2011年1月31日月曜日

Sha-gakuというステージ

Sha-gaku vol.2でも、前回行った「Communication Board」を設置していて、来られた方の何人かは記入して下さっています。そこにある言葉や実際に作品を購入してもらえることは、展示・発表した参加者にとっては何よりの力になります。


支援・応援、もしくは援助というと、ボランティア的な風潮を感じますし、特に芸術に関しては作品の価値をお金により代償する行為自体、何か人とは違っていると受け止められがちです。衣食住というように、生活をするには少なくてもこの3つが揃い、それを賄えるだけのお金が得られれば良いわけです。その為に、仕事を選択し、身の程に合った必要不可欠な消費財を手に入れます。

極端な話、それだけを繰り返し行っていければ、生きていけます。それでも、大抵の人たちは知的好奇心やより自分自身の価値観を高めるもの、または娯楽といった楽しさに魅力を感じ、余力の範囲で生活の中に取り入れようとします。そして、それらはあくまで個人的な趣向からの発生なのですが、多くの人々から支持され、認知されると大きく拡がりをみせ、誰でも行えたり、手に入れたりして楽しめるものになっていくものです。

写真は古くからいわゆるマニアのもののカテゴリーと一般に家族や旅行等の記録として使用されるものと、大きく分けられていたように思います。特にフィルムが全盛の頃は、自身で現像・プリントを行う人たち、または近くの写真屋さんでプリントしてもらったりと、それぞれがそれぞれの立場で、楽しんでいました。その辺りは今でも変わらないのかもしれませんし、大多数の人たちは後者になるのではないかと思います。

そして、前者の中のごく一部が、自身の表現の手段として発表をし、自らも意識的に、無意識的に大多数の人々とは一線を画す思いを持ちつつ、写真の(表現の)可能性を模索していたのです。そんな彼らの作品を見ながら、あのような写真が撮りたいとかどうしたらああいった表現が出来るのかと思い始めた方々が集い始め、様々なコミュニティーが発生していったように思います。

さて、現在はと言えば、デジタルの普及により、誰もが写真を撮れる環境になっています。表現の種類も多様化し、以前と比較しても可能性は拡がり、さらに深いものになっています。したがって、それらを自身で駆使し、アートとしての作品化(大げさな言い方ですが)を目指しやすい環境になって来ているとも言えるのです。

だから、皆さんには失敗を恐れずに発表し、自己表現をして欲しいのです。(特に作品というものを意識している人にとっては)それが当たり前のように拡がりをみせれば、きっとその輪も大きなものとなり、見る人々にとっても実質的な支援をしやすくなるはずなのです。
Sha-gakuはそれを現実化する最初のステージです。

これは皆さんへの問いかけでもあり、勧めでもあります。

一度でいいです。ギャラリーへお越し下さい。

ひとつの回答がそこにはあると考えています。

2011年1月30日日曜日

サッカー・アジア杯優勝~寝不足気味の爽快な朝に

ザック・ジャパン、サッカー・アジア杯優勝おめでとう。


深夜0時過ぎから始まった決勝戦は、90分では決着が付かず、準決勝に引き続きの延長戦、寝不足必至の時間帯での決着でした。それにしても、オーストラリア選手との体格差は明らか、それにスピードもあるし、相手のミスもあったとは言え、失点しなかったのは不思議なくらいでした。

成功したからと良く結果論で語りたがる風潮ではありますが、あえて言うなら、途中からのプラン変更(長友選手を前にあげたこと)と選手起用が、延長後半、相手選手の疲労がピーク時にうまく機能したことがひとつ挙げられます。あれって、結構大胆なプラン変更で、ザッケローニ監督の策士としての片鱗を見た思いがしました。

もちろん、それに順応した選手個々の能力の高さもあってのことです。指示されたことに対して理解することと実際にそれを機能させることは大きく違うからです。おそらくは、これまでにこのようなプランでの戦術はしてこなかったように思いますし。

イタリアの監督であり、言葉や文化の壁があるのは当然で、しかもサッカーではまだまだ世界レベルから下の日本ですから、今だって自身の思い描く戦術ではないのだろうと思います。それでも、選手個々の能力の把握やその接し方に非常に長けた人であることは良く分かりますね。歯がゆい思いをしながらも、結果を求められ、誰しもが望んでいる結果を出す難しさは、普通に生活をしている僕たちにも分かりますから。

試合終了後、午前3時の渋谷のスクランブル交差点。多くの若者と思われる人たちが、ワールドカップの時と同じように、狂喜乱舞している姿がありました。(もちろん朝のテレビで見たのですが)世間的には決して良いことではありませんが、気分的にはあの中に入り込んでみたいと思いました。

おそらくは、大多数が他人なんでしょう。ひとつの出来事に歓喜し、その思いを発散出来ることってあまり無いことです。そして、そんなエネルギーを自然の内に感じさせてくれる出来事も今ではほとんどありません。

今日は、そんな寝不足気味のお客さんが来られるかもしれません。ギャラリーにある作品には相手となる敵はいませんし、その先に優勝といった栄誉もありません。が、それにも劣らない、見る人々の心を揺るがすものがあると思っています。

2011年1月29日土曜日

Sha-gaku vol.2 開幕の日

さて、今日からSha-gaku vol.2が始まります。


昨夜遅くまで、参加者数名が展示作業をしていました。若干、まだ残っている部分はあるのですが、オープンまでには完成する予定です。参加したメンバーは、普段はきちんと仕事をされ、その合間に撮影を行ったり、プリントをしたりしている方々です。いわゆるアマチュアカメラマンと言って良いと思います。

それでも、日常的に撮影し、その出来を見ながら、あくまでもストックしているだけの方々とはほんの少しだけ違いがあります。それは、発表し、世に問う意思や気持ちが強いということです。発表しようと思う気持ちや動機はいろいろとありますから、その事に関しては僕なりのラインを逸脱していなければ、参加をしていただくようにしています。この辺りは個人で行っているので、ある程度の栽量は許されるものだと思っています。

でもね、やはり気持ちがそう動いているのかが一番大事で、ほぼそこだけを見ているような気がします。作品性や表現については、第三者的立場から見て、もう少しだと思っても、発表することで本人にも見えてくるものがありますし、実際の話、僕があれこれと話しても、それはそれと受け止めがたいところもあるわけです。

だから、発表し、自らの思いを世に問うことが必要なんですね。見も知らぬ観衆は、僕なんかよりずっと辛辣で残酷な反面、共感される部分には実に素直に反応をするものだと思っています。例えは悪いけど、子供には嘘を付けないと言われるのと同じです。

同じように自分にも嘘は付けないのが、発表の良いところです。誰にも気兼ねする必要はないし、ここでこんな発表をしても、社会に大きな影響を与えるかと言えばそうではないことの方が多いわけだし、嘘をついてもしょうがないことです。

作品たちは己の分身のように、壁面を自由に闊歩しています。一枚一枚が、さあ見てよと鼓舞しているようにも感じます。表面上はおだやかであっても、或いは文字通り躍るように配置されていても、作品それぞれの中身にはそんな思いが満ちているのです。

多くの人に見て欲しい。僕の思いはそれだけです。

是非とも足を運んでみて下さい。

2011年1月28日金曜日

Sha-gaku vol.2 明日開幕 !?

いよいよ明日、Sha-gaku vol.2が始まります。


実はまだ壁面は埋まっていません。約60%程度です。今日夜遅くには、全ての壁面が埋められて、全容が見える予定です。今こんな状態で大丈夫なのと言われそうですが、心配はしていません。

今回は6名の男女による展示会になっています。元々の趣旨が壁面ごとの個展としているように、グループ展ではないと考えています。だから、他のメンバーに何一つ気兼ねする必要も周りとのバランスも考える必要はありません。自分の作品制作・展示にのみ力を入れてくれれば良いのです。

もし、その事で見る側に首を傾げられたり、理解不能の困惑を与えたとしても、それは個人の力ではなく、ギャラリーとして企画した僕の力不足なんだと思っています。もちろんそんな風になったとしたら、参加者の方には申し訳ないなとは思いますし、そうならないように可能な限りサポートをしているわけです。

サポートという言葉の裏には、される側の自発的な思いや気持ちが無ければ、それ自体意味を持ちません。Sha-gakuの場合は、テーマ・コンセプト、表現の方法も自由です。それゆえ、僕の方からああしろ、こうしろとは指示は出来ません。なので、僕は参加者の写真そのものであったり、そこから想起される世界観に沿ったより具体的なアドバイスを提示し、示唆するだけです。選択する、しないは当人の自由です。

自分が選んだ何もない白い壁に向かった時に、結果を考えるのではなく、先ずは想像を膨らませてほしいのです。具体的な方法や詰めはその後じっくり考えれば良いことで、その為に僕の存在があるのです。

おそらく、壁面それぞれから受ける感情は皆違ってくると思います。見る側は、それに抗うことなく、様々な感情の渦を楽しんでほしいですね。

溺れることも時には必要です。

ドキドキ、ワクワク、ハッとした自分を自身で確かめてみて下さい。

ほんの少しでも、世の中が面白くなりますから。

2011年1月27日木曜日

現在、過去、未来、、、、。

現在、過去、未来、、、、。


どこかで聞いた歌のフレーズのようですが、誰しもがそれらを意識しながら生活していると思っています。もっとも大事なものは現在であり、その事はずっとここで書いていることです。

この中でここに或るもの、見えるものは、現在だけです。過去の遺産として残っているものにしても、当時のそれを見ているわけではなく、現在とは違っていますし、未来は大抵の人には見えません。しかしながら、もう今は無くなってしまったもの、その頃とはまるで違ってしまったことは、少なからず現在に影響を与え、繋がりを持っています。

物事の全ては、過去にあったものが姿、形を変え、意味や意義も変容しながら、現在へと受け継がれているだけのように感じます。これまでには無かったもの、画期的で新しいと思われることのほとんどは、過去に思い描いていた未来予想図の中に既にあったものだということです。

それゆえ、新しいことの発見や創造は、常にリスクをはらみ、難しいことなのです。綿々と拡がっている過去のフィールドの中に、新たな存在を与えるわけですから、当然のことです。しかも、僕たちが見えているフィールドはその中のごく一部でしかなく、生きていられる時間もそれほど長いわけではありませんから、残念ながらそれが出来る人は限られてしまうものです。

それでも、過去の繋がりから、それらをより良いものであったり、違った価値観や意味を持たせ高めていくことは、誰にでも出来ることのように思います。何も世の為、人の為と大上段に構えなくても、自分自身はもとより身近な人たち、地域といった限られた範囲で構わないのです。それが、希望ある未来へと引き継がれていくように思えるわけです。

そう、大事なのは希望ある未来へということです。過去と同じように未来は見えないし、思い描くしか出来ませんが、唯一違うところは既に起きてしまったことを覆すことは出来ないけれど、まだ起きていないことは変えられる可能性があるということです。

現在がたとえ過去の反省や後悔に基づいたものであったとしても、そのまま未来へと受け継がれるものではなく、ほんの少しの新しいことを加えながら、希望あるものに変えたいと望んでいる人は多くいるはずです。それを行動として起こせるのも現在なのですね。

アートや写真がその一端を担っているなどとは言えませんが、長い時間の積み重ねや繋がりの中で、人それぞれがかけがえのない存在として未来を担って生れてきたのだと、僕は思うのです。

2011年1月26日水曜日

今年初めての治療

今年初めての糞詰まり治療に行ってきました。朝から下の話で済みません。昨夜遅く、そう、サッカー日韓戦が始まる頃、polkaの調子が悪くなり、今朝一番で病院へ連れて行ったのです。治療は前回同様麻酔無しでの除去作業です。時間が掛からないということなので、そのまま待合室にいたのですが、施術中の悲痛な叫び声はいつになっても慣れないものです。心が痛む思いです。


今すぐ生死に関わるわけではないので、心配するという事より、自分が施術されている気持ちになってしまいます。先生には体質と老化なので仕方ないですよと言われますが、またいつ起きるか分からないのが僕もpolkaも気がかりで、そのたびに連れて行かれてお尻をいじられるのかよと眼が訴えかけているようにも感じます。

でも、それも飼い主としての役目なんです。たかがネコですが、何かの縁で一緒にいるわけで、これもある意味必然なんだと思います。

順調に行ってたり、楽しかったりしている時はその状態をなんら不思議に思ったり、悩んだりはしないけど、その逆の場合はどうして自分だけとか強迫観念のような不安に陥ったりします。ましてや、自分以外の身近な人が目の前でそうあったりすると、目を塞ぎ、避けたいと思う衝動にも駆られます。

その人の感じている痛みや傷を理解してあげ、手を差し伸べてあげられるかというとそうではありませんし、お金だけで解決出来るものでもないですし、良かれと思って行ったことが逆の結果を生むことさえあるわけですから、つい、わが身に降りかからないことを祈ってしまいたくもなるわけです。

昔から「なるようにしかならない」と言われますが、これって自分の出来うることを限りなく行った上で出てくる言葉だと思っています。だから、辛くても嫌でも、目の前に起きていることを真っ直ぐ見ていかないといけないし、そうしないと何も出来ないし、何も変わらないと考えています。

たかがネコの糞詰まり治療で、僕にこんなことを思い起こさせてくれるのは、誰しもが分かるように「生きる」ことの中にどれほど大きな意味があるにも関わらず、普段はそんなことすら感じていないからなんだろうと思うわけです。(大げさだな!)

さてと・・・、ちょっと上に、polkaの様子を見にいくこととします。

2011年1月25日火曜日

昨夜の火災騒ぎ

昨夜ギャラリーのあるビルで火災騒ぎがありました。


夜に見えられるお客さんを待ちながらギャラリーにいた僕がちょっと休憩で一服をしようと表に出た時に、それは起こりました。突然、消防車が2台大通り側から右折して、ビルへ向かってきます。どこかで火事なのかなと思っていたら、その内一台がビルに横付けされ、乗りこんでいた消防隊員のひとりが消火栓を確認し始めました。

すると、突然火災報知機が鳴り始めたのです。えっ、うちなのと思って外に飛び出し、ビルを眺めても煙らしいものも上がっていません。そうこうしている内に、数名の消防隊員がビルに入ってきては、階段を登り始めました。

ヤバいなと感じたのは、上には僕の自室があり、polkaを残していることです。居住人の何人かは飼っているペットを抱えて、降りてきます。いやはやと思いながらも割と冷静さを装いながら、まだ動いているエレベーターで上へ行くと、そこはいつもと変わらぬ風景でした。

ややあって、階段を下りてきた消防隊員に状況を聞くと、3階上の階でのボヤで、今はもう消火も終え、大丈夫ですが、一応非難していて下さいと言われました。その言葉にやや安心して再びエレベーターで下へ降りたのでした。途中、これ止まったらいやだなと一瞬頭をよぎったのですが、乗ってしまったのでどうしようも出来ません。実はこの時が一番焦りました。

ビルの周りには居住人と共に、数人のやじ馬もいて、平日の夕方7時では見られない程の人の数でした。テレビ局の撮影隊が何やら煙の出ていないビルを撮っていましたが、おそらくは放送もされなかったと思います。

事の真相は、10階の一室で天ぷら油に火が引火し、一瞬燃え上がり、消防署に通報したのですが、その後すぐに、居住人が消火器で消し止めたということらしいです。通報されたので、隣にある消防署からサイレンもなく、ビルへと来たのですが、消火活動(放水等)はしていないようです。

大事に至らなくて良かったなとの思いと同時に、やはりいつ何があってもおかしくないのだなと改めて考えてしまいました。未来は誰にも分からないから、いかなることが起きてもおかしくないのです。それゆえ、今が大事なんです。

こじつけでも何でもなく、素直にそう思えました。

その後、自室へと戻った時のpolkaの様子は普段と変わらないものでした。いやぁ、あの時は驚いたよとは言いもしません。変わらないことも大事なんです。

普段よりも少しだけ強く抱き上げると、polkaはいつものように腕の中でむずがり、スルリと逃げ出して行ったのでした。

2011年1月24日月曜日

埋まって来ました。

今日でギャラリーの壁面が半分以上作品で埋まる予定です。昨日来られた参加者の内、1名は展示まで終了しましたが、残りの2名は展示の下準備とレイアウト決定まででしたので、レイアウトが決まった方の展示は僕がしてしまいます。僕にとって展示作業はそれほど苦にはなりません。本来は自身で行った方が良いのですが、時間等の制約もあるので、出来る限りを行ってもらえれば良いと思っています。


極端な話、参加者は作品制作に力を注ぎこんで欲しいわけで、展示構成や細かな段取りなんかはケースバイケースで行えば良いことです。先ずは作品ありきですから。でも、表現自体は展示して初めて完成するので、ただ展示すれば良いということではなく、本人にじっくりと検討してもらいたいと考えていて、そこまでの時間が大切なのです。

そこまで決まれば後は実際の作業になるので、誰がしてもいいわけです。まぁ、今後の為とか実際の経験をしてみたいと思われている方は、自分でしてみることが良いとは思います。個人でしていますので、その辺りは柔軟に対応出来ます。

諸作業はやや面倒ですけれど、一枚のプリント品が額装され、自分の思い描いたように展示されると、大抵の方はそれだけで感動や充足感を得られます。展示が初めての方は特にそうで、照明を当てられた瞬間に、自分の写真ではないような感覚さえ受けるようです。今、そんな気持ちになれることって、すごく少ないような気がします。人は忙しいと、つい便利で楽な方へ考えが向かいます。写真だって多くの方は趣味の世界から派生して、数少ない方が展示までを考えます。やはり、実際の作業が伴い、それに要する時間や労力を普段の時間の中からねん出していうことは難しいし、或いはそう思ってしまうと踏ん切りもつかないわけです。

自分の作品に自信がないから、まだ始めて間もないからと躊躇される方の多くは、作品性といったものよりもむしろその労力に対しての不安が大きいのではないかと思います。そんな方々にも出来るだけ不安なく、展示まで行い、そこから感動を得て欲しいと思っています。

なので、是非とも、企画に参加して欲しいのです。他では得られない感動を、僕は皆さんに提供出来るとさえ思っています。自信過剰ぎみですが・・・。

2011年1月23日日曜日

新鮮な発見

今日は展示が重なります。午後から3名が来られて、それぞれのサポートを行う予定です。Sha-gakuの場合は、事前に参加者の展示作品を全て見ないことと、実際の展示レイアウトもその時点で決まっていない場合があるので、その場で悩む方がいらっしゃいますし、僕もその時に考えることがあります。


本来から言うと、展示を行うに当たり、作品自体のセレクションが大変重要なものになります。そこから、実際の展示を考えるわけです。ただ、壁に取り付ければ何とかなるものもあるにはありますが、そう簡単にはいかないものです。構成や流れも大切な要素のひとつなのです。

限られたスペース、壁面に展示を行い、世界観も含めて表現することは、実はとても難しいことです。作品が少なく、展示経験もあまりないので、最初は一面だけでと話されることが間々ありますが、そういう方は得てして、自身の作品を深く見ていない場合が多く、あまりお勧め出来るものではありません。

小説の種類に短編と長編があるように、展示にもそのようなものがあるからです。決して、小品や大作といった形としてのものではなく、展示コンセプト(意図)というべきものです。その辺りの解釈を間違えてしまうと、せっかくの作品が台無しになってしまいます。また、展示する側は常に見る側の意識も考えなければなりませんし、かと言ってあまり考えすぎるとコマーシャルにしかなりませんから、両方へのバランス感覚が必要となるわけです。

これには方法論といったリテラシーが必要とはなるのですが、もっとも重要なのは経験だと思います。今日来られる方の中には展示経験のある方もいらっしゃいます。僕もあまりしゃしゃりでようとは考えていません。自発的に考え、行動しない限り、身につかないものですからね。

それにしても、いつも変らぬように展示しているつもりですが、その時々で新鮮な発見はあるものです。これまで気づかなかったことが、目の前にパッと拡がることさえあります。今日はどんな驚きや感慨を受けられるかと、とてもドキドキとしているのです。

2011年1月22日土曜日

意味あること

このところ、毎日同じようなことを書いているような気がします。結局は、身近な写真を発表することで自分が楽しみ、そして見る方にもそこから何かを感じてもらい、感動や喜びを共有してもらいたい、ギャラリーがそんな場であったら良いなということだけです。


昨日はそれを象徴するようなことが2つありましたね。ひとつは寛平ちゃんの「アースマラソン」のゴール、そしてもうひとつはサッカーAFCアジアカップ2011の準々決勝、地元カタールとの試合です。興味も関心も無い方にとっては、あっ、そうぐらいにしか思えないかもしれませんが、テレビを見ながら興奮や感動を覚えた人も多いはずです。

共通していることは、かなりしんどかったねということ、自分の肉体を駆使して行っていること、そして達成もしくは試合に勝ったからといって、見ている人の生活にはほとんど影響が及ばないことです。じゃあ、そこに何の意味があるのということになります。

サッカーの場合は、選手は皆プロですから、自身の仕事でもありそれ自体生きがいのようなもので、プレーすることで観客を喜ばせなければならない責任やプライドがありますから、自分にも他人に対してもちゃんとした意味があるのでしょう。一方、寛平ちゃんは芸人であって陸上のプロでもなく、いわゆるアマチュアが、自分の得意とする「走る」ことでこのような偉業を個人的な考えの中で行ったものです。ですので、この行いの途中であったり、達成したその時に意味を見出せるものなのかもしれません。

僕自身もそうですが、何かをすると考えた時、先ず結果を予想し、やる意味や影響、その結果として自分が得られるもの、つまりは損得勘定をしがちです。これは当たり前に思うことで、決して否定出来ませんし、間違ってはいないことです。それ抜きで物事を進めることは、個人的なこと以外では不可能に近いですからね。自分と他人、個人と社会が程良い距離感でいることが難しい世の中になってもいますし。

だから、昨日の2つのことって、何か生きることの原点のような感じもするのです。

ちょっと、大げさですね。

でも、まぁ、これを見て元気づけられたり、勇気を持った人もいるのです(僕もそのひとり)から、それだけで充分意味があることなんだよね。

2011年1月21日金曜日

展示がぼちぼちと始まりました。

Sha-gaku vol.2の展示がぼちぼちと始まりました。昨日は1壁分のみということと、参加者の方も初めてということで、比較的ゆっくりと展示作業を行いました。やはり、ある程度は自分で行わないと意味がありません。かと言って初めてですと何からすれば良いかすら分かりませんから、その辺りも理解してもらう為にも時間をかけるわけです。


そういった意味では、実際の展示・発表という形をするまでのプロセスをワークショップで実体験しているようなものです。一枚の写真を額装する手順から、それを壁に構成・展示することには、「見せる」要素がありますので、ある程度の経験が必要となります。学生の頃に写真部に入り、展示体験をしてきた方は、作業自体の経験はあります。なので、「見せる」ことを意識出来るかになります。一方、これまでそのような経験が無い方は、何をどうすれば良いのかが分かりません。これは「見せる」云々以前の問題で、細かい作業に疑問を抱くとやはりまだ無理だと思ってしまうわけです。

僕にとっては、Sha-gakuやClub Blossomはそんな方々へ対しての実践の場としての思いがあります。もちろん自分で考え、自由に展示をし、表現することが前提です。だから、参加費の中にはその分も折り込み済みと思ってもらって良いのです。学校ではありませんから、遠慮なく行って欲しいですし。

よく写真を撮っていらっしゃるお客さんに参加を勧めると、まだ私の写真では・・・とかもう少し経験を積んでからとか、まだ私には敷居が高いと多くの方が話されます。そう思われる理由も分かる様な気はしますが、きっかけは自分から作らないと何も始まりません。また、一歩入り込んでくれた方には、そのサポートは他の比ではないとも思っています。

現在、3つの企画参加募集を行っています。残念ながら参加を表明される方は、非常に少ない状況です。参加募集している目的として、先ずは形ある物として発表することの満足感や高揚感を自ら感じて欲しいことです。それから、それらが他の人にも伝わり、元気や感動を与えられるものであれば、なお良いなということです。

そして、もっとも大事なのは、身近な写真を通して、地域で活動、発表することの意義や意味を、個の力で残していきたいということです。それは、決して押し付けられたり、ただその環境を待っているだけであったりではなく、リアルな世界の中で自発的に発生してこそ意味ある事で、そこでの繋がりがなければ実現不可能なんだとも思っています。

ちょっと大げさですけど、本気です。

ご意見、ご希望はいつでも受け付けています。

傍目には夢見がちのただのオヤジに見えてるのだろうなと思いながらも、ひとりぐらいそんな人間がいても良いのだと、毎日自分に言い聞かせているのです。

2011年1月20日木曜日

満足や充足

昨日は時折ちらちらと雪が舞い、相変わらずの寒さでしたが、風がやや収まった時を狙って、駅前まで備品等を買いに行きました。久しぶりに街の様子を眺めていると、自転車で動いている人は明らかに減っていますし、駅前のデッキに佇む人の数も普段の半分程度だったように思います。


それでも、東口にある大手家電店には平日の昼間にもかかわらず、多くのお客さんがいました。仕事の途中であったり、外は寒いので少しの間、寒さしのぎをしているお客さんも見かけましたが、大抵の方は自分の目的に沿った売り場で、店員と話したり、商品を手に取り検討しているようです。カメラ売り場にも数人がファインダーをのぞき込んだり、実際にカメラを構えている方がいました。

カメラは今でも基本的に高価なものです。そして、ほとんどの方は生活必需品として手にすることはないものです。カメラがあったからといって、お湯を沸かせるわけでも、食事の準備が出来るわけでもありません。まさに手にすることの喜びであったり、撮影した写真を見て楽しんだり、あるいは情報伝達のツールとしての役割を担い、あくまで個人的な趣向で購入されるものです。多くの人は所有することの満足感や気に入った写真が撮れた時の高揚感に価値を見いだし、高いお金を払っているとも言えます。

しかしながら、そこから写し撮られる情景は、その時代を切り取った瞬間であったり、限りなく美しいものであったり、得も言えぬ感動を呼び起こすものであったりします。また、写し撮られた写真のほとんどは、ストックされまたは削除され、陽の目を見ることなく忘れ去られるものです。その人自身のある一定の価値観によって選ばれたものだけが、残っていきます。なので、気がつくとそこに写されたものには、必ず自分の好みや色、そして自分自身の感情や思いが入り込んでいるのです。

そして、そんな数少ない写真が得る価値というものは、記録物から作品として昇華してこそのものだと、僕は思います。発表することには多くのエネルギーと勇気が必要かもしれません。でもね、その先にある充足感や言われも無い高揚感は、行った者だけにしか分からないのです。その辺りが多くの人が発表に至れない大きな問題なのですが・・・。

カメラを持っているだけ、技術的に上手くなれば充分満足なんだと仰る方は、それはそれで良いのだと思います。でも、もし自分自身の表現手段としてカメラを取り、写真を撮られていると感じているのなら、先ずは発表して見ることです。

共感は常に個から始まるものです。

さまざまな個と個が集い、互いに競い合うことなく自由に表現出来る場としてギャラリーがあるのなら、もはや場所や規模は関係ないことで、それだけで良いとさえ思えます。

もしそのことで、ほんの少しの元気や幸せを共感出来るのなら・・・。

満足や充足は自分自身だけのものではないはずですから。

2011年1月19日水曜日

「消えもの」

演劇、テレビ、映画の中で、「消えもの」という言葉があります。使われる小道具のうち、日々の舞台で消耗品として無くなってしまう物をそのように言います。代表的なものとして食事のシーンで出される飲食物を思い出しますが、破られてしまう紙、書類、吸われる予定のあるタバコ、点されるロウソクなんかもそれに当ります。


それらは、シーンによっては時に重要なパーツにもなり、その登場によって筋立てが変化したり、感情があらわになったりと、効果的な演出を生み出したりします。テレビドラマや映画では食事のシーンには本物の食べ物が出てきますが、それらもそのワンシーンの為に作られるわけです。

最近ではそれを専門として行うフードコーディネーターを起用するケースが増えてきました。映画「かもめ食堂」、「マザーウォーター」、テレビドラマ「深夜食堂」のスタッフとして起用された飯島奈美さんはその代表のような人です。

映画やドラマの内容にもよりますが、時折非常においしそうに見えます。「かもめ食堂」や「深夜食堂」は、ある意味それ自体が主役に飛び出し、出演している人のおいしそうに食べている姿を見ていると、自分もついつい食べたくなってしまうものです。この辺りが、フードコーディネーターを起用する所以でもあるのです。ここで大事なのは、出てくる食べ物はその場限りのものであることです。本当に一瞬の出来事の中で使用され、見えるか見えないかすら分からない場合もあります。それでも、嘘では作れないのです。

よくそれほどディテールにこだわったとしても、見ている人には分からないよと言うことがあります。確かに全体に眼がいって、細部まで気がつかない場合は多いものですし、正直見る側としてそこまで見ないよなと思うことはあります。でもね、これも少し違うような気がしていて、実は印象として残っていないようなものでも感じてはいるのだと思うわけで、その積み重ねのようなものが、自然と全体へ繋がっていくような流れを作っているのです。

ですから、「消えもの」は立派な脇役なのです。ただ日常的な情景の一部として使用され、消費されるものとしての役割でありながら、決して無駄なものではないのです。身の周りではその場限りであったり、一瞬で消えていってしまうこともたくさんありますし、無駄だと思えるものは確かにあります。でも、そう思えることの中にも、見方次第でさまざまな意味を見つけられるものです。

アートもそんなもののひとつなのかもしれません。

2011年1月18日火曜日

何も無くなった壁面~次の展示へ

展示スペースの壁面が、また真っ白になりました。何度となく繰り返してきた撤収作業ですが、ひとりで行っていてもあっという間に終わってしまいます。ホントにあっという間です。一抹の寂しさを感じながらも、Sha-gakuに備えなければなりません。


おそらくは今週末から来週開幕ぎりぎりまで展示作業は断続的に続くのだと予想しているのですが、大きな問題が発生しないことを願っています。展示は、事前にレイアウトをきちんと決めた上で行うことが多いのですが、その場で決めていく場合もあります。慣れてくると頭で考えている壁面の距離感と実際の作品レイアウトが合ってくるのですが、展示経験の薄い人にとっては難しいものです。思いのほかスペースが余ったり、逆に窮屈感が出てしまったり、何より作品性にも影響をする展示としての世界観が出ないものです。

Sha-gakuの場合は、参加者の自由な発想で展示も行ってもらうのが趣旨ではありますが、ただ壁に絵を描くのとは違い、個々の作品の組み合わせで持って、印象ががらりと変わってしまいますので、自由にと言われる方が難しいのかもしれません。

その為、多くの人は展示・発表会というと、きちんと額装され整然と並べられたものを想像します。額装されると作品然とするし、見た目的にはよく1.5倍ほど良く見えると言われますから、そうすることが当然であると思われているようですし、そうしたいと思うのかもしれません。

僕の場合は、商業ギャラリーという性格でありながらも、様式的なものにはあまりこだわりはありません。写真をアートとして捉えるなら、見せ方だって自由で良いわけですから、こうあるべきとかこうしなければと制限してはいけないと思っています。

ただ、やみくもに奇抜さや前衛的な部分が主になる印象の展示には懐疑的です。それらを構成する作品によって考えられるものであって、始めに展示ありきではないからです。作品の大きさにしても同様です。大きくするには理由が必要で、それを展示するにあたっては、明確な主張がなければいけないと思っています。

今回のSha-gakuでは展示が初めての方もいらっしゃいます。そのような方には、自身の考えを聞いた上で、より具体的なサポートをします。もちろん作品はその人自身のものですから、作品性やテーマ性、世界観を崩すようなものであってはいけませんし、自分が納得したものでなければいけないと考えています。重要なのは、展示された作品がひとつのまとまりを持って再構築され、自分の思い描いていたイメージが具体化されなければならないと言うことです。

何か難しいと思われるかもしれませんが、決して難しいことではありません。実際、全てを自分の中で処理するのは大変なことです。しかし、ここには、順序立てて、理解しながら、自分の作品を発表まで出来る環境があります。それゆえ、写真専門ギャラリーと謳ってもいるわけです。

いろいろなものにはそれぞれワケがあります。

発表してみたいけどと思われている方は、是非一度試しに来て下さい。

2011年1月17日月曜日

江口敬写真展"Beyond"が無事終了・・・でもまだ不完全燃焼

昨日江口敬写真展"Beyond"が無事終了しました。


急遽行なったUstライブ中継は一時機器トラブルがありましたが、何とかやることが出来ました。ハプニングもまた楽しいものです。江口さんは本来僕がしなければいけない解説をアングルを変えるたびにして下さり、本当に頭が下がる思いと同時に、改めて人柄の良さを感じました。

また年末のトークイベントも楽しく行うことが出来ました。少人数とは言え、非常に中身の濃い活発な意見が飛び交い、逆に僕自身が元気づけられました。年明け急に寒さが増し、雪が舞い始め、外に出ることも躊躇してしまうところ、毎日何人かは足をお運び下さいました。

ギャラリーに訪れて下さった皆様、サイトで作品等を見て下さった方々に心より感謝いたします。

とても素敵な大切な時間を過ごした思いは充分あるのですが、僕自身は不完全燃焼と感じています。地域の名も知れぬ小さなギャラリーですから、集客にしても多くは望めないこと、写真専門ギャラリーという特殊性を考慮すると、やはりまだまだ「慣れ」が必要なのかなと思うわけです。

写真を作品としてアートへと昇華させることはとても難しいことです。あまりに身近で手軽なものとして写真が捉えられている現状、元々が記録の為の手段・道具としての性格からいってもそれがごく当たり前なのかもしれません。それでも、いつでも撮れる、手に出来ることを考えると、決してそれは不可能なことではなく、むしろどなたの手からも生み出せる可能性があり、それを行おうとしている人々は実際にいるはずです。

僕はそういった人々と共に、生み出された作品を世に送り出していきたいと考えています。そして、人々に感動や衝撃を与えるような作品は決して美術館クラスの大きな会場でのみ見せてもらえるものではなく、どこから(場所、規模を問わず)でも提示出来ることを証明していきたいのです。とても壮大な夢のような話ですが、先ずは行動しないことには始まらないし、同時に周りの人々がそういうものって可能なことなんだと思えるまでの「慣れ」が必要なのです。

さて、それでは時間が解決してくれるのかということになります。このまま続けることがその方向へと自然に導いてくれるのかと言えばそうではありません。その辺りが実に頭の痛いところなのですが、僕自身が模索していくしかないのだと考えています。

もし、写真で何かを表現したい、伝えたい、感動を享受したいと考えている方はいつでもいらして下さい。

その為のドアは開いています。

自分自身の気持ちに躊躇しているだけでは何も起きませんし、動かなければそれは寝て見る夢にしかなりません。

次はSha-gaku vol.2でお会いします。

そこにひとつの光は見えていますので、是非お越しになりご自身の眼で確認下さい。

2011年1月16日日曜日

今日が最終日です。

さて、江口敬写真展”Beyond”は今日が最終日となります。急遽、思いついたようにUstライブ配信を行うこととしましたが、どれほど会場内の雰囲気を画面から感じてもらえるかは分かりません。トークといったイベントをするわけでもなく、ただ数アングルで会場内を映しているだけです。意味はあるのかと問われれば、答えることも出来ません。


ただ、いろいろな人に見て欲しい、それだけなのでしょう。このような文化・アート関連のものは限られたものだけの「閉じた世界」のように受け止められています。以前は、それに関係した人々も何かえらいことをしているような誤った感覚を持ち、それだけで悦に入っている、そんな雰囲気もありました。

本来文化・アートは、生活の中から生み出されたものであって、切り離すことが出来ないものと思っています。特に僕が扱っているものは写真です。写真は画像も含めるとあらゆるところで見ることが出来、誰しもが手にし、日常的に撮ることさえ出来るものです。それゆえ、それがアート足りえるかとの疑問を持つ方がいらっしゃることは確かです。

それでも、その中から作品足りえるものとして、独創的でダイナミック、そして普遍的な性格を持ちうる表現で、目の前に現れることは数少ないのです。それは、自身がカメラを手に取り、実際写真を撮られている方ほど理解出来るものです。僕は、そんな写真が実際にあり、そして誰にでも作りだせるチャンスがあることを、ギャラリーでお見せしたいと常々考えていました。
この写真展は、大げさに言うとそれらの回答のようなものでもあるわけです。

もし、現状の自分の写真とは違った一面を作品として見てみたい方、カメラを手にしたばかりで撮るのが楽しくてしょうがない方、ちょっと行き詰っているんだよと思われている方、そしてこのブログを偶然見てしまった方は、是非ギャラリーへ見に来て下さい。

どうしても来れない方はこちらから眺めてみて下さい。

 

1時間ごとに、セットの為一時中断します。予定では1400-1900となっていますが、都合により早めに終了する場合もありますので、お見逃しなく!

2011年1月15日土曜日

ガンバレ、受験生。

外は一面雪景色です。目覚めてカーテンを開けた時には、雪は降っておらず、天気予報で言われている大荒れの天気は、今夜あたりからなのかなと思いながら、下へ降りてきました。一階のビルの入口から見える風景は、すっかり雪で覆われていて、夜遅くから結構な雪が降ったことを初めて知りました。


今日はセンター試験の日です。お天気に文句を言ったところで始まらないのですが、この雪が受験生に影響を与えないようにしてほしいです。交通面という物理的なことが一番ですが、想定外のことが起こると心理的な部分にも影響を及ぼしますからね。

今は幼稚園から「お受験」と言われ、子供ながらに競争を意識させられる機会が増えています。それでも、大学受験が大抵は個人で選択した最初の競争なんじゃないかなと思います。いろいろな目的を持って、大学を選ぶわけですが、そこから先も見こしているはずです。もちろん、大学進学を選択せずに、就職をされる人にとってもそれは一緒です。

自分の周りにいる見ず知らずの人間が全て敵であり、結果が明確な数字として出されるのですから、緊張しない方が嘘になります。試験側の裁量といったものもなく、受験生それぞれを個人としては見ていませんし、人生にとっての不条理の始まりのような気もします。

でも、意外に当人は全くそんなことは思ってもいなく、至極冷静に対処しているものです。受験準備において、その方法論や対応法なりを学習しているし、周りを気にしたところで、結局は自分自身の結果で反映されるだけですからね。僕の場合も、そうだったように思います。その頃はセンター試験はなく、直接大学での試験でしたが、今では前日に泊まった旅館の夕食がとんかつで、とても固くて不味いものだったことぐらいが思い起こされ、実際の試験での状況はほとんど記憶にありません。

それでもやはり勝負の時ではあるわけで、今言えることは、いつもと変わらず、今の自分で臨んでほしいということだけです。

ガンバレ、受験生。

お天気も彼らの気持ちを汲んで下さいよ。

2011年1月14日金曜日

いつもとは少しだけ違う朝

昨夜は久しぶりに知り合いの方と外で夕食をしました。こちらに来てからは外で食事する機会が無くなっていたので、結構新鮮な気持ちになりました。以前は、しょっちゅう出歩いては、夜の街を徘徊していたのですが、最近はそんなことも無くなりました。


特に興味が無くなったからというわけではないのですが、何となくそんな感じになってしまうと、出歩くこと自体面倒になってくるものです。なので、もっぱら夜はpolkaの相手をするようになってきました。昨夜もそれほど遅い時間でもなく、部屋へ戻ったのですが、何故か身体にだるさを覚え、すぐに寝てしまいました。polkaもそんな僕の様子に気付いているわけでもなく、ベットへともぐり込んでからは、特に寄っても来ませんでした。

そして、朝方5時頃に、いつものように鳴き始めました。そう、新しい水とエサを要求してくるのです。いつもは、準備をしてあげてから、また寝たりするのですが、今日はややだるさも残り、寝ていた時間が長かったせいか起き上がるのが億劫で、そのままにしていました。polkaは執拗なほど耳元で鳴いては、頭を身体にこすりつけてきます。終いには、身体に乗ってきては、そこから床へとジャンプし始めます。polkaにとってはいつものルーチンワークのつもりでしているのでしょうが、違う点は今日は僕が起きないことです。1時間ほどして、しかたなく僕は起き上がったのですが、もしこのまま起き上がらずにいたなら、polkaはどういう態度をとったのかなと考えました。

きっと、起きてこない僕の様子に異変は感じるのでしょうが、あきらめて寝てしまうような気がします。やや哀しい結末かとは思われますが、きっとそうなのでしょう。

polkaは今、水もエサも食べ終えて、すっかり安心をしたのか、一人掛けソファで身を丸めています。僕はと言えば、そんな姿をぼんやりと眺めているだけです。今朝はあいにくの曇り空で差し込む朝日はありません。薄暗い部屋の中で、朝を感じさせるものはテレビから流れてくる男性司会者の声だけです。

今日もいつもの一日が始まります。

繰り返される毎日は、polkaには永遠であるかのように感じているのだろうか。

それもまた幸せなことなのだろう。

2011年1月13日木曜日

楽しみのひとつ

人はそれぞれいくつかの顔を持つ。


社会の中で生きていくに当たって、大抵はそれぞれの役割や肩書を持ちながら過ごしています。公的、私的といった区分けもあるでしょうし、仕事としていくつかの種類をこなし、その時々で違った側面を見せている場合もあります。

私的な顔は、家族であったり、ごく身近な人や気心の知れた仲間にしか見せない人が多いと思います。一方、公的な顔は、その立場や役割に応じて、自分が気に入らない場合でも、その役割を演じなければなりません。舞台という閉ざされた特殊な空間で演じる役者とは違い、一般社会が舞台ですから、慣習や常識、この立場であればそうすべきといった規範のようなものに縛られるわけです。(会社は特殊な空間でもあるわけで、ある意味役者以上に役を意識しているものですが)

そういった部分での緊張や義務感といったものが、日常的なストレスを発生させるものです。そんな日常を離れようとして、趣味を持ったり、家族との団らんを楽しんだり、友人や仲間との他愛のない会話や酒を交わしたりすることで、限られた時間の中で、私的な顔を見せているように思います。しかしながら、現代はそんな他人との関わりに煩わしさを覚え、ますます、私的な顔がどこにあるのかも分からなくなってきているような気がします。

ギャラリーに来られる方々の多くは、公的な顔ではいらっしゃいません。かと言って、私的な顔で来られるかと言えば、これも少し違います。ギャラリー内で眼にするものは、いわゆる有用性のあるものではなく、むしろそれを否定し、その上で美的価値を提示することで、鑑賞者たるお客さん自身の教養や趣味を高めようとしているものと言って良いと思います。(だいぶ大げさですが)その為、ギャラリーは商品(作品)を売る場という側面を持ちながら、お客さんにその世界の意味するところを感じて、考えてもらう場でもあります。

だから、多くのお客さんは、無意識のうちに、構えているような顔になります。公的、私的いずれでも無い顔になるわけです。無表情に近いかもしれませんね。そして、何かを自分自身で感じ、それが腑に落ちたり、納得し安心されると、初めて表情を和らげます。また、それとは逆に理解不能で困惑の表情を見せる場合もあります。

人はそれぞれいくつかの顔を持っています。自分で気がついていない顔もあります。

ギャラリーはそんな顔を自己発見出来る非日常的な空間でもあります。

さて、今日はどんな顔を見せてくれるのでしょうか。

これも、僕の楽しみのひとつです。(大変失礼ではありますが・・・。)

2011年1月12日水曜日

楽しさを見つけよう。

楽しさは行動を変化させる。


どこかで聞いたことがあるフレーズじゃないかと思います。仕事にしても趣味にしても、今していることに楽しみを見いだせれば、自然とその行動はより楽しい方向へと変わっていくものです。言われれば当たり前だよと思うかもしれませんが、常日頃そうだと感じながら生活している人は少ないように思います。

実際、僕だって、今こうしてブログを書いているわけですが、書くものがないなとか今日はちょっと調子が悪いから書かずにおこうと考えたりして、楽しみどころではない時も間々あります。それでも、自分で決めてことだし、もしかしたらキーボードを叩いている内に意識の外で手が動くかもしれないじゃないと言い聞かせながら、毎日向かい、書き終えた後に今日は楽しめたかなと顧みるわけです。

仕事や趣味についても楽しいことばかりではなく、仕事にいたってはむしろその逆の場合の方が多いように思えます。特に、若い時分は、栽量も自由もほとんど無く、上下関係だけで強制的に仕事を与えられていると感じている内は、そこに楽しさを見出すことは不可能とさえ思えます。このまま、一生こうして生きていくのかなと悲嘆に暮れるわけです。

しかしながら、自分が思い描いていることを達成する為のひとつのステップであったり、自分なりに楽しさや価値感なりをほんの少しでもそこに感じられたなら、自分で気づかない部分で行動が変わってきます。おそらく、最初は意識が変わるのだと思いますが。

それを、モチベーションとか志と言ったりするのでしょうが、個人的には何か大げさなことのように感じる場合があります。楽しいからこうしているし、こうすればきっと楽しくなれると思えるから、の方が僕自身にはあっているように感じます。それよりも、むしろそう思えるようになったきっかけやこれからの方向性の方が大事であって、それ自体を見逃さないようにすること、そしてその行き場を間違えないようにしたいと考えています。

でもね、時々その行き場にも不安を覚えるものです。

取りあえずは、今日も何か楽しさを見つけようとしますか。

2011年1月11日火曜日

今しか出来ないこと~Ustライブします。

いやぁ、寒いです。日本全国でそんな声が聞こえてきそうな朝です。ギャラリーもエアコンを入れたばかりですが、外が寒いせいかすぐには動き出そうとしません。そんなわけで、コートを着込んだままキーボードを叩いています。


今日は緊急の告知です。現在会期中の江口敬写真展”Beyond”は残り1週間となりました。急に襲ってきた寒さもあり、なかなか外に出るのも億劫に感じられるのか、正直客足が伸びません。多くの方にお見せしたい写真展なのですが、持ち運びは出来ませんから、是非ご足労でもギャラリーに訪れ、写真の可能性に触れてみて下さい。

最終日となる16日(日)は、江口さんもいらっしゃいます。作家本人と話が出来ると、もっと詳しい制作内容なんかが聞けますので、来ていただけることが一番なのですが、どうしても来れないという方の為に、Ustライブ中継を行うことで、少しでもその雰囲気を伝えたいと思います。

日時は、16日(日)14:00-19:00 の予定です。カメラのアングルを何度か変え、会場が全て見られるようにするつもりです。でも、特別にイベントはしません。ただ、会場を映しているだけになります。会場の雰囲気を映像で感じながら、サイトで公開している作品を見ていただくと、少しはその世界にいたような感じになれるかもしれません。

放送チャンネルはこちらになります。

http://www.ustream.tv/channel/eguchi-takashi-beyond

過去に2回同様なライブを行っています。その結果どうなったと言うわけではありませんが、これも今だから出来ることです。

そして、今しか出来ないことのひとつです。

せひとも参加して見て下さい。

2011年1月10日月曜日

ザックジャパン、苦い船出

昨夜から始まったサッカーアジアカップ2011、ザックジャパン初めての公式戦は、ご存じのようにかろうじてドローという苦いスタートとなりました。テレビに映し出される、ザッケローニ監督、そして選手個々の顔に笑顔は有りませんでした。


昨年のワールドカップでのベスト16入りは大きなニュースとなり、暗い世相に明るい話題を振りまいてくれました。ランキング上ではほぼ格下相手となるアジアカップは、当然勝って当たり前の雰囲気ですから、かえって難しい戦いになるのです。

8月の監督就任後の試合はいずれも親善試合、双方のモチベーションもそれほど高くなく、しかもいずれもホームでの試合でした。ほぼ順調な滑り出しをしていたわけですが、やはり公式戦、国同士の戦いになるとまるで違うと言うことです。しかも、会場は中東のドーハ(あのドーハです)ですから、まるっきりのアウェイです。

昨日の試合を見ていると、素人目にも動きが鈍い印象を受けました。スタメンの8割以上が海外のクラブチームに所属し(これはこれで良いことですが)、国内組も他の大会との兼ね合いにより、やはり準備不足は否めないのかもしれません。そこに来て、引いて守っている相手ですから、格下とは言えなかなか崩すことは出来ません。

そして、もっとも感じたのは、選手のコミュニケーションがうまくいっていないなということです。これは、当たり前ですが、言葉が通じていないことではなく、ひとつのボールを通してお互いに感じ、動き、会話しているような感じが見られないことを意味します。個々の能力で打開していけるほど、まだ日本の実力は無く、組織的に戦術を組み立てないとうまく機能しないし、それにはそこに到るまでの意思疎通だったり、準備が必要なんだと思うわけです。

これは何もサッカーに限ったわけではなく、普通の仕事にしてもよく言われることです。また、ひとりのスターだけでは機能しないことも分かっています。

まだ始まったばかりですが、ちょっと心配ですね。

でも、彼等はプロですから、しなければいけないことは分かっているはずです。

2011年1月9日日曜日

音もなく雪が降ったようだ。

昨夜遅くから雪が降ったようで、今朝の路面にはザラメ状の雪がうっすらと残っていました。激しい雨の音に起こされることはあっても、雪の場合だとほとんど気づかないものです。よく、降る雪を「シンシン」と擬音で表わしますが、これって日本語特有の表現なんでしょうかね。


僕は英語、ドイツ語と習った経験はありますけど、日本人のほとんどがそうであるように使えるわけでもなく、このような表現があるのかどうかも分かりません。このような表現方法って、普段は何気なく使っていますし、とりたててどうなのと考えたことは有りませんが、時折素敵だなと思える時があります。

話し言葉や書き言葉として、目に見えない、耳に聞こえない状況を擬音化することは、情緒性や感情性といった点でも少し飛びぬけた表現なんだと思います。「雨がしとしと・・・」とか「しーんと静まり返った・・・」とか言われると、あぁ、と何故かしっくりと状況が理解出来るような気がします。日本人として、幼い頃からそう教えられてきたからねと言われれば、まぁ、そうだよねというしかないのですが・・・。

日本人は感情を表面に出さず、返答も曖昧で、いつも無表情な国民のように思われがちです。確かに過去に知り合った外国人の感情の表わし方と比べるとやや平坦でハッキリしないとは、自分自身も含めてそう感じます。

でも、擬音や行間を読むとか間を作るといった方法で、目には見えない、耳には聞こえてこないそこにある感情や状況を感じ取り、表現出来ることには、思いがけずに感心させられることがあります。何か僕が外国人であるような言い方をしているようですが、実際日常でそんなことを考えることはあまり無く、普段何気なく使っているものだから、逆にそう思えてしまうのかもしれません。

今日も風がぴゅーぴゅーと冷たそうです。

ギャラリーの中はほかほかとして心地良いはずです。

心にぐさっと突き刺さるような、そしてじわーっと沁み入るような写真を見に来ませんか。

(僕が使うと何か陳腐にしか聞こえないな・・・・。)

2011年1月8日土曜日

あなたにとっての"Beyond"

次回企画展の”Sha-gaku vol.2”のDMが出来てきました。年末年始の休みもあった為にちょっと遅めの出来上がりです。来週以降配布していきますので、街角で見かけたら、手にとって見て下さい。


Sha-gakuは、昨年6月に初めて公募として開催した企画展です。対象は、写真を作品として発表してみたい全ての方です。テーマや展示に関しての制約はほとんどありません。(壁を壊さない限り)一回目は、ギャラリーに訪れてくれた方々にも協力を仰ぎ、参加していただいた経緯は有りますが、非常にまとまりのある展示会でした。

既にサイトでは紹介していますが、今回は6名の男女が参加されます。皆さん、自分の自由意思で参加を決めています。よくある決まった筋書きに沿って行われるものとはまるで違います。もちろん、Sha-gakuに参加することが、今のところ、写真家への道であったり、ステータスにはなりませんから、純粋に発表してみたいとの思いが強い方々なのです。そういった意味では、今回のSha-gakuが、始めに考えていた趣向に近づいたのかなと思っています。

昨日も夕方に参加者のひとりが見えられ、これまで考えていたものとは違った展示プランを持ってきました。それがとてもユニークなのです。この場で、こういうものだとは明かせませんが、その発想に面白さを感じました。現実の形として行うには様々な問題があり、果たして見る方に素直に受け入れられるかも分かりません。そんな実験的要素が強い展示だと言えます。

でもね、その発想が実は大事なことで、僕も単純にワクワクとさせられます。そうなってくると、何とかならないかと考えるわけです。もちろん、費用をかければいくらでも出来ます。その辺りがいつもジレンマとして感じるのですが、現実問題として考えなければいけないのは確かですし、方向性や実現性を提示することも僕の仕事のひとつなのです。

さて、初個展の場としてこのギャラリーを選んでくれた江口さんもSha-gakuに参加して下さった方のひとりです。今日から3連休に入った方は多くいらっしゃるのではないかと思いますが、正月休みの疲れ?を癒す日として考えている方は、その時間の一部をギャラリーで使ってみてはいかがでしょうか。日常の慌ただしさや喧騒から離れ、安らげる空間がここにはあります。

そして、あなたにとっての"Beyond"を感じて下さい。

2011年1月7日金曜日

「矜持」

NHK 「あさイチ」に脚本、演出家の三谷幸喜さんがゲスト出演していました。今日が舞台「ろくでなし啄木」の初日のようで、朝からテレビ出演なんかして大丈夫なのと思いながら、少しだけ見ていました。三谷さんは今年7月に50歳を迎え、これを記念してこの1年を「大感謝祭」と銘打ち、舞台4本のほか、映画、ドラマ、小説と計7本の新作を発表するとのことです。


それにしても、その制作スケジュールを見ると、こんなペースで書けるのと思ってしまうほどの多さです。演出もするわけですから、本だけに専念することも出来ずによくもまあと、改めてその制作意欲と持続できる力に驚かされます。

三谷さんと言えば、シチュエーションコメディが得意で、暗転もしないまま芝居を進行させることが出来る、非常に構成力に秀でた脚本・演出家のひとりだと思っています。また、昨年放映されたテレビドラマ「わが家の歴史」でもあれほどの大人数の中、大きな破たんも無く、面白可笑しく、そして哀しく物語を綴れる力は並ではありません。

今回の「ろくでなし啄木」は珍しく評伝物のようですが、井上ひさしさんのそれとはまるで違った視点で芝居にするのだろうなと想像されます。舞台4本の内、どれか一つでも見られたらいいなとは考えています。

三谷さんはこの「大感謝祭」をたまたま同時進行の企画が集中してしまったからと話しているようですが、並大抵の覚悟では出来るものではありません。同時に、自分が影響を受けてきた舞台や映画・テレビ、これまで支えてくれた人たちへの恩返しと語っているあたりは、やはり人柄なんですね。

その気持ちはよく分かります。僕は三谷さんのようにその道で第一線の活躍をし、認められた人間ではありませんが、やはりどこかでそんな気持ちがあったのだと思います。でなきゃ、客観的に見て、これまで誰も手を出さなかったこと、これからどうなるかも分からないようなものを、この土地で行っていないですから。

今回の7作はいずれも本人曰く?喜劇ではないとしています。この辺りも、三谷幸喜たる所以のように感じます。僕自身同年代として、世の中元気な人間が少ないように感じますから、下の世代に希望を見せられる様なものであって欲しいと思っています。

なぜなら、この行為自体、三谷さんが持ちうる「矜持」なのですから。

2011年1月6日木曜日

小寒の日

今日は寒の入り、小寒らしいです。一年で一番寒さが厳しい時期の始まりです。年末年始には日本海側では大雪に見舞われ、大変な災害をもたらしましたが、昨日はお隣の北京やソウルでも大雪だったそうです。その寒気が日本へと向かっている為、7日頃までは大荒れになると各局の天気予報士は注意を促しています。


仙台は今、日差しがあるものの、ちらほらと雪が舞っています。まだ、降っているとの表現が似合わない程度の弱いものです。それにしても、そうなるよと注意を促されても、どうしたらいいの?とほとんどの人はそう感じていると思います。大人しく部屋にいなさいと言われても、仕事はあるだろうし、交通機関だって自分ではどうすることも出来ないわけですから、まさに災難が通り過ぎ、無事であることを願うしかないのかもしれません。

50年程度でも、生活をしていると、そんな状況に遭遇することが間々あり、それは個人の領域を越えているよなと感じると同時に、やっぱりひとりでは生きていけないことを実感させてくれます。自然との関係は、前触れも無く訪れる場合が多いのですが、人との関係は、その人が持つ経験知により、ある程度予想の範囲に収まる場合があります。

そんな時には、やっぱりそうなったかとか予想通りだねと言葉にしたりします。そして、その言葉を聞く場面の多くは、良くない結果の時が多いように感じます。あらかじめ自分の中で予防線を張っておくと、多少自嘲気味でもそんな言葉が出るものです。全く予想だにしない結果の場合、言葉すら出ませんからね。

また、自分にとって良くないことが続くと、誰しも物の考え方や捉え方がネガティブになってきます。特に体調が優れなくなると、ますますその傾向は強くなります。やがてそれは自分自身だけではなく、周りにも影響を与えてくるようになってきます。そうして、最終的には・・・・。



いやぁ、それは嫌だなと強く思います。同時に例えば明るい未来をじっと待ち望んでいるだけでは、解決出来ないことだよなとも思います。では、どうしたら良いのでしょう。

その答えを自分なりに出すことが、ここに写真ギャラリーを構えた理由でもあるのです。

2011年1月5日水曜日

残り2週間のメランコリック

昨日から年明け再スタートした江口敬写真展”Beyond”ですが、終幕まで休み無しで行う予定になっています。(16日土曜まで)とは言っても、残り約2週間ですから、それほど長いとの感覚はありません。むしろ、あと2週間でこの展示も見られなくなるほうに少しだけ寂しさを覚えます。


展示はライブであって、永久保存でない限り、いつの日かは消えてしまうものです。見て下さった方々の記憶の片隅に残るだけです。写真という記録を役割づけられたものが、自らの展示を記録づけられないことに矛盾を感じながら、その場でしか味わえない空間構成や空気感、雰囲気といったものまでを伝える為にその場を作っているのです。

この世にある全てのものはいずれその形を失うもので、いちいちその内容に感傷的になっていても仕方ないことです。それでも、作家にとっての作品は自分自身の分身であったり子供のようなものです。そして、それらが文字通りお披露目され、人数の多い少ないに関わらず、見られ、評価されることはすごく稀なことだと言えます。(特にアマチュアの方は一生に一度なんてこともあり得ますし)

だからといって、展示、発表することは、いささかオオゴトのように感じますが、一大事ではありません。なぜなら、結局のところ、今ある自分を表現しうるものでしかないからです。それ以下になることはあっても、それ以上にはならないわけです。

ギャラリーで主催し参加を募っている企画で、唯一制限されていることは、出展するものが写真作品であることです。その他は参加者の自由に委ねられています。

これは、僕自身が仕事を放棄しているわけではなく、作品の制作やそれに対する思い、実際の展示手段、スタイルといったものは参加者それぞれ考え方が違うもので、それ自体を尊重する必要があると理解しているからです。なので、僕はそれらが最大限の力を出せるように、見守るだけしか出来ないように思えます。

そして、そんな形で展示・発表されたものは、自然と僕自身にも影響を与え、終演を迎えるにつれ寂しさに繋がっていくのです。

2011年1月4日火曜日

2011年の始まり

さてっと、今日から2011年の始まりです。昨日も一昨日もギャラリーにはいたので、仕事始めといった感じではないのですが、それでも何か違っているように思えます。これといって変わったことはしません。いや、出来ません。


写真を通して、皆さんに新しい何かを感じてもらえるように、静かに深く考えていくだけです。ふとしたきっかけでカメラを手にし、写真に興味や魅力を感じた方は、是非一度お越し下さい。写真を専門として、そのアート性や可能性といったものを見せられる場所は、東北ではここしかないと思っています。

少し上から目線のもの言いになっていますけど、根本はもっと楽しい領域があることを知ってもらい、自らが表現・発表する喜びを感じてもらいたいだけです。その為には、より面白いもの、知りえなかったこと、新しい発見をギャラリーで感じて欲しいのです。

そして、その一歩を踏み出そうとしている人々の作品に共感を覚えたら、支援・応援をしていただけると幸いです。水面に落ちる一滴は、やがて大きな波紋を生むように、その波を大きく拡げていってほしいのです。そのフィールドは、誰にでも開かれているものなのですから。

ひとりの人にとっての時間は有限です。しかし、創造の可能性は無限なんだと思います。まさにこの時が始まりであって良いわけで、そしてその機会や能力といったものは、決して特別な人々の為に与えられたものではないはずです。

僕はそんな思いを持った方々を心から待っています。

もちろん興味のみで来られても全然構いません。

先ずは、ギャラリーでお会いましょう。

2011年1月3日月曜日

何もしない日

この2日間、何もしない日だったような気がします。気がしますと書いたのは、実際のところは必ず何かをしているわけで、そう感じるだけだからです。人間一日生きるうちに、テレビを見たり、食事をしたり、或いはお風呂に入ったりといろいろなことをしています。また行動としては表れないものの、考え事もしていますから、やはり生存のため以外に何かをしていないのは、寝ている時だけなのかと思ったりします。


でも、ある人は寝ている間に見る夢なんかからひらめきをもらい、何かを作りだすことだってあるのですから、そうとも言えないのかもしれません。まぁ、一般的にはそんなことを意識して寝る人をあまり知りませんので、何もしていないのだとは思います。

仕事をしていない休みの日に、人は良くその日は何もしなかったなと言います。それでも他人が見ればいろいろとしてるように感じることの方が多いように思えます。それは、自分自身は行わないことを、その人がしているからなのでしょうね。

また、することの頻度や中身にも寄るのだと言えます。一日に何時間も何度もその事をしていれば、今日はこれをずっとしていたと思えるでしょうし、たとえ短時間であっても、とても充実し満足することが出来れば、同じようにそう思えるものです。

仕事にしても、今日は何もしなかったなと思える日があります。サラリーマンの頃は、嫌でも職場に向かい、今日一日何事も無く過ごしたいと思えた日もありましたし、逆に思いのほか期待通りの結果が出ずに、今日は何もしていなかったのと同じだなと感じたこともありました。

ということは、何かをしたと思える多くの部分は、実際の行動よりも気持ちにあるのかということになります。行動した結果として、形が残らない場合は、特にそうなのかもしれませんし、形ある物として残る場合は、作り上げた満足度や充足度に影響されることになります。

さて、今日も何もしない日になるのでしょうか。僕自身は、そうしようと思っています。積極的に何もしないことで、フッと見えるものがあるかもしれません。

誰にも分かりませんけどね。

2011年1月2日日曜日

シグナル

新年2日目。特に変わったことも無く、だらだらと過ごしています。polkaも普段と変わらずにマイペースで寝ては、食べを繰り返しています。僕がいつもと違って部屋にいるので気になるのかと言えばそうでもないようです。


きっとpolkaにとっては、新年とかまた歳をとったとかの感覚はないのかもしれません。普段と変わらぬペットフードを食べながら、日長一日、自由なまま過ごしているだけなのでしょう。これが本当の自然にいる動物とは違うところなんでしょうね。

僕が突然動き出しても驚きもせず、掃除機の音を嫌がって奥に隠れるくらいがせいぜい関の山です。一応何をしそうなのかをじっと眼で追っているようではありますが、特にそれに関心があるわけではなく、ただ見ているだけです。何事も危険を感じずに生きられることにすっかり慣れてしまっていますし、まさに部屋自体がpolkaにとっては自由の空間と感じているのだと思います。

犬の場合は、飼い主とペットとに主従関係がありますし、家族の中でも犬自身が順番を付けると言われています。ネコの場合は、それはないですし、まさに気ままを絵にかいたような生活スタイルです。まぁ、その辺りが僕の性格には合っているようで、特に困ったことはありません。

去年は何度か病院のお世話にもなり、なんかペットらしい気にさせてくれましたが、本人にとっては迷惑この上ない話だったに違いありません。もちろん、そんなことになることを僕自身も望んでいませんし、第一元気が無くなり、動きが鈍くなっていく姿を見るのは何にしても心地よいものではありません。

ときどき、polkaにも喜びや悲しみといった感情があるのではと思ったりすることもあるのですが、本当のところは分かりません。もしかしたら、人間以上に感情を持っているかもしれません。膝の上で身体を撫でつけている時に見せる表情に笑顔は見られずとも、そこには語らずとも感じるものはありますからね。

人にしても、この人は無表情で感情を表わさないから良く分からないと言ったりします。それでも、どこかでシグナルは出しているものです。あまりに身近である為に、気づかないこともありますけど、そういうものだと僕は思っています。ギャラリーに来られるお客さんにしても、きっとそうであって、出来るだけそれを感じようとしています。もちろん、polkaに対してのそれとは違っています。なにより、言葉を交わせるのですから。

さて、どうやら今日はギャラリーへお客さんが来るようです。素直に嬉しいことです。

どんなシグナルを出して下さるのか、楽しみです。

2011年1月1日土曜日

新年あけましておめでとうございます。

新年あけましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。

2011年始まりの日です。今年は個人的な理由で年賀状を出していませんので、この場をかりて皆さんへの新年のあいさつとします。大晦日から夜が明けたからといって、変わることもなく、いつものようにまだ暖まらないギャラリーにいます。

大荒れと言われていた天気も日本海側は大変そうですが、こちらでは雪が降るでもなく、雲は多いものの、比較的暖かく感じられます。車の行き来も普段よりもかなり少なく、休日の中でも特別な一日なんだなと思わせてくれます。

今日と明日は時に予定も立てずに、のんびりしようかと思っています。仙台は初売りが全国的にも有名で、2日の朝から一部の地域で買い物客が殺到する様子が見られます。おそらくは今日もその準備で出勤する方もいらっしゃるのではないでしょうか。ホント、ご苦労様です。

昨年もずっと変わらぬ不況の中、何か暗く重い感じを受けながら過ごしてきたように思いますが、さて今年はどうなるのでしょう。僕自身としては、すこしでも明るく、楽しみながら生きていたいと思うのですが、現実がそれに追いついていかない葛藤を感じながら、過ごしていたような気がします。

そうは言っても、いつも暗い顔をして、グチをこぼしながら、毎日をネガティブに捉えていても面白くもなく、生きている感覚も薄れていくようなので、前を向いていようとするわけです。人はそれをやせ我慢とか無理というようですが、気が付かないフリをしています。(ホントはとても小心者なんです)

さて、今年こそは、と意気込んでいる方もいらっしゃると思いますが、精神的には良いことです。僕は、自然な中でどれほどの出会いや喜びを感じられる瞬間を持てるか、その数が多ければ多いほど、結果は付いてくるものだと考えています。物的な喜びや対価はつかの間で、しかしながら現実としては必要不可欠なものです。でも、それ以上に大切なものは誰にもあるはずで、そんな「かけがいのない」ものをこぼさぬように大事にすくい取っていきたいと思っています。

皆さんはどう過ごしていきますか。