2011年1月20日木曜日

満足や充足

昨日は時折ちらちらと雪が舞い、相変わらずの寒さでしたが、風がやや収まった時を狙って、駅前まで備品等を買いに行きました。久しぶりに街の様子を眺めていると、自転車で動いている人は明らかに減っていますし、駅前のデッキに佇む人の数も普段の半分程度だったように思います。


それでも、東口にある大手家電店には平日の昼間にもかかわらず、多くのお客さんがいました。仕事の途中であったり、外は寒いので少しの間、寒さしのぎをしているお客さんも見かけましたが、大抵の方は自分の目的に沿った売り場で、店員と話したり、商品を手に取り検討しているようです。カメラ売り場にも数人がファインダーをのぞき込んだり、実際にカメラを構えている方がいました。

カメラは今でも基本的に高価なものです。そして、ほとんどの方は生活必需品として手にすることはないものです。カメラがあったからといって、お湯を沸かせるわけでも、食事の準備が出来るわけでもありません。まさに手にすることの喜びであったり、撮影した写真を見て楽しんだり、あるいは情報伝達のツールとしての役割を担い、あくまで個人的な趣向で購入されるものです。多くの人は所有することの満足感や気に入った写真が撮れた時の高揚感に価値を見いだし、高いお金を払っているとも言えます。

しかしながら、そこから写し撮られる情景は、その時代を切り取った瞬間であったり、限りなく美しいものであったり、得も言えぬ感動を呼び起こすものであったりします。また、写し撮られた写真のほとんどは、ストックされまたは削除され、陽の目を見ることなく忘れ去られるものです。その人自身のある一定の価値観によって選ばれたものだけが、残っていきます。なので、気がつくとそこに写されたものには、必ず自分の好みや色、そして自分自身の感情や思いが入り込んでいるのです。

そして、そんな数少ない写真が得る価値というものは、記録物から作品として昇華してこそのものだと、僕は思います。発表することには多くのエネルギーと勇気が必要かもしれません。でもね、その先にある充足感や言われも無い高揚感は、行った者だけにしか分からないのです。その辺りが多くの人が発表に至れない大きな問題なのですが・・・。

カメラを持っているだけ、技術的に上手くなれば充分満足なんだと仰る方は、それはそれで良いのだと思います。でも、もし自分自身の表現手段としてカメラを取り、写真を撮られていると感じているのなら、先ずは発表して見ることです。

共感は常に個から始まるものです。

さまざまな個と個が集い、互いに競い合うことなく自由に表現出来る場としてギャラリーがあるのなら、もはや場所や規模は関係ないことで、それだけで良いとさえ思えます。

もしそのことで、ほんの少しの元気や幸せを共感出来るのなら・・・。

満足や充足は自分自身だけのものではないはずですから。

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