です。今夜あたりから市街地でも雪が降るようなことを天気予報士の男性がテレビから盛んに話しかけてきます。もし、明日の朝、道路がうっすらと雪化粧されていたら、いよいよもって冬の訪れを感じられるかもしれません。


多くの人は、大抵自分の経験の中で事の始まりや訪れを感じるものです。それは「らしさ」から来る感覚です。論理的に言うと、仙台では冬に雪が降るとなりますが、雪が降ってきたから季節はもう冬だよねと感じるようなことです。結果や行動があって、初めてそれ「らしさ」を感じるわけです。

人に対しても、あの人「らしい」よねとか「らしく」ないなといった言い方をします。こと結果を求められる仕事に関しては、そういった評価をされる場合が多いように感じます。これは多くが予定調和を好むことの現れじゃないかと思うのですが、経験知という一種縛りのようなものを自分自身にすることで、思い通りを描き、そうなったことが安心へと繋がるからなのです。

だから、これまでに経験の無いことや自分「らしく」ないことをしようとすると、大抵は立ち止まります。また、人はどうしても他人や社会と関わりを持ちながら生きていますから、自分以外の人に対しての影響やまたそうすることによる自分への対応の変化なんかも同時に考えますから、したいと思う自分自身との間に葛藤が生まれるわけです。

本来「らしさ」というものは、他人からそう決められるものではなく、自然に現れるものであるはずです。人間や動物の赤ん坊が、赤ちゃん「らしく」とか子供「らしく」とかを意識し、そう思われようとしているのかと言えば、そうでないわけですから。

一方、人はひとりで色々な面を持っています。これは多重人格とは違います。本人が気づいていようないまいが、多面性の生き物であるということです。良い面、嫌な面、楽しい面、哀しい面、多面体のサイコロのようなものです。心持ちひとつでコロコロと変化してしまいます。

そう考えると、自分「らしさ」を出すことって、案外と難しいものなのかなと思ってしまいます。こう見られたくないとかこう見て欲しいとか頭で考えている内は、「らしさ」は見えてこないのかもしれません。

表現も然りかな・・・。

2010年12月13日月曜日

いよいよ今週土曜から始まります。

さてと、いよいよ今週土曜から、江口敬写真展が始まります。額待ちだった1作品を本日展示すれば、展示作業は完了です。いつでも、皆さんにお見せすることが出来ます。今回の展示は、作品制作時から江口さんと一緒に検討したもので、彼の描き出す世界が一層明確になるような仕掛けを盛り込んでいるつもりです。手前味噌ながら、自信作と言って良いと思っています。


彼にとっての初個展でもありますから、僕自身彼の前では平静を装いながら、正直かなり力が入っています。但し、突拍子もない奇抜な演出にはなっていません。ごく自然の内にその世界に入り、どなたでも何かしらを感じてもらえるのではないかと考えています。

以前も書きましたが、Sha-gakuで出会い、それからわずか6カ月での個展開催です。これだけで、本当に出来るものなのと言われる方がいらっしゃいます。おそらくは、ただ作品を揃えただけの自己満足的な写真展じゃないのと訝しがる人もいるでしょう。

先ずは、ご覧になって下さい。見られた上でなら、そのような意見に対しては真摯に受け止めたいと思っています。展示会ってある意味そういうものですから。

自己を見つめ直しながら、そこから生み出されたものを作品として昇華させ、「見せる」ことを意識し、構成していくには思った以上の力が必要です。でもね、人って自分が出来ると妄想にも似た確信を持つと、大抵のものは出来るのです。そして、実はそのゾーンに到ってしまえば、既に制作の80%は終了しているとさえ、僕は思っています。

だから、その結果として、身を晒し、評価を受けることは、楽しみではあれ苦痛ではありません。

これは彼の長い人生の中の、たった4週間の出来事です。

見逃されると後悔する、そんな写真展になっていると思っています。

今週末からは是非こちらへ足をお運び下さい。


あっ、もし待っていられないという方は、お電話を下さい。


重い扉をあけますから。

2010年12月12日日曜日

懐かしい思い


昨日北京で行われたフィギュアスケート、グランプリファイナルで優勝したアメリカのアリッサ・シズニー選手がフリー演技で使用した曲です。1982年にリリースされたジョージ・ウィンストンの「WINTER INTO SPRING」というアルバムです。その中の1曲目を使用していたと思うのですが、とても懐かしい思いがしました。


ジョージ・ウィンストンは当時ニューエイジのジャンルで紹介されていましたが、他のイージーリスニング系のそれとは明らかに違った印象を受けていました。今はあちこちで耳にする「癒し」が言葉となって現れた頃のように記憶しています。

その頃はまだレコードでしたが、針を落とした瞬間、強い衝撃を感じたことを、今でも覚えています。そういうアルバムは何枚かあって、最初の一音でその世界観を感じてしまえる類のものです。

何故かこのアルバムを聴くと、同じアメリカの画家のアンドリュー・ワイエスの絵が浮かびます。言うまでも無くアメリカを代表する写実派の大家ですね。彼のオリジナルを見に行ったのは、確か渋谷の文化村で行われた展覧会でしたが、すでにアルバムを聴いてから10数年経った頃だったように思います。

その時も、描き出される荒涼とした大地や草木に、実際の風や匂い、砂埃といったものが感じられ、同時にこのメロディーが頭の中に流れてきました。とても不思議な感覚だったのを今でも覚えています。共通しているのは、どちらもアメリカの原風景を表現している点でしょうか。

そして、昨日偶然テレビから流れてきたその曲は、既に30年近く経っているのに、僕が当時感じた印象や感覚をハッキリと思い起こさせてくれました。これって、素直にスゴイことですね。

もし僕が紹介する写真や展示会を見て、そんな感じを持ってくれる人がひとりでもいたなら、少しはここにギャラリーを置いた意味があるかなとフッと思わせてくれました。

2010年12月11日土曜日

頭は2番目?

このところ寒さが強まっています。どうやら今日は暖かくなるようですが、このところは寒さで眼が覚めてしまいます。部屋にあるガス・ファンヒーターは、こちらに戻る時に購入したもので、今までは夏冬兼用でエアコンを使用していました。2月に越すと決めた時に部屋にエアコンが付いていなかったこともあり、とりあえず用意したものです。これには、夏場はエアコン無しでも行けるんじゃないのとの考えがあったからです。


今までガスは使用していなかったのですが、エアコンに比べるととても柔らかい感じがします。いかにも暖めていますというところが無く、ごく自然にそして思った以上に早く暖かさを感じられます。

多分、熱効率とかの関係もあるのかと思いますが、詳しくは分かりません。polkaもそのあたりは感じているようで、スイッチを付け部屋が暖かくなると、一人掛けソファーでひとりじっとしていることが多いです。そして、僕がいない時間は、ベッドにもぐり込んでいるのです。

幼い頃、薪のストーブを見た記憶はあります。それが学校の教室であったのか、それとも他の場所だったのかは定かではありませんが、いつも上に載っているやかんから吐き出される白い湯気が、季節が冬であることを感じさせてくれました。何となく、そんな情景は郷愁を伴いますね。

いつしか、教室はスチームで暖められるようになり、湯気で曇る窓ガラスも見られなくなり、付け始めのシューという音が教室中響き渡ることが、冬の到来を告げるもののよう思えるようになりました。

それにしても、そういう幼い頃の印象や記憶は歳と共におぼろげになり、あやふやになるものです。それでも、心や身体で感じたことは、形や情景を覚えていなくても、案外強く残っているものです。

やはり、頭で感じるものや思うことは2番目なのかもしれません。

2010年12月10日金曜日

僕が今見たいもの

現在写真は誰もが撮れる環境にあります。携帯であれ、コンデジであれ、何であれ、カメラと名の付くものであれば、シャッターを押せさえすれば、意思とは関係なく、そこに写真として残されます。しかし、自分が意図し撮影を行い、それがまさに自分が思い描いた世界であったり、望んだように写されているかと言えば、そうではない場合の方が多いものです。


ギャラリーに見えられるお客さんの多くは、よくこういう表情を撮れますねとか、こういう瞬間を捉えられますねと言われます。確かにここで展示されるものは、それは数え切れないほどの写真からセレクションし、ディレクションされたものですから、そう思われるのも不思議ではありませんし、むしろ当然の反応だと思います。

今日は天気が良いからちょっと写真でも撮ってみようかといって生まれたものではないということですね。(偶然そうなったということはありますが)そこに価値があるわけです。勘違いして欲しくないのですが、カメラに対しての知識や造詣が深く、卓越した技術を持っていれば、そんな写真が撮れるかと言えばそうではありません。確かにそれだけでも優れた写真は撮れるのでしょうが、その時の感情や思い、考えが見る側に素直に伝わるものではありません。

大事なのは、作品として「見せる」、「見られる」ことへの意識はもちろん、もっと重要な常日頃「見る」ことに自分の意識を働かせているかどうかではないかと思います。これは、言いかえると、漫然とシャッターを押すのではなく、どこを見ているかということです。(例えそれが対象物でなくても良いのです)ある人はそれを「視点」と言ったり、「視線」と言ったりするのですが、そのオリジナリティーや特異性だけが注目される場合もあります。

でも、僕が今見たいと思うのは、もっと内省的で、しかもその対象がどこにでもあるような身近な人やものであって、そこからより普遍的なものへ繋がっているようなものです。具体的ではないので、多分言っていることがよく分からないだろうと思います。

あるものや出来事に、100の美しさや捉えられ方があるとしても、誰しもが感じられる本当のものはひとつしかない、そんな類のものです。

大げさに言えば、「真理」のようなことでしょうか。

2010年12月9日木曜日

年齢

リコーRING CUBEで現在開催中の江口敬写真展に関して、江口さんを紹介した記事がネット上で掲載されています。サイトはこちらです。

展示作品を前にした江口さん本人の写真と共に、展示作品の一部、イメージが紹介されています。記事タイトルは、「写真家になるのに遅すぎることはない!愛機GXRで別世界を目指す」となっています。


僕自身、写真に限らず何をするにも遅すぎることはないと、ずっと思っていました。人間長く生きてくると大抵は色々な経験をすることになります。良いこと悪いこと様々です。そうして、何か新しいことやしなければならないことを考える際に、これまでの経験と照らし合わせるようになります。この時はこうして、こうなったので、今度はこうしようとか、前はこれで失敗したのでこれはやっちゃいけないなとかを自然の内に比較しています。

それは人間的な成長でもあるわけで、一概に悪いことだけではありません。実際の仕事の場では、かなり有効な方法・手段です。プライベートな部分に関しても、先ずは、そのような行動を起こし、そこから結論めいたものを自分で出していく人が多いように思います。

新しいこととの出会いのきっかけや機会というものは、その人が望まなければ訪れることはないとも思っています。そんな状況になった時、時として経験が行動を邪魔する場合があります。自分の中での常識や当たり前と考えることが、新しいものや変わったことを拒絶してしまうといっても良いかもしれません。

そんな時、人はよく年齢のことを口にします。今更この年でとか、やるにはちょっと遅かったとか、自分に言い訳をするわけです。分からないわけではありませんし、事実そう言っている自分がいたことは確かですから、非難しようとは思っていません。

大事なのは、自分の気持ちや考えにしっかりと対峙しているかということです。そして、この行動や姿がたとえ満足しないものであっても、納得できるかどうかなんだと思います。

よく、他人の生き方から勇気を貰い、感銘を受けたと聞くことがありますが、その人自身がそう感じてもらいたくて生きていることは少ないような気がします。ただそうしたいからやっていることなんだと思います。

そして、そこでは、年齢という言葉は無意味なものになるのです。

2010年12月8日水曜日

地産地消

最近「地産地消」という言葉を良く耳にします。今キーボードで打ってもまともには変換されないですから、ごく最近のことなのかなと思います。これは文字通り、地元の食材を地元で消費しましょうよと言うことです。これまで本当に一部の地域であるとか、あまり利用されていなかったものを食品化して消費することで、地元での食材の見直しと地域経済活性を促していくことが主な目的だと思われます。その一方で身近なものにも実は良いものはあるわけで、またそれを違った形で展開していくことも大事だよと言っているように思います。


僕もそうですが、食品や商品は、メディアに載った派手な宣伝効果によるものに目が行ってしまい、何か新しいだけで興味がそそられてしまいがちです。もちろんそれが目的で宣伝しているわけですから、言葉は悪いですが踊らされているといっても良いのです。

ところが地元で地道に販売しているものについては、商品展開は狭く、地味なものですから、広まることは少ないものです。これはその商品の良し悪しを問いません。今は、口コミもかなりの影響を与えているようですが、地域の場合は、その程度や範囲は限られているように感じます。

一方、人の価値観はそれぞれ違っていて、その人が良いと感じるものであっても、ある人にとっては全く興味の無いものであることが普通です。嗜好品は特にそうです。でも、こと生活に関わる部分では、意外に自分独自の価値観で選んでいるとは言えないところがあります。その為に人の評価を聞いたり、情報収集をしたりして、選んでいるわけですね。まぁ、一種の安心感を得たいがためでもあります。

いずれにせよ、価値あるものイコール興味をそそるものではないにしろ、身近にあるものを何の先入観を持たずに見て、その良さを判断することは大切なことだと思います。他人がどう思うとかは考える必要もないし、結局、選ぶのは自分ですからね。

人も然りです。

今、一番待ち望んでいるものは、そんな身近にいる原石のような人との出会いです。

きっと、そばにいるような気がするのですがね・・・。

それとも、夢物語なのでしょうか。

2010年12月7日火曜日

展示に隠された秘密

さてと、ギャラリーの壁に何も無くなりました。


展示前は作品テーマやコンセプトを頭に置き、あれこれ悩みながら作業しますが、僕の場合は、こんな感じで行っています。先ずは全体の流れを把握することを、作品を見て行い、それから流れに沿った展示順番を考えます。その後、それぞれの位置関係を検討し、実際の展示となります。

実際の展示は、まさに作業となりますから、実はそれまでのプロセスに時間が取られます。大抵は僕ひとりの作業ですので、その間はギャラリー内をウロウロとしたり、作品ひとつひとつを眺めているわけです。僕は超能力者ではありませんから、作品自身からここに展示してくれとかこの順番だよとかは聞こえてきません。時間はかかりますが、ここが一番大切な時間ですね。

そうして、しばらく眺めている内に、イメージは湧いてきます。これが正解なのかどうかはその時点では分かりませんが、まぁ、取りあえずはその直感や経験知を信じて、プランを組み立てるようにします。それから、そのプランに従って、展示を行うわけです。

展示で大事な部分は、巧みな空間構成の中で、いかにその作品世界を見る側が理解出来るまたはすんなりと入り込めるようにすることだと思っています。時にその方向に目が行くようにする必要もありますが、それがあからさまに意図的過ぎると、うるさく感じるものです。その辺りは、広告宣伝媒体の展示とは異なります。

展示意図の中には、様々な秘密も隠されています。若干独りよがり的な部分があることも否めませんが、展示も表現の手段ですから、それらが無いと逆につまらないものになります。見る側はそれに気付くかどうかは分かりませんし、誤解を与えてしまう場合もあるので、注意深く、さりげなく、また時にはある程度大胆に行う必要があります。

今日から、壁が徐々に埋まっていきます。

何もない白い壁が、意味ある空間に変わっていくわけです。

様々な秘密を抱きながら・・・。

2010年12月6日月曜日

共感から共有へ

昨日でハービー・山口、ヨーガン・シャドバーグ写真展が終了しました。最終日とあって閉廊時間になるにつれてお客さんも増え始め、いつも感じる少しだけの寂しさと共に素直に嬉しさを感じました。こういったギャラリーは、常時お客さんで一杯になることは先ずありません。これは、首都圏だろうが、地域だろうがどこでも同じです。


それは公的な美術館や博物館、企業や財団が運営しているようなものとは、その方向性やあり方が全く違っているからです。もちろん多くの方が気軽にアートや写真に触れて欲しいとの共通点はありますが、誰もが分かるように、内容や規模といった点では、それぞれの特色を持って行われているのが常です。

歌舞伎評論では第一人者の渡辺保さんが以前話していたことです。要訳すると、演劇には極端なことを言えば2種類しかないと思っています。一度に100人に見せる為の演劇と1000人に見せる演劇です。前者は前衛的なものが可能であるし、後者は大衆的でなければ見に来てもらえません。おのずと、それぞれに求められる演劇の姿が違っているわけで、同じライン上では語れないものです。(ニュアンス的にはそんな感じですが、聞き間違っていたらごめんなさい)

このことはアートの世界でも同じだと思います。そして、僕が今していることは、前者の部類に入るのかもしれませんし、一般の方々もそのように認識しているように感じます。しかしながら、扱っているモノは写真作品と言う誰もが制作可能なものです。そこに付加価値を見いだし、皆さんにお見せしていく必要があるのです。その為にはある程度の大衆性や分かりやすさが重要になります。難解で、さも高尚なものを高飛車に押し付けて、理解出来る人だけが見てくれればいいんだなんてことは、微塵も思っていないわけです。

そういった意味では、昨日書いた「共感」は僕にとって必要不可欠なものです。そこから湧きあがる感動や驚きを直に体験し、それらを生み出す写真家らと同じ思いを共有してほしいということですね。

きっとその瞬間、今いる自分自身や周りの人たちが、実はとてもかけがえのない愛おしい存在であることに気付くはずです。

何はともあれ、多くの方の来廊に感謝します。

2010年12月5日日曜日

また昨夜もイッセー尾形さんを見てしまった。

僕の好きな役者のひとりがイッセー尾形さんです。昨夜もだいぶ前に録画していたDVDを引っ張り出してきて、その一部を見ました。もう幾度となく見ているものですから、どんなものとか何を見せてくれるといった新鮮な感覚は起きませんが、飽きるということはありません。


イッセーさんを初めてテレビで見たのは、確か「お笑いスター誕生」だったと思いますが、他の漫才やコントとは全く違う切り口で、ずいぶんとテレビ的じゃないなと感じながらも、それほど印象的ではありませんでした。その数年後、原宿のクエストホールでの公演を観に行った時に、その印象は180度変わりました。

あくまで個人的な印象ですが、イッセーさんの舞台の中心は、「共感」にあると言うことです。イッセーさんが演じる人々は、一見して変わった人間ばかりのように見えます。実際、見る側も始めはこんな人はいないだろうとか、随分誇張しすぎてやしないかとか感じるのですが、次第にその言葉や表情、態度、そこから移り変わっていく気持ちなんかが、あぁ良くあるよねとかどこか自分でも持っている部分のように思わせてくれます。

それはもちろんイッセーさん自身の演技力やリアルと思わせる技術によるところが大きいのですが、綿密に構成し、ひとりの人間像を作り上げている演出や本の良さに負うところがあります。そして、何より肝心なのが、演じられている空間です。

クエストホールを始め、イッセーさんの公演の多くは、客数200名程度のいわゆる小さい箱で行われ、舞台にはほとんど何もなく、小道具らしいものがいくつかあるだけです。つまり、いやが上にもイッセーさん自身だけしか見ないことになります。表情やしぐさのひとつひとつが入り込んでくるわけです。そんな雰囲気や状況が、見る側の想像を刺激し、日常では決して得られない感情へと繋がっていくのです。テレビや大ホールでは成立しない芸(と言って良いと思ってます)の類と言って良いですね。

そんな「共感」を味わうにはその場にいないと分からないわけで、大衆的じゃないよね、人気があってなんぼの世界なんだからそれでいいのかと言われるかもしれません。それでもイッセーさんはそのスタイルを崩さずに、全国各地で継続的に公演を行っています。

僕はこうも思います。伝えるべき何かが自分にあり、その伝達手段が非常に限られたものであっても、そこでなら自分を表現出来ると確信し、実際の行動として起こせるのであれば、そこに価値は生まれるのだと。

時々取り出してきては、ひとり暗い部屋の中、画面に映し出されるイッセーさんの姿を見ることで、結局はそんなことを僕自身に言い聞かせているのかもしれません。

2010年12月4日土曜日

東京-新青森間、東北新幹線全線開通の日

東北新幹線の八戸-新青森間が本日開業し、東京-新青森間が全線開通したことになります。基本計画から約40年の年月が経っているとの事でした。これで、東京-新青森間は最短で3時間20分で繋がったわけです。飛行機は別にしても、もう日帰り圏内ですね。


約30年前に東京へ就職の為出た時には、仙台-東京間は特急が一番早かったのですが、それでも約4時間を要していました。今は約2時間ですから、半分の時間で行きき出来るようになりました。すでに飛行機の便は無くなり、新幹線による日帰り出張は当たり前で、通勤さえ可能です。

当時この計画に関わり、その現場の中枢を担っていた人たちは、おそらくは30代だったとしても、現在は70歳を越え、ほとんどの人はリタイアしているのだと思います。様々な困難や苦労を抱えながら、この夢のような話を現実のものにするために、一所懸命だったでしょうし、今日の日をどう感じているのでしょう。

地域はあらゆる点で東京から遅れていることは、厳然とした事実で、それは今も昔も変わりません。もちろん東京が飛びぬけて進んでいるだけで、その他の地域は一部を除けばどこもそれほど変わらないと僕は思っています。ましてや、現在はグローバルなネット環境がインフラ整備されつつありますし、情報に関して言えばそれほど不便さを感じません。

しかし、それ以前はどうかと言うと、どの地域も東京との繋がりに重きを置き、そこから得られる様々な文化や経済効果とか生活の利便性を計るように動いていたように思います。実際、その場でしか得られないものは現在でもありますし、ある意味それ自体の優位性は否めないですから。

そんな流れの中での新幹線整備であったのでしょう。それにしても、40年と言う期間はあまりに長く、その間の周囲の状況は想像を遥かに超え、スピードを増して変化してきてしまいました。この便利な乗り物によってもたらせる効用は、今の一時的なお祝いのような時期を過ぎてから徐々に現れてくるのでしょうが、効用ばかりではないことは誰しもが感じているはずです。

開通を不安視して言っているのではありません。とても素晴らしいことだと思います。

それでも、個人的には単純に選択肢とツールが増えたぐらいと思っていた方が良いように感じます。利便性や効率だけでは計れないもっと大事なものは今でもあるのでしょうから、殊更に東京を意識する必要はないですよ、と言うことです。

2010年12月3日金曜日

polka・・・・少しだけピンチでした。

大雨です。そして、びしょ濡れになりながら、polkaを病院へ連れて行った帰りです。そう、いつもの糞詰まりが2日程前から起きてしまい、ちょっと無理そうなので今朝一番に連れていき、一旦預けてきました。


今回も麻酔無しで処置してもらいます。病院の先生曰く、麻酔中とても呼吸が弱いらしく、そのまま逝っちゃうかもしれないからと言われ、鎮静剤を打っての施術になるようです。こんな時にブログなんて書いているのはどうかと思うのですが、これも言葉として交わせないpolkaへの励まし(大部分は気の弱い僕への励ましですが)でもあります。僕自身は何も出来ませんから。

それにしても、朝から聞く言葉として、死であるとか逝くとかはまるで予想していないものなので、一瞬動揺してしまいます。いずれは訪れる決められたことであっても、素直には受け入れられないものです。polkaにとって、糞づまり自体苦しいことなのでしょうが、その施術によって逝ってしまう可能性があるとは思ってもいないはずです。何かまた変わったことが起きたぐらいにしか感じていないのかもしれません。

今は、再度迎えに行くまでに無事済んでもらうことを願うだけです。polkaは理解はしていないだろうけど、僕が一番苦しかった時期を見て、そばにいました。だから、僕も同じように見ていてあげないといけないんだろうと思います。

・・・と書いているところに、携帯に着信が。

鎮静剤もせず、終了したとの連絡です。普段は抱かれるのも嫌がる程ですから、見た目以上に体力は落ちていたのかもしれません。すぐに病院へと迎えに行き、状況の説明を受けましたが、それでも結構暴れたらしく、先生もちょっと苦笑いです。polkaにとっては、おまえら寄ってたかって何をするんだよと言いたかったのでしょう。

部屋に戻り、キャリアーから出した途端に、自分の居場所を探すようにウロウロとしていました。やがて、安全を確信してから、眠りにつくのでしょうが、僕の方も先ずは一安心です。

まぁ、これが現実なんですね。普段幾度となく流れる事故のニュースに対しては、まるでフィクションであるような感覚を持つ場合が多いし、それによる感情の揺れも大きくはありません。それが、本当のこととして身に降りかかってくると、初めて現実であることを意識し、気持ちが高ぶったり、消沈したりするものです。

でも、そんな現実としてあり、間近で感じられることの方が、良いにせよ悪いにせよ生きているってことなんだろうと、僕は思うわけです。(例えそれが死といった哀しい事実であったとしても)

polkaは時々、身を持って、その事を気づかせてくれる相棒でもあるのです。

多分、誰の周りにもそんな大切なものがあるはずですよね。

2010年12月2日木曜日

「NEXT GENERATION」@リコーRING CUBE 

次の写真展を予定している江口敬さんが、昨日から東京銀座にあるリコーRING CUBE 9Fフォトスペースにおいて、若手写真家紹介企画「NEXT GENERATION」として紹介・作品展示されています。会期は1213日(月)までです。リコーRING CUBE のサイトはこちらです。

18日(土)から行われる個展に先駆けて、首都圏初お目見えになります。こちらでの個展の準備もあり、かなり大変だったと思いますが、先日送られてきた展示状況の画像を見る限りは、とても整然と綺麗に展示され、僕も一安心していたところです。


個展の準備は順調です。リコーでの展示は8点になりますが、個展では20点を予定しています。展示の状態はリコーのそれとは趣きが違い、ある展示コンセプトの下、行われます。見ていただき、その一部でも感じてもらえれば良いなと思っています。

彼との出会いは、Sha-gakuでした。わずか6カ月前の話です。その時は壁2面に4点の額装品を展示し、話の中でいつかは個展をしたいですねぐらいのものでした。その後、リコーでの展示が決まり、再度僕を訪ねて来てくれたのが、8月の熱い日でした。ややあって、個展開催を決定したのですが、全ては彼の意思によるもので、その意思が僕を動かしたわけです。

何かとんとん拍子に話が進んだように思われそうですが、そうではなりません。彼自身が行動したからそうなったのです。そして、彼の中で、表現することに向きあい、発表することを考えた時、その機会は今しかないとの気持ちが、そうさせたのだと思います。

彼はきちんと正職を持った、一アマチュア写真家です。それでも、真摯にそして謙虚に発表へと向きあう姿は、アマチュアだからなんてことは一切感じさせません。そんな彼の個展開催に当たり、僕自身手伝えることは喜び以外の何物でもないわけです。

既に終わったような物言いをしていますが、全てはこれから始まります。

2010年の最後を飾るものとして、皆さんが感動し、共感出来るモノをお見せしたいと考えています。

是非見に来て下さい。

写真展詳細はこちらです。

2010年12月1日水曜日

残された時間~すごく個人的なこと

今日から師走です。外は案外おだやかで、暖かさすら感じますが、これから本格的な冬となります。年を経るごとに、時間の進みが早く感じられるようになると言われますが、個人的にはそういう実感はあまりありません。それよりも、自分の中に残された時間が徐々に減っているのだなと思うことはあります。


これは、人生をネガティブに考えていることとは違っています。限りある生は、この世に生まれた時にすでに決められたことなので、事あるごとにあれこれ悩んでいても仕方ないことです。それよりも今どうしたいのかと自分に問いかけ、そして、それは残された時間の中でやるべきことなのかを考えるようになってきました。

若い頃は、今したいと思うことと現実とのギャップに悶々としながら生きてきました。その頃は、いつかはきっととか将来的にはといった、遥か遠い未来の姿を思い起こせるだけの時間がまだたっぷりあると錯覚していたように思います。

実際そうではないことは、誰もが気付いていることなのですが、日常という大きな波にのまれたり、逆に穏やかな波間を漂うことに安堵を覚え、前者はのまれまいとしてもがいているのが精一杯で、後者は永遠にこのまま続いていくことを夢み、あえて考えようとは思わなくなります。それが良いことなのか悪いことなのかは、今でも分かりませんが、誰もが経験する通過点のような気がします。

だからと言って、世の中に対して、ひとりひとりが残された時間を考えて、何かをしていきましょうよと言うつもりは全くありません。これはすごく個人的なことだと思っています。結局は、その人それぞれに好きなように生きれば良いのですから。

過去は覆せないし、先のことは誰にも分かりません。なので、僕としては、残された時間に対して、今出来ることを考えていくしかないように思えるわけです。

しかもそれは出来るだけ自分にとっても、前向きであることを願いながら。