2011年2月28日月曜日

捉われることなく

明日からの”Gallery Collection & Photo Showcase”に向けて、今日が最終調整の日です。特に問題もなく、準備が終了するだろうと予想しています。9割がた整ったギャラリー全体を眺めていると、今回はやや小ぶりかなとは感じます。それでも、写真好き、自らが撮影を楽しんでいる方々には、多くのスタイルの作品があるので、充分見応えはあると思います。


”Gallery Collection “側が、16×20インチサイズで13点、” Photo Showcase”側は、B2サイズからキャビネまで大小合わせて、約20点、ポートフォリオとして、約100点あります。個人のギャラリーとしては、多い方かなと感じますし、展示もそれぞれ趣向を凝らしていますので、作品制作の参考にもなるのではないでしょうか。

昨日行われた東京マラソンでは、市民ランナーが日本人トップでゴールし、世界陸上の切符を掴んだようです。プロ、アマの境界やキャリアや環境に捉われず、それぞれが自身の意思や思いを体現することは、スポーツの世界だけではありません。むしろ、体力といった、ある程度持って生まれたモノ以外で勝負出来る魅力が写真にはあります。

まだ見ぬ原石はどこかで埋もれ、いつも生まれようとしているのです。それをどこかで自分自身が押さえつけてはいないかと、写真を撮られている方々にこうして実際の展示という目に見える形で僕は問いかけています。

決められた通りの道筋に従って、すんなりと歩むことはそれはそれで良いことです。でも、そんなマニュアルやシステムに沿っていけるほど、生きる道は単純ではないことを、誰もが知っています。そして、その道は険しいより、楽な方が良いに決まっていますし、実際多くの人はそうなりたい、そうなれるように目の前のごたごたを日々対処して過ごしているわけです。僕自身もそうです。

でもね、可能性は誰にでもあり、表現の世界では一切捉われることなく誰もが自由であるべきです。日々ままならぬ不条理に翻弄されながら、唯一自分自身を表現出来る手段としてカメラを手にした方々は、まずはギャラリーで作品に触れてみて下さい。今回の写真展も楽しさや可能性が一杯の作品たちで埋め尽くされています。

そして、もし、それらに、何か感じ、そこから刺激を受けたのなら、一旦消化してから、今度は自分自身で行動してみて下さい。刺激はいっときで、すぐに忘れてしまうものですから。

それとも、あなたはまだ躊躇し、楽な方へと導かれてしまいますか。

2011年2月27日日曜日

話が長すぎると思う今日この頃

2月も後2日で終わります。今日と明日とで”Gallery Collection & Photo Showcase”の展示も終了し、皆様へお披露目することとなります。今日は、小出さん、永井さんの二人の展示を予定していますが、僕もどのようになるか分かりません。


2人の場合は、すでに数多くの展示経験があり、今回は多くの点数を展示するわけではないので、まぁ僕としてはお任せ状態です。展示される内容が分かっていれば良いので、その点ではあまり心配はしていません。

それにしても、今月は忙しくもなく暇でもなく、その割にはゆっくりと考える時間が少なかったように思えます。時間はたっぷりあるはずなのに、目の前の事柄を優先してながら、他の事項も脇目で見ながらが多かったので、そうなってしまいました。結局は僕自身の不器用さに起因しているのだと思います。

会期準備中でもあり、写真を見せに来てくれたり、先の企画に沿ったワークショップを個別にしていたりと、そう多くはないのですが、自由になる時間は少なくなってしまいました。人と話をしていると、僕自身も夢中になってしまい、ついつい2、3時間が過ぎてしまっていたりして、ちょっと余計なことを話しすぎたなと反省しきりです。

でもね、これも少しずつでも集まってくれている人への感謝の態度なんです。元来、僕は話ベタ、文章ベタで、いわゆる人に物事を伝える、話すことがもっとも苦手なタイプで、今でも出来れば避けたいくらいなんです。人に感動や思いを伝えるにはなんてことをあからさまに言っている人間がこんなことを話しちゃいけないのですが、実際はそうなんです。だから、僕も来て下さる人と同じように悩み、幾分苦しみながら考え、そして出来るだけのことを伝えなければならないと思っているわけで、その結果として伝えるための時間が必要になり、いつも長めになってしまうのです。

難しいことや感覚的な話はあまりしません。より具体的なことを、自分自身が理解出来ることを前提に話しています。分からないことは分からないとは言いますが、けっして考えていないわけではありません。ふとしたきっかけで分かる場合もあるから、分からないまま残し、そうだと思えた時に言葉にしたりするので、時々脈絡のないことにもなってしまいます。

人が見ると、何かとりとめの無い話をしているように感じるかもしれませんが、これが今の僕の流儀のようです。変化はしていくのでしょうが、根本は変わらないと思います。

2011年2月26日土曜日

「入れ物」

今朝、残り少ないチューブから歯磨き粉を歯ブラシへ絞り出している時、フッと僕のチューブにはどれほどの残りがあるのだろうと思いました。決して悲観的に、感傷的にそう思えたわけではなく、とても冷静に意識していました。


朝早くからそんなことを考える人はあまりいないのでしょうが、日常的に普通にしている行動に対して、今までとは違った感覚や考えが及ぶことは珍しいことではないし、誰もが経験していることだと思います。しょっちゅうそんな風に感じていると、自分でも不安になるのかもしれませんが、そんな状態ではありませんから、単純にそう思っただけなのでしょう。

歯磨きのチューブの例えはあまり良くないですが、よく懐が深いとか器が大きいと表現するように、人それぞれ「入れ物」を持っているように言われます。その「入れ物」は歳を経るにつれ、学習や経験といった後天的に得られるものと先天的に持っている才能や感覚の変化により、大きくなったり小さくなったりするものです。

元々全ての人にはある量の「入れ物」はあるわけで、むしろ重要なのはその中身なのでしょうね。また、受け入れる度量といった部分はその中身以上に、経済的、心持ちとしての余裕のなせる所が大きいのだとは思いますが、ただそれだけでは人に評価されるものでもありません。

僕自身はと言えば、中身が濃縮タイプで、薄めながら小出しにしていければ良いのだけど、そうはいかないし、出す度に自然に補充出来るわけでもありませんから、機会ある時、そしてここぞといった時に勇気を出して絞り出していくしかありません。

見た目は抜け殻のようでも、不思議とチューブからはとめどなく中身が出てくる、そんな「入れ物」だったら、どんなにか良いのにと思ってしまいます。でもそうなるには、まだまだやるべきことがたくさんあるのだということなのですね。文句なんか言ってる場合じゃないよと。

2011年2月25日金曜日

停電があったのだぁ・・・。

今朝早く1時間ほど工事の為停電があったようです。ギャラリーと自室のあるビル全体がそうなるとの掲示があったのが、3週間ほど前の話で、毎朝のようにそれを目にしていたにもかかわらず、すっかり忘れていました。停電になって困るものがほとんどないし、まぁPCは落としておかなきゃなぐらいの気持ちでした。


案の定、ギャラリーにある2台の内、1台は電源が落ちていました。もう一台はノートだったので、バッテリーが働いてくれて動いていました。いつも電源を切らずに、常時ネットも繋がりっぱなしにしておくことはあまり良くないこととは知りつつも、ずっとそうしています。

それは、サイトでの販売や企画に参加されている方々の多くは、申込みや問い合わせが夜間遅くにメールで来る場合が多く、その確認の為でもあります。今は、自室にはPCが無いので、携帯に転送されたものを見るようにしています。その場での回答が必要な場合は、ギャラリーへ降りていって返事をしますが、大抵は翌日早い時間に送るようにしています。

メールの利点は、時間問わずというところと、間を置けることだと思います。瞬時に判断し、無意識のうちに話をしてしまっている電話とは違い、自分自身の意識や考えを言葉に置き換える作業が入ります。言葉を選びながら文章を組み立てていくと、意外にあの時話した内容が違った表現になってしまっていたかもしれないと気付かされます。元来電話が好きではない僕にとっては、単純に僕自身の反応と向き合える間が必要なだけなのかもしれません。

その場の勢いで言葉や行動に起こすことも時には必要です。それでも、僕はそこまでの考えや検討といったものを一旦客観的に言葉としておこす作業が大切なことだと思っていて、気が付くとそうしているようです。

さて、今日もこれからメールを何通か出さなければなりません。定型的な内容、そうでないものいくつかありますが、その中に新たな発見があるかもしれません。

大げさですが、普段から決まり切った毎日と考え、流れに乗っているだけでは、単純に死に向かっているだけのように思います。どんな人にとっても、一日として同じ日はないわけで、例えばメールひとつにしてもそれは言えることです。一通のメールがその人の生き方を変えてしまうことだってありますし。

生活、「生を活かす」ことは、誰にでも与えられたものですが、自らそうすることを意識していないと感じられないものなのだと思うのです。

2011年2月24日木曜日

ビビンバやクッパのように

“Gallery Collection” 側の展示は昨日の内に終えました。作品点数13点と若干少なめですが、見応えは充分あると思います。満腹にはならないけど、程良く美味しいものを少しずついただける感じですね。もう少し見てみたいと思えるような感覚になってもらえればいいかな。


一方、奥の部屋で予定している”Photo Showcase”側は、江口さんの展示のみが終了し、まだほとんどの壁は白い状態です。江口さんの展示は、個展”Beyond”から抜粋し、額装や構成を変え、週替わりで、新作は前半、後半の2部構成で展示されます。毎週来ていただけると、それぞれに違った面が見えてくるのではないかと思っています。

その他の方は過去において展示・発表経験も豊富ですし、それほど心配はしていません。週末に一気に展示されていくといった感じです。今のところ、小出さんが江口さん同様に2部構成で展示変えを行う予定です。また、佐久間さんの展示は、本当にショーケースっぽい感じになる予定です。詳細は見てのお楽しみとしますが、今日そのレイアウトを行います。若干設置に不安な部分があり、どれほど思い描いたように出来るかどうかが展示のポイントになります。先ずはやってみてから、です。困難にぶつかったからといって、ただ避けていてもつまらないですから、気持ち的に。

今回の写真展は、著名な写真家と地域を中心に活躍されている写真家のごった煮の様相になりそうでもあり、そのあたりは僕にとっても新鮮かつ刺激的なものです。ビビンバやクッパのようにまぜこぜになりながら、それぞれの個性が引き立ち、良い相乗効果が現れてくれたらいいなと期待しています。

見る側にもその辺りを楽しんでもらいたいと思っています。

2011年2月23日水曜日

ぼちぼちと展示作業をしています。

撤収と同時に”Gallery Collection & Photo Showcase”の展示も始まっています。Gallery Collectionでは、以前の写真展とはサイズや額装のスタイルが違っていますので、先ずは額装から始め、順に展示をしている感じです。


最近の写真展を見ていると、やたら作品の大きさばかりが目立ち、何かそれだけで存在感を出しているようなものが見受けられます。現代アートとの関連性があるのですが、中にはどうしてこんなに大きく伸ばしているのかと考えさせられるタイプの写真も実際あります。

「見せる」といったことを検討する場合、作品のサイズは大きな要素にはなります。しかしながら、意味もなく大きくすることはないわけで、そこには必然性が無ければなりません。理由はさまざまで、例えば展示構成として必要であったり、作家の世界観を導き出す為等が考えられます。

写真作品の多くは、作家自身がプリントするケースが多いのですが、大判になるとそうはいかなくなり、それ相当の設備や技術を持った業者が行います。絵画や彫刻といった他のアート作品とは違い、全てを自らで行わなくても作品として成立してしまいますので、その辺りの部分が一般の方にとって芸術性という点で少し違和感を覚えるのかもしれません。

Gallery Collectionに展示される作品は、用紙で言うとA3程度のもので、やや小ぶりになりますが、全て作家がプリントしたものになります。プリントはその技術はもとより、作家自身のセンスが問われるものです。一部の著名な写真家の方は、自身のプリントより、信頼出来るプリンター(マシンではありません、職業です)へプリントを依頼している程ですから、作家にとって非常に重要なものであるわけです。

目に見えるものはプリント品ですから、当然の話です。そこに至る工程は言わば裏方の処理で、見る人にとっては必要の無いことなのだと思います。作家によって、プリント方法はさまざま、技術以上に個性的で、いわゆるブラック・ボックスのようなものです。

暗室という真っ暗な部屋でプリント作業を行っていますから、まさしくその行為自体がブラック・ボックスの中で行われているのです。しかも、浮かび上がってくるイメージは、自身のブラック・ボックスから発生しているものであったりするわけで、二重、三重の闇の中から作品となって出てくるのです。

そんな暗闇から生まれ出る一部の作品たちが、アート足り得る写真作品として陽の目を浴びることになるのです。多くの賞賛や少なくはない非難と共に。

2011年2月22日火曜日

昨日の画像

昨日はブログでは初めて画像だけを載せましたが、書くことが思いつかなかったわけではありません。画像は、誰もが想像が付くように、壁に展示されていた作品撤収の途中を撮影したものです。床に折り重なったものが、この作品を構成していたものの残骸です。


作品は、雨の日のビルからガラス越しに街を撮影したもので、焦点はガラスに合っているので、背景となる街なみはボケたものになっています。一枚のネガをスキャニングし、展示大に拡大したものを、A3サイズに32分割、それぞれをプリントし、ボードに貼り付けたものを壁面にタグで取りつけて、ひとつの作品としたものです。約170×240cmという非常に大きな作品です。

始めから、撤収時にこのように破壊する予定ではありませんでした。使用したタグが予想以上に強かった為、A3のボードを一枚一枚壊しながら取らざるを得なくなったのが本当のところです。参加者と2人でどうしようかと話し合いながら、止むなくそうしたわけで、本来はしてはいけないことなのかもしれません。(たとえ壁がボロボロに痛んでしまったとしても)

作品一点一点には作家の思いが詰められたもので、仮にそれ自身が作品を形づけるひとつのパーツに過ぎなくても変わらないものだと思っています。撤収作業は、一旦見知らぬ人々に姿をお披露目(晒された)後、やっと安心出来る場所に戻ってきたとの安堵のような感覚ともう終えてしまったねとの寂しさを同時に感じる時でもあります。素直にご苦労さんといった気持ちもありますしね。

それを破壊してしまうわけですから、僕は参加者のその決断に感謝するしかありません。展示はライブであり、その場、その時間でしか感じられないものと以前から話していますが、終わってしまったからといって、決して壊されて良いものではありません。同じように再生は可能ですが、そういうことでもありません。

だから、昨日の画像は、タイトルとは別に自戒の意味もあるのです。それが、何も書かなかった理由のひとつでもあり、画像のみを載せることで、過ぎてしまった、何もなかったことのようにはしたくなかったのだと思うのです。

2011年2月21日月曜日

2011年2月20日日曜日

Sha-gaku vol.2 最終日

気持ちの良い朝です。それほど寒くもなく、お日様が柔らかく全身を包み込み、まだ冬らしい澄んだ空気が気持ちをきりっとさせてくれます。


今日が、Sha-gaku vol.2の最終日になります。3週間に渡って行われた写真展ですが、やはりいつものように名残惜しい感があります。今夜からそれぞれの作品が壁から外され、一旦何もない部屋へ変わり、次の準備へと雑然とした雰囲気になるわけです。一番ギャラリーが動いている時期でもあります。

裏方の作業は、ほとんどお見せすることはありません。写真展に出展される方たちが一部その状況を見るぐらいです。Sha-gakuのような公募で参加を募る場合、一斉に展示を行うことは先ずありませんから、ざわざわとした空気感の中、徐々に壁が埋められていきます。個展として開催するのとは違い、僕自身も全てを把握しているわけではありません。本来はいけないのだろうとは思っているのですが、参加者自身の意思や動きを信用している、基本自由にしてくれればとの考えがあるので、そうしています。

もちろん展示初経験といった人には、かなり細かい部分まで話をしています(そうしないと一層不安になりますから)から、展示自体にトラブルが発生することはあまりありません。僕の場合、頭の中で展示構成を思い描き、それを具体化する為に、図面化します。この辺りは以前のエンジニアであった頃の名残でもありますし、そうしないと実際の作業で戸惑ってしまうからです。どこでも当たり前にしていることなのかもしれませんが、事前に具体的な絵を提示するだけでも、参加される方は安心しますしね。

一枚の紙に焼かれた、もしくはプリントされた写真は、額装などの化粧をされて、お披露目に至る工程で、これまでには無い違った姿態を見せてくれます。それが白い壁に思い描いていたように展示されるにつれ、さらに息づいてくるように感じます。参加者はその様子を自身で作業を行いながら、冷静かつ興奮しながら仔細に見ているのです。それはまるで自分の分身を見つめているようでもあり、一種不思議な気持ちになるのだろうなと思います。

そうして、展示を終えられた作品たちは、見も知らぬ観衆の前に出され、評価されるのです。一番ドキドキ、ワクワクする瞬間で、不安で仕方ない時間でもあります。

そんな時間を、3週間の間、僕はずっと眺めているわけです。大抵の場合、そこに大きなドラマはありません。ややもすれば、理解もされず、ただ淡々と時間だけが過ぎていってやしないかとさえ思うことがあります。それでも、小さなドラマはいくつか発生し、会期中に置いたコミュニケーション・ボードに書かれた文面を見れば、それは分かります。

今日一日で、この展示も参加者自身と一部のお客さんの記憶にしか残らないものとなります。少し寂しい感はありますが、これもライブである所以です。瞬間、瞬間でしか生きられない人間の営みと一緒で、はかなくも美しいものがそこにはあるのです。

2011年2月19日土曜日

ツボにはまる

ツボにはまる、ツボにはまった。


急所を外さない、勘所を押さえる、またはその逆でそのような状態になった時に使われる言葉だと思いますが、初見の作品を見た時にそれを感じることがあります。有名、無名に関わらず、見る側が作家自身を知らないことはよくあることですから、純粋に作品から受ける感覚なわけです。

Sha-gakuに参加されているメンバーそして作品のほとんどは、知り合いの方以外には初めて目にし、触れられるものです。この場に知り合いの作品を見に来たついでぐらいに、と思って来られる方がほとんどだと思います。その中で、これまで経験したことが無い、感じたことも無かった感覚に捉われ、まさにツボにはめられた状態になる場合があります。

それは、そうそう多いものではなく、むしろ大概は思いがけず訪れるものです。自分自身の趣味嗜好は、案外これっといった明確なものではなく、何となくとか漠然としているもので、そのぼんやりとしたものが、目の前で明確になる瞬間でもあるのです。

例えば、私は赤が好きですといっても、ただ赤一色の絵や写真を見せられて、素直に驚きや感動を受けるかといえばそうではありません。多くの人は、その中に何らかの要素が入り込み、その加減や構成や展開により、全体の印象として好きか嫌いかを判断します。なので、同じ赤でもこういった使われ方はちょっとねとか感じるわけです。

じゃあその理由はと聞かれると、個人的にはその人自身の感覚でしかないと考えています。特に初見の場合は、作家の業績、制作意図といった付帯情報はほとんどありませんし、よほど著名な方以外は事前に調べる理由もないからです。

そしてそのような感覚は、誰にも批判されたり、非難されたりするものではなく、自らの嗜好や感情のひとつとして素直に受け入れるべきだと思います。決して、他人がそれを良しと理解しなくてもです。社会的影響のない、いわゆる個人的な見解ですから。

作家の場合は、誰にも好かれず、認められないと凹むものですが、これが今の自分自身であることを素直に認め、さらに考える作業をしなければなりません。一方、見る側にはそんなことを要求はしませんし、理論武装し話したところで結局は押し付けにしかなりません。

だから、見る側は作家以上に自由であり、もしツボにはまった状態になっても、それを楽しめば良いのです。そして、個人的に興味を持ち、共感出来うるのであれば、その作家を応援してあげて下さい。これもまたそうそう出来ることではないのですから。

Sha-gakuも残り2日です。もしかすると、そんな経験が出来るかもしれません。

是非、お越しの上、自身の眼で確かめて下さい。

2011年2月18日金曜日

エコの必要性

強くて大粒の雨が降っています。普段より気温も高いので、どんよりとした空気に身を包まれたようで、何ともすっきりとしません。これも、春に近づいている兆候で、一種儀式のようなモノですが、数日前までの雪の方がまだ良かったよなと思えるのは僕だけでしょうか。


Sha-gakuも残り3日となり、幾分かの寂しさを感じ始めてきた時に、まるで水を差されているようで、少しだけ気が滅入ります。自然は僕たちの暮らしやその時々の感情とはお構いなしに、日々の営みを繰り返します。勝手に日々変化をしているのは僕たちの方で、その影響を受けながら、否応なく変わってしまっている自分自身に驚き、悲鳴を上げているのは、むしろ自然の方なのかもしれません。

何も変わらずに生きていけることは、それはそれで良いことには違いありません。それは、結論的には現状を良しと感じているからで、もしそれが個人レベルの話で、社会的影響も与えない状態であれば、尚更のことです。でも、どこかで変化し、今の生活をより快適にしたいとかもっと違う何かを欲するのが人としての性なんだと思います。

もちろんその部分が無ければ、科学や技術、文化、芸術さえも発展しないわけです。何もないところから形あるものを生み出す能力は人として優れたもので、これが他の人に対しても有益であればある程、拡がりを見せます。たとえ、自然やそれを必要としない人たちに悪い影響を与えたとしてもです。(その時点では気付いていないことがほとんどですが)

昨今は環境、省エネとかエコという言葉を、どこでも目にします。決して悪いことではありません。たとえ気付くことが遅かったとしても、今からでも良くしていこうとする姿勢は尊いものですから。それでも、あまのじゃくの僕は、ちょっと違う方向に行きやしないかと心配もしています。僕は一国の総理でもないので、そんなことまで考える必要はないわけですし、言葉にしたところでなんら影響を与えるわけではないのですが・・・。

取りあえずは、周りはどうあれ、今の自分自身に問いかけをしていくしかないと考えていて、そこから生まれるかもしれない貴重なモノを掬い上げていくことが第一と思っています。
だから、僕自身の身体や頭には、省エネやエコは必要ありません。
目一杯、それらを動かし続けないといけないし、そうすることしか出来ませんから。

2011年2月17日木曜日

「人間力」

つい先ほど、日本人宇宙飛行士の若田光一さんが、国際宇宙ステーション(ISS)のコマンダー(船長)を務めるニュースが流れていました。2013年末から約半年、長期滞在搭乗員としてISSに滞在し、後半の2カ月間、船長を務めるようです。もちろん、日本人としては初のことですし、アメリカ、ロシア以外でもあまり聞いたことがありません。


過去3回の宇宙飛行の実績が評価されたことが第一なのでしょうが、言葉や文化といった壁を乗り越え、人柄や周りからの信頼といった点でも優れた人なのだと思います。人柄はある程度持って生まれた資質のひとつで、年齢を重ねるとともに個性と相まって出てきますし、環境がそれを育てるとも言えます。それゆえ、性格と一緒で人生の中で何度も大きく変わることはないのだと思います。

信頼はその人自身の言葉や行動といった日常的な部分や仕事に対する考え方、その実践能力から自然発生的に生まれるものです。しかも、言葉や理論といった口先だけ、頭だけでは本当の信頼は得られません。自らが先頭を切って行動として表わしたり、責任の所在を自分自身に課したり、変わらぬ考えや評価を誰にも公平に示し続けられることが必要なんだと思います。

ISSは、誰もが想像出来るように、世界各国から集まった優秀な人間の団体です。ですから、その中で優秀であることは当然のこと、つまりそこだけではない部分が重要なポイントになるわけです。それは、単純にコミュニケーション能力の高さや判断力の早さだけでは計れないものです。言葉として表わすのは難しいのですが、その人の持つ「人間力」の大きさ(深さも含めて)と言ったものなのかもしれません。

人は強さと弱さ、決断と躊躇等の相反する感情を同時に持ちうる矛盾した生き物です。それ自体が、人が人として或る理由のひとつでもあり、本能が命ずるままに生きているわけではありません。自分だけが良ければと考え、行動すれば、本人にとっては一番良いのでしょうが、そうではない方向へ行動してしまうこともありますからね。

若田さんは、人種や性別とは関係の無い「人間力」が認められたのだと思います。それには、並大抵の努力では無かったでしょうし、おそらくはコマンダーという役割をひとつの目標にしていたのではないかと思います。

さて、僕はと言えば、そのニュースを耳にして、単純に嬉しく思い、すごいことだなと感嘆して、自分には出来ないことだなと考えながら、こんな文章を書いているわけです。しかも、「人間力」は自ら鍛えたり、人から鍛えられて育つものではなく、日々日常での過ごし方、その時々の人との接し方、物事をどれほど深く考えられる、或いはその逆に単純にそう思えるといった普通の暮らしぶりから生まれるものです。

僕としては、少しでも大きくしたい、先ずはそう思い、出来ることからやっていくしかないなと考えています。
遅すぎるなんて、思う必要も無いですしね。

2011年2月16日水曜日

自然の成り行き・・・そうあってはいけないこと。

僕は以前から映画が好きでした。今こうして好きでしたと書いた訳は、映画館やDVD購入、レンタルでの視聴がほとんど無くなってしまったからです。数年前の何度目かの引っ越しからホームシアターを入れ、ほぼ毎日のように部屋で観ていた程でしたが、映画館へ出向くことが少なくなり、そのかわりに芝居を観に劇場に通うようになってしまいました。


仙台に来てからは、その環境も自宅には無くなり、会期準備中にギャラリーへ設置したものの、観るものは映画ではなく、芝居のDVDの方が多かったのです。だから、以前ここに書いた「空気人形」は、ホントに久しぶりの映画鑑賞だったわけです。今でも話題に上がる映画や好きな俳優、監督の映画に興味が無いかと言われるとそういうわけでもなく、何となくそうなってしまったような気がします。

映画の興行収入は過去最高を記録している一方、ミニシアター系の映画館が相次いで閉館している、またDVDの売り上げが5年前の4分の1といった状況を耳にすると、話題性、娯楽性、3Dのような特殊?な映画が一極集中的に良く観られているように思えます。

確かに3D映画を現在家で観るには、その為のコストや環境を整えること自体大変ですし、多くの映画は今までと同様にいわゆるDVD画質でしか観られないわけですから、ちょっと変わった面白さを味わえる、今までとは違うものが観られる、大画面での迫力といった点が、それほど映画に興味がない人たちを映画館に足を運ばせているのかもしれません。

出演している俳優や制作する監督が好きだったり、日常的なものを離れたドキドキ、ワクワクするような映画に娯楽性や芸術性を感じ、それを観たいと感じる欲求が無ければ、わざわざ観に行くことはないと思うし、映画って本来そういうものですから、関係者の苦悩を別にすれば、案外昔に戻って来た、自然の成り行きなのかなと思ってしまいます。

表現の手段や姿、形を変えながら、様々な試みをしながら、より良いもの、興味の惹くもの、或いは感情に訴えかけるものを観客に提供することが、映画を問わず、「見せる」ことの基本だと思っています。

そう考えると、今は規模は小さいながらも、僕自身「見せる」側の立場であり、まだまだ前途は明るいわけでもなく、日々不安を抱えながらも、それを考え、現実化することの方が重要で、かつ自分自身楽しいことでもあるから、知らず知らずの内に遠ざけてしまったのかもしれません。今は、舞台にも滅多に足を運ばなくなりましたからね。

何か事を成そうとするには、必ず何かを犠牲にしなければならないといった言葉を聞きますが、他人に影響を与えない部分については自然にそうなってくるものです。僕が映画や芝居を観なくなっても、誰にも迷惑はかけないですし、人から見ればどうでも良いことです。実を言うと、僕自身犠牲だとの認識もありません。

問題は、それを行うことで、身近な人であったり、他の人を犠牲にしていないかということ。常に頭にはそのことを入れておく必要があります。

自然にそうなってしまったということだけは無いようにしない為にも・・・。

2011年2月15日火曜日

必然と偶然

グラミー賞に日本人音楽家が4名も受賞しました。約50年の歴史の中で、過去4名の日本人受賞者だったのが、一気に倍になりました。いずれもインストゥルメント部門で、言葉には寄らず、ほとんどがいわゆる東洋的であるとか日本的なスタイルではないところが、いいですね。


音楽を奏でる音には演奏する人それぞれに違いがあり、同じ曲でもまるで違う感覚を受ける場合が多いです。まさに「音色」と言われるように、音そのものがオリジナリティーを表現する主たるものなのです。声も同じですね。受賞した皆さんはもちろん卓越した技術を持ち、音楽的才能もあり、日々研鑽を重ねながら、それぞれの楽器に対して向き合ってきた方なのだと思います。

なにより、自分の選んだ楽器を深く愛しているのでしょうね。自分が演奏しているわけで、楽器そのものは自ら奏でるものではありません。そこから出てくる音に対して、真摯に耳を傾け、誰よりも聞いていた観衆が演奏者自身なのです。そう、楽器はその製法や出生がどれほどのものであっても、結局は演奏者次第ですから。

だから、演奏者自身は自分自身が意図しない「音」もしょっちゅう聴いているわけで、その出てしまったと言える「音」に対して常に敏感に反応しているのだと思います。僕なんかの一音に対する集中や反応に比べたら、何百倍も大切にそして大事なものとして捉えているのです。そうでなければ、そこから出る色や感情が、多くの人に伝わるわけがありませんからね。

そして、それは偶然に起きる場合が多いと思うのです。完璧に自分が奏でる音を予想し、それが曲の中でどんなポジションにあるべきで、まさしく思いのまま自在に演奏しているとは思えませんし、人間ですから。得てして、そんな偶然の「音」から、オリジナリティーが生まれてくるような気もします。

一日中、そして年中楽器に触れ、音を聴いているから当然だと思われがちですが、僕はそれはちょっと違うと思っています。彼等はもちろん普通にいる人のそれこそ何百倍も練習をしていることは確かです。でもね、気付かなければ、気付くことを意識しなければ、それはただ通り過ぎていくだけなのです。

必然と偶然は密接な関係性を持って、いつも身の回りで闊歩しているのです。それを敏感に察知できる能力は鍛えられるものではないのかもしれませんが、ひとつの事を真摯に素直に見つめていれば、ふとした瞬間にそう思えることがあるはずです。

それはどんな世界でも共通して言えることなのです。

偶然が必然へと変わり、やがて確信になるその日が来るかどうかは、その人次第です。

でも、それは誰かから選ばれた人だけではなく、そうなりたい思い、実際に行動している全ての人に一様に与えられているのだと、僕は思うのです。

2011年2月14日月曜日

時間は過ぎてゆく

Sha-gaku vol.2は残り1週間となり、休廊日の今日は”Gallery Collection & Photo Showcase”の準備をそろそろしようかと思っています。準備と言っても、DMを配布することが先決なので、これを書き終え、メールを何通か出したなら、街へと繰り出します。これで、午前中は終わってしまうので、キャプションを考えたり、その他の検討事項を練り直すのは午後になってしまいます。そうして、あっという間に1日が過ぎてしまうような気がします。


物事を進める場合、大抵の人は優先順位を付けて、ひとつひとつこなすと思います。人に頼める場合は、そのようにして、自分でしか出来ないことは同時進行出来ないわけですから、順番に行うわけです。これが自然の流れなのですが、予定にないことは突発的に起きるもので、そこでの判断が仕事の場合はとても重要になります。

個人的な内容は、時間や自分自身の許せる範囲で変更をしていけば良いのですが、いわゆる他との関わりのものについては限られた時間で行わなければなりません。突発的なことの多くは、緊急にすぐ対応が必要なことです。しかも、大抵は個人的なことではないものです。仕事自体に個人的なことが果たしてあるのかと言われれば、その通りで、なのでその優先順位も決めづらくなるわけです。何を持ってその判断をするのかと問われても、これだという回答はありませんし、経験によるところが多いのかもしれません。

エンジニアであった頃、よくリスク管理について話をされました。さまざまな状況を予想、検討し、その時々の対応方法を考えた上で、物事を進める考え方です。実際の方法はいろいろとあるので、その手順により行う場合が多いのですが、(これもいわゆるマニュアル化のひとつ)物事はそれほどうまくはいかないもので、予期せぬことで何度か冷や汗をかいた経験はあります。

今は、個人での判断が全てと言って良いので、本当にその時々に出来うることを最優先して考えています。後先考えずにまで無鉄砲ではありませんけど、多少はそんな部分もありますね。マニュアルがあるわけでもないので、起こりうるリスクを承知でしてしまうことも間々あります。本当はいけないのでしょうが・・・。

でも、出来るうちはやってしまわないと、との気持ちがあるんですね。これって、他の人たちに対しての責任感ともちょっと違っているもので、たぶん自分の中身に対しての話なんだと思います。その辺はまた別の機会に書くかもしれません。

さて、やることをしないと。

時間はただ過ぎていくだけですから。

2011年2月13日日曜日

DM

“Gallery Collection & Photo Showcase”のDMが出来上がってきました。今回は少しタイミング的には遅かったので、明日にでも各所に置いてもらおうと考えています。いつもDMのデザインは僕がするのですが、特にそれと関係しているような仕事をしていたわけでもないので、他のDMを参考にしたりしながら、大体は自分で思うがまま勝手に作っています。


個展や2人展のように限られた人による展示会には、イメージを使用するようにはしています。どんな写真が見られるのかがすぐ分かるようにですね。ですので、イメージそのものが非常に重要になります。タイトルとの関連とか、出来るだけ象徴的に、想像を掻き立てるものが望ましいかなと個人的には思っています。

グループで行う場合には、ちょっと考えが変わります。参加する全ての人のイメージを、小さなハガキ大に印象的に配置し、見せるのが僕にとっては難しいからです。他のデザイナーの方は上手に捌いているのかもしれませんが、その辺りは経験不足だと言わざるを得ません。

なので、写真展自体の趣旨が表れるような形で、デザインするように心がけます。DMは広告という名を持ちながらも、展示同様に表現の一種だと思っています。使用する文字や色調、デザインそのものを毎回変えているのもそういった意図があるからです。

人の目はたいしたもので、数多くある商品や広告物から、自分の気に入ったもの、感覚に合うもの、或いは目を惹くもの(ここが一番考えどころなんですが)を瞬時に選ぶ能力があると思っています。ごくわずかな違いを、無意識の内に感じとり、見ている場合が多いのです。

以前書いたと思いますが、“Gallery Collection & Photo Showcase”のテーマのひとつが「販売」です。なので、出来るだけ写真展、展示会といった印象が前面に表れていないようになっています。おそらく手にされる方は、何のDM?と思われるかもしれません。宛名書き面を読むとそうだとはすぐわかりますが・・・。

自分が楽しんでいる部分は否めないのですが、これもひとつのトライなのです。

もし、見かけたら手にとってみて下さい。

2011年2月12日土曜日

夜の写真展

昨夜は営業時間後に数カ月振りに地下鉄を利用して、写真展を見に行きました。写真展が行われている場所は、ギャラリー最寄りの駅から6駅ほど北にあり、夜10:00まで開いている非常に珍しい公共施設の一角です。駅の出口からすぐ目の前に建てられているので、迷うことはないのですが、照明はほぼ落とされ、ホントにまだやっているのかなと思わせます。


入口から右に折れると、会場のある2階への階段があり、やはりそこも薄暗い間接照明に照らされた感じです。階段を上がると、右手すぐの一面が展示会場となっていました。20点ほどのカラー作品が、そこだけ明かりを受けて、展示されています。夜の写真展も雰囲気があって、なかなか良いものです。

写真展のタイトルは、’11 嶺岸公夫・永井優写真展です。3月1日開幕予定の”Photo Showcase”に参加される永井さんと友人である嶺岸さんが’95年から毎年のように発表されている二人展です。約15年に渡り、ほぼ途切れることなく行われているもので、初回からのDMも展示されていましたが、やや色褪せたそれらはそれだけで歴史の長さを感じさせてくれます。

永井さんの作品は、前にも何度か拝見はしていたのですが、いずれもモノクロ銀塩でしたので、カラー作品は新鮮な感覚でした。イメージとテーマが合致して、とても分かりやすい作品に思えました。嶺岸さんの作品も同様にカラーでした。これらもやはり明解で、奇をてらった感も無く、とても素直な印象でした。

それにしても、毎年のように継続して発表を行うことは、実は並大抵のことではなく、多くは途中でとん挫してしまうものですが、気心が知れた2人であることが続けられた要因なのかなとも思います。個人の歴史が写真を通して、形として残っている、とても素敵ですね。改めて、発表することの意味を考えさせられました。

”Photo Showcase”へ出展予定の作品は、モノクロで、少し変わった視点での作品構成になるようです。これもまた個人的に楽しみです。

写真展は、明日まで行われています。お近くにいらっしゃる方は、是非見に行かれて下さい。おそらくお二人もいらっしゃいますから、お話をされて見て下さい。


「’11 嶺岸公夫・永井優写真展」
イズミティ21 市民ギャラリー 2F
9:00-22:00(明日最終日は19:00まで)

地下鉄泉中央駅 C3出口を出たら、すぐに会場が見えます。


それにしても、仙台の地下鉄はどうしてこんなに高いのだろう・・・。

2011年2月11日金曜日

展示内容をちょっと変えます。

今日から3連休。日本各地はあいにくの空模様で、広い範囲で大雪の予報が出ています。月曜日は14日と、バレンタインデーですし、何かと予定が立て込んでいる人もいるのでしょうね。僕はと言えば、何も変わらず、お休みを利用して多くのお客さんが来られることを待っているだけです。なので、雪はちょっとなと考えてしまいます。


何もこんな時にであるとか、こんな日に限ってといったことを、悪い意味で聞くことはよくあることです。今日という日は自分にとっても特別な大切な日だと意識すればするほど、普段しょっちゅう起こっていることでもそう思えてしまうものです。実は、今まで気づいてはいなかったけれど、習慣化してしまっているなんてこともあります。

慣れるということは、その経験値を拡げ、深めることとは少し違います。知らず知らずに自然にそうなる場合の方が多いように思います。その仕方や内容もより自分にとって楽であったり、やりやすい方向へと進みます。一方、これまでも苦手だったことやより困難と思えることについては、何度繰り返しても慣れないものです。人付き合いも然りですね。

気持ちや時間に余裕のある時は、辛抱強く考えてみたり、じっくりと取り組むことも可能なのですが、なかなかそう思え、実際に実行に移すことは出来ないものです。仕事であれプライベートであれ、同じだと思います。後へ後へと追いやって、結局時間も無くなってきて、やっと重い腰を上げることがしばしばです。

創造する行為は、慣れだけでは出来ません。もちろん技術的なことについては、経験値が影響を与えるのだと思います。しかしながら、発想やその具体化については、いつもその時どきのものであるのです。だから、難しいのですね。

予定通りとかこれまで同様にとかという世界ではありませんし、それではつまらない、何より自分自身が納得出来ないものです。だからといって、すること全てが成功するとは限らないし、今までの印象を追いかけたものの方が安心出来るし、どこかに妥協が入り込んでしまいがちです。これで良しってところもないので、余計そうなるのだと思います。

さて、今日はこれから午前中に展示内容をちょっと変えます。これも一つのチャレンジです。

一度来ていただいた人は分かりますが、初めて来られた人には気づかれないものです。

それでも、そうせざる得ない気持ちがある以上、しなければいけないのも表現の世界なのだと思います。

2011年2月10日木曜日

満足感の先にあるもの

満足感の先にあるもの


例えば美味しいものを食べて、お腹いっぱいになった時、人はその食事に満足します。或いは、とても欲しかった何かを手に入れた時、それが思い描いていた通りだった場合、高揚と共に所有することに満足します。また思いがけずに、今まで会いたかった人に出会ったり、その場で話しが出来たりした時、瞬間的に興奮と共に満足感を得るものです。

一方、そんな満足した時間が永遠に続くわけではありません。今度は違った料理を食べてみようとかこれよりももっと便利で機能的なものが出ないかなとかこの人に会えたのだから、この次はこの人に会えるかもとか、さらに違う満足を得ようとします。

個人的に、経験的に、人が得たいと思う満足は、最初は小さなものから大きなものへと自然に流れ、やがてそれは量的なものから質的なものへと変化していくのだと思います。経済的に得られる満足は、ある程度の時間と労力によって導き出されるものです。そうではない部分、つまりお金だけでは得られない満足は、決してその量では計れないし、そうそう得られるものではありません。

人は歳を経るにつれ、余分なものがそぎ落とされて、今まさに必要とするものを自然に受け入れ生きるようになるとどこかで聞いたことがありますが、誰もが聖人君子のように欲も無く生きられるものではないのが本音だと思います。僕にもまだ欲はありますから。

それでも、幼い頃の夢や若い時分の願い、そこから得られるであろう満足といったものは、物質的なものであればある程、どうしてそんなことを考えていたのだろうと思うことはあります。その辺りが、質的な変化の現れなのでしょうが、残された時間の意識がそうさせているような気もします。

表現の世界って、常に満足しないものと言えます。その時満足した気になったとしても、そこで立ち止まれない自分がいます。極端な話、自己満足も自己完結もしないものなのです。そこにもやはり時間が深く関わりを持っているように思えます。そして、その意識があるかどうかでおのずと行動も変わっていきます。限りある時間の中で、瞬間、瞬間の満足感を得ながら、継続していくしかないのかもしれません。それは、たとえ形を変えたとしてもです。

僕にはまだ、「満足感の先」は見えません。

さまざまな出会いの先にそれは待っているのだと信じているだけなのです。

2011年2月9日水曜日

考える時間はたっぷりあります。

積もりそうな湿った雪が降っています。このところ気温も上がり、少しは春めいて来たなと感じてきた矢先ですので、一層寒々とした気持ちにさせられます。平日の雪の日というと、お客さんの足はほとんど遠のきますから、今日はのんびりした一日になりそうです。


昔から商売の世界では、「二八(にっぱち)」とも言われ、今月はもっとも景気の悪い月のひとつに当たります。やはり、気候にも関係しているように思われ、極端に暑かったり、寒かったりすると外に出ようとする気持ちも萎えてしまうものです。この数年の景気動向を考えると、慢性的な不況感と閉塞感が後押しし、人の行動に直接影響を与えていますから、ますますそんな感じを受けてしまいます。

そんな中でも、世の中を明るく、元気にしたいと考えている人はいるわけで、その多くは「個」から始まっているように思います。もちろん、国や地域、企業の後押しで行われる場合もありますが、大抵の場合、自発的かつ自然発生的な動きではありません。

むしろ、Facebookやmixiを代表とするSNS、地味な活動ながらも常に行動を伴った態度で共感を得たいとしている人々なんかを見ていると、「個」から始まり、その繋がりにより大きく拡がっていくことの方がより自然であるように感じます。現在は、顔の見えない匿名性等まだまだ過渡期なんだと思いますが、何かそちらの方が希望を持てる気がしてなりません。

そして、それらの活動は、一見無謀で無茶な振る舞いのように見えますし、これをすることで何の意味があるのかと訝しげ、まるで相手にしない大人がいるものです。中には本当にそうであるものもありますが、先ずは一旦受け止めましょうよ。大人なんですから。

未来は決して暗く淀んだものであってはいけないはずです。僕らのような大人(年長者)は、実はそのことを一番分かっているのです。実際、過去に経験してきたことですからね。

僕は今、写真を通して、出来ることを考えて、実行しているつもりです。自己中心的と言われるかもしれないけど、先ずは身近な周りからです。まぁ、そこからしか出来ないというのが本当のところです。

「享受」することを待っているだけでは前に進みませんし、少しでも「貢献」(決して大げさな意味ではなく)出来ればそれで良いかなと考えています。そして、今、何かの縁で読んでいらっしゃる方々にも、そういう考えを持ってもらえればいいなと思っています。

もし、何か心に引っかかるようであれば、いつでも声をかけて下さい。

2月の暇な時期、考える時間はたっぷりありますから。

2011年2月8日火曜日

料理はアートである

料理はアートである。


よく耳にする言葉です。日本料理の繊細さ、イタリア料理の大胆さ、フランス料理の華麗さ、各国様々な形容のされ方をします。本来、食べ物は生きる源で、そこに美しさや華美な演出は必要ないことのように感じますし、毎日家庭で食するものにそれを求めるものではありません。日常では得られない環境や料理だからこそ、そこが生きてくるわけです。もちろん美味くなくては意味がありません。

そこで重要なポイントは、個人的には先ず素材だと思っています。2番目には、良い素材を活かすアレンジが出来る料理人の技術と発想力、そして緻密な計算とバランスです。それから、忘れてはいけないのが食べる側への配慮ですね。

これらが絶妙なバランスとハーモニーを奏で、味覚以上の「見」覚も刺激され、自然の内に新たな価値を認め、その場かぎりでしか味わえない貴重なものになるのだと思います。その為に、場の雰囲気、佇まい、テーブル、料理をのせる器や皿、出すタイミング、言わば間といったところまで気を配り、さらには見えない部分にこだわりを持っているのです。

先の「料理はアートである。」は、前提としてアートなるものが存在していなければいけません。その認識が無ければ、この言葉は成立しないわけです。生活に関係の無いものがアートとしてのひとつの認識であることが、直接本能としての食に対して形容されることに僕は大きな意味があるように思っています。

極端な言い方かもしれませんが、アートは生活に欠くことが出来ない大きなもののひとつなのです。アートが無くたって生きていけるとうそぶいてみたところで、ふとした瞬間に感じることはあるはずです。

さて、今回のSha-gakuは、各国料理が会し、バラエティー豊かにそれぞれを楽しめるものになっています。表現に対して前向きに明るく取り組んでいる様が感じられると思います。最後はまた宣伝になってしまいましたが、こちらもその場限りのものです。これまでに体験したことのない「アートという料理」を味わえるはずです。

2011年2月7日月曜日

大相撲が大変なことになっています。

大相撲が大変なことになっています。3月から開催予定だった春場所、年内の地方巡業も中止を決定したようです。春場所中止の経済的損失は、15億とも20億とも言われていますし、地方で楽しみにしていた方々はガッカリしているのではないかと思います。


相撲が国技として一般に認められた?時期については、僕もよく分からないのですが、国際的にもその容姿、スタイルから言っても日本の伝統的なスポーツとして理解されているのだと思います。以前から八百長の噂はちらほらと出ていましたが、今回は決定的な証拠が残ってしまっていたので、協会も逃れようがないです。それにしても、携帯メールからの発覚は、伝統ある大相撲でと疑いたくもなるものです。しかも、ビジネス・ライクもしくは軽い気持ちのやり取りの中で行われていますし。

もちろん一部の人間によるものだとの思いはあるにしても、このような中で場所が開幕しても真剣な取り組みでさえ疑いの目で見られてしまうことは必至ですし、中止はいたし方ない処置であったと思います。信頼は一瞬で崩れますから、ホント怖いですね。

歌舞伎も日本の代表的な伝統芸能のひとつです。その世界観は何となく大相撲のそれに近い部分を感じます。こちらでも一部事件がありましたけど、全体に波及まではしていません。その違いはと言えば、どちらも大衆を対象としながら、歌舞伎はエンタテイメント性もある言わば嘘の世界で演じる様子を見せることで成立しているのですが、大相撲はあくまでもスポーツであって、そこに嘘が見えてはいけない点だと思うのです。

綿々とした歴史の中で、伝統や格式といった大衆にとってはあまり関係のない部分が大きくなりすぎる一方で、そんなこととはお構いなしにそこで見せる取り組みや舞台に大衆は一喜一憂することを望んでいます。だからこそ、今回のような内容は、あってはいけないことなんです。

舞台裏の出来事は時として表舞台のそれよりもおかしく、楽しく、そして感動的だったりするのですが、こんな舞台裏は見たくもなかったとみんな感じているでしょうね。僕も見せる立場の人間として、肝に銘じないと・・・。

嘘いつわりの無い表現に、ほんの少しの演出を加え、皆さんが楽しんで、理解してもらえるにはどうしたら良いのか、今日はそんな思考(試行)の一日になりそうです。

2011年2月6日日曜日

わがままな話

ごくたまに、このブログを読んでいますというお客さんがいらっしゃいます。素直に有り難く思い、そして楽しんで読んでくれているのかなと不安になります。毎日一回、午前中に書こうと決めているのですが、実際PCの前に座るまでは、今日はこれだなと思って書くことはほとんどありません。今もこうしてキーボードを打ちながら、何を書こうかと考えているところです。なので、大抵はまとまりの付かない文、そして拙い文章力がさらけ出されるわけです。


名もない地域の小さなギャラリーのオーナーが話すことなんて、たかが知れています。本人が一番分かっていることです。それでも、いろいろな方に実際に表現し、発表することを勧め、その喜びや満足感なりを体験してもらうには、自身もその事について話し続ける必要があると思っているのです。

少し前から下にリアクション・ボタン「いいね!」(Facebookの真似)を設置しています。このようなレアでコアな話に対してコメントはないと僕自身考えていて、全くその通りなのですが、それでも毎回ではありませんが、1名ないし2名の方が押して下さります。これはこれで案外、嬉しいものです。いや、本当はとても嬉しいし、少しは気にしてもいるのです。(特定のおひとりだったらちょっと怖いかもしれませんが)

でも、それに対して傾向と対策を講じて、話の内容を考えているかというとそうではなく、日々思うがままに書いています。決して、分かる人だけが分かってくれればとか、こんなこと書いたって机上の空論だなと思っているわけでもありません。

自分でも至極簡単な当たり前のことしか書けないと分かっているし、この話によって影響を与えようとのたくらみを考えるほどの才能もありません。かと言って、あからさまに自分自身を裸にしてさらけ出すほどの勇気もありませんから、墓場まで持っていくような日記とも思っていません。

じゃぁ、何の為に?と問いかけると、当たり前に思うこと、そうあって欲しいことを当たり前に言える、そして書けることって、今の自分には大事ことなんだからですね。人に認められたい、褒められたいという気持ちは誰にでもあるし、僕にだって少しはあります。その為に自分を曲げたり、迎合することも時には必要なのかもしれませんが(生きていく上で)、個人的には出来るだけそうはしたくないものです。たとえ、その事で誤解を招き、諍いが生じたとしても、それはそれです。

これからも、当たり前のことしか書けないと思っています。もし、僕自身で話の端々に嘘や偽りを感じてきたら、止めようとも考えています。

そんなわがままな話ですので、たまには見てやってもいいやぐらいの気持ちでお付き合いされ、もし気にいったなら間違ってボタンを押したりしてみて下さい。

今日はいつもにも増し、ダラダラ、グダグダでした。

2011年2月5日土曜日

次回の準備もぼちぼちと。

Sha-gakuはまだ1週間が過ぎたばかりですが、一応、次回の写真展についてもぼちぼちと準備を進めているところです。サイトのスケジュールには載せていますが、3月1日から予定しています。もう既に1カ月を切っているわけで、普段よりペースとしてはちょっと遅い感じです。


“Gallery Collection & Photo Showcase”がタイトルになっています。Gallery Collectionの方は想像が付くかと思いますが、これまでに開催してきたプロの作家のギャラリー保有作品を展示します。現在でも入口カウンターに過去のDMを並べていますが、来られるお客さんの中には、いくつかをお持ちになる方がいらっしゃいます。

今でもそれほど知名度は上がっているとは思っていないのですが、過去においては全くもって知らない方の方が多いので、案外写真やアートに興味がある方でも見逃してしまっている場合があります。是非そのような方々にも見ていただきたいと考えています。

“Photo Showcase”は、ギャラリー因みの写真家による展示になります。過去の企画に参加下さった方や来廊された方がおひとり約2mの壁面に展示を行ってくれます。

今回の企画のテーマは販売です。それで、「ショーケース」というタイトルが付いているわけです。そこには、棚にある商品のような感覚で、ご自身の気に入った作品を気軽に買っていただき、所有する喜びを感じてもらいたいとの思いがあります。

また、共感を持てるそして気に入った写真家を応援・支援することで、写真の価値や表現としての可能性を個人の力で拡げていってほしいのです。誰しもが表現可能な手段である写真は、身近であるがゆえに、他のアート作品に比べて価値が低く思われているように感じます。もちろんそのような観点で、作品制作をされている方は少ないし、実際に目に出来る機会もあまり無いことが原因ではあるのです。地域に至っては、そのような環境もないですし。

もうしばらくお持ち下さい。近日中に詳細をサイトで更新するつもりでいます。

その前に一端を見たいなと思われている方は、Sha-gakuをご覧下さい。こちらでも作品販売をしていますが、先ずはどんなものなのといった気軽な感じで見に来ていただくのが良いと思います。肩肘張って、芸術とは・・・なんてことは考える必要はありません。

元々は、生活の一部として、自然発生的に生まれたもの、だからこそ無くならないものと個人的には認識しているものですし、頭でっかちになりすぎてもつまらないですから。

2011年2月4日金曜日

発表期間の長さ

先週の土曜にSha-gakuが開幕し、昨日で5日目になります。一週間、1クールで行われる展示会が多いように思うのですが、そうなると昨日が最終日にあたります。そして、昨夜と今日が撤収及び次回の準備となるわけです。初めての発表の人にとっては、何がなんだか分からないまま、終わってしまったなんてこともあります。


展示に掛かる労力や苦労に比較して、撤収のそれは本当に簡単に行われます。気が抜けてしまうほど、あっという間です。展示の時に、あと数ミリ右にしようとかもう少し下の方がいいよねとあれこれ悩んだことは、その時点では記憶の底に追いやられます。しばらく時間を置いてから、振り返り、そう感じることがあるぐらいです。

どんな作品だって、作者の考えや思いを持っています。それらを構成、展示することで、メッセージなりを明確化するわけですから、そこに至る過程には作品制作だけではないさまざまな検討や試行錯誤が必要になってくるのです。

何も無い空間に「有」を作ることは、とても大変なことだと思います。それがまた「無」に帰する時の心境は、多分やった人にしか分からないものです。先ずは達成感や充実感といったその人にとってプラスの感情が湧きあがれば良いのですが、それだけではありません。不完全燃焼やもう少しこう出来たらといった後悔も含めて、様々な感情が頭や心に渦巻くのだと思うのです。

僕は、それが会期わずか1週間後に訪れてしまうのは、早すぎるなと感じています。会場の都合や経費の兼ね合いで、そうなってしまうことはよく分かります。まぁ、展示会を行うという意思や決断をした時には、その人にとっては既に展示会に入っているのと同じなんだとも言えるので、実際の発表期間の長さは関係ないのかもしれませんが・・・。

Sha-gauはまだ、あと2週間、土日も2回あります。おそらくは、見も知らない方々との触れ合いも出来ると思いますし、自分に対する評価もゆっくりと感じられるはずです。この、ゆっくりという点が、僕は大事だと思うんですね。そこには、自分でもじっくりと事実をかみ砕き、考えられる猶予があるということなんです。

そうして、かけがえのない経験が自分の中に沁み込んでいることに気付きながら、次のステップへと移っていくのです。

やはりそれには、ある程度の時間が必要なんだと思うのです。

2011年2月3日木曜日

鬼は外?

今日は節分で、暦の上では春になりました。道路に残るザラメ状の雪を見ていると、とてもそんな実感は湧きませんが、それでも春は間近なんだと思わせてくれます。各地や各家庭で恒例の行事として豆まきが行われるのでしょうね。


一般的に「鬼は外、福は内」との口上が有名で、大抵の人はそのように言いながら豆まきをするものだと思っていますが、地域や寺社などによってはそうではない場合があります。東京都台東区にある仏立山真源寺は鬼子母神を御祭神としており、「恐れ入谷の鬼子母神」で有名です。そちらでは、「福は内、悪魔外」と言われているようです。

ギャラリーを訪れて下さるお客さんは、僕にとっては全て「福」だと思っていますし、「鬼」のように暴れたり、怒ったりする方は今までひとりもいらっしゃいません。実際のところ、心の内までは分かりませんから、作品やギャラリーの雰囲気、或いは僕自身を見て、憤慨されている方もいらっしゃるのかもしれません。

人は時として、「鬼」になる必要があると言います。また、その行為は、深い愛情の裏返しとも言われます。そして、そんな人たちは常に自分の近くにいたものです。しかしながら、特に経験の浅い若い時分には、何でこんなことまで言われる必要があるんだと理不尽さに悩み、出来れば近寄りたくないと思いたくなるものです。

実際、本当に鬼だよなと思える人もいましたし、人は大概打たれ弱い生き物ですから、表面上の言動や行動にしか目が向かないものです。したがって、何年か後にふと思い起こすと、そうだったんだよなと気が付く場合が多いように感じます。同時に、自分自身にもそんな「鬼」の一面はあるわけで、過去においていや現在でもある人にとってはそう思われているのかもしれません。

節分は文字通り季節の変わり目を意味します。豆まきはそういう時期に邪気が入り込みやすいことからの厄払いの名残と言われています。しかし、誰もが知っているように「鬼」は現存しない生き物です。だから、「鬼」の住むところは、人の心の中とも言われています。思い当たる節は誰にでもあると思います。

さて、それはどうして生まれてくるのでしょう。

理由はさまざま、これだとは確定出来ません。でも、図らずもそのような場面になってしまう時には、ただ自分の欲求や保身ではなく、情のある「鬼」でありたいとは思っているのです。(当人の捉え方はそうではなく、豆をぶつけられたとしても・・・。)

2011年2月2日水曜日

変化

写真展会期中、僕は日に何度か各作品の状態を確認しています。作品は静物であり、会期中という短い期間でそれ自体変化することはないのですが、ほこりや汚れ、曲がりといった自然な乱れは出てくるもので、主にその辺りをチェックします。毎朝、顔を洗ったり、歯を磨いたりするのと同じです。


人は家族でも会社でも、毎日顔を突き合わせてくると、変化に対して敏感に感じる場合とまるでそうでなくなる場合に分かれるように思います。それは、関心と高さとその人自身の心持ちなんかに影響されているようです。元々興味も関心もないことはそれがちょっと変わったぐらいでは気が付きもしません。逆に、これまで何か気にはなっていたけれど、その所在が分からないとか、その時の自分の気分にはそぐわなかったけど、何か気になったものなんかは、後日出会った時に全く変わっていなくても変わったように感じたりするものです。

また、何年も会っていなかった人に再会した時や以前読んだ小説を年を経て読み直した時なんかには、物理的な変化の大きさや自分自身の解釈の違いに驚かされることがあります。

ここいらは、人間としての不確かさであって、面白さでもあるわけです。

身の回りで起きている出来事の多くは、ある一定のルールの中で起きているものだと思っています。そのルールに従っていれば、安心であったり安全であったりするから、見る側もする側も何も心配することなくいられます。したがって、その変化についても許されるものであったり、気づかないものになります。

一方そのルールをほんの少しでも逸脱したり、はみ出したりすると、途端にそれは変化と認められ、嫌悪感や新鮮な驚きや感動を受けたりするわけです。その基準なるものは、社会としての規範であるべきものや自身の中で適用されているものです。特に後者は人それぞれになってきますから、さらに一つのものに対しての価値観なりが人により変化するわけです。

限りある生、人は自分自身の枠の中で、小さな変化を繰り返しながら生きています。その枠の大きさや重さは人によって違いを見せます。もし、人が不確かなものにしかなれないのなら、ほんの少しルールや枠をはみ出し、自分自身や周りの世界の変化を楽しんでみてもいいのではと思います。

答えなんかいくつもあるのですから。

2011年2月1日火曜日

ものさし

今日から2月です。今週はやや気温も上がり、先週までの身を切る様な寒さも収まるらしいです。ギャラリーのエアコンはフル稼働させているのですが、暖まるまでの時間は外気温の影響をもろに受けているので、少しでも暖かくなって欲しいものです。


仙台は思いのほか風が強い日があり、それだけで外を歩くのが億劫になります。交通機関は地下鉄が南北にあるとはいえ、バスが中心、多くの人は車が頼りで動いているようなところは、どこにでもある地方都市と変わらないものです。首都圏で毎日2時間かけて、通勤や通学していることは、まだ考えられないことだと思います。

良い悪いを言っているのではなく、その辺りの状況もその土地での行動や文化なりに影響してくることは確かです。東京にいた頃だって、雨の日は出ていきたくなくなることもあるし、混んだ電車に乗るのにも抵抗がある日だってあるのですが、長い期間に渡ってそう思うことはあまりありませんでした。

今の僕の交通手段は自転車と自らの足ということもあり、物理的に行動する幅も頻度も、比べられないほど狭く、少なくなっています。30年近く仙台を離れ、ひょっこりと戻ってきたわけですから、当時の人たちと会う機会も滅多に無く、夜にひとりで飲みに行ったりすることも無くなったので、当然の成り行きなのかもしれません。

それでも、僕は楽しみながら生活しているつもりでいます。見た目には地味で、窮屈そうな毎日に映ったとしても、ギャラリーへ集って下さる方々との出会いの方が大事ですし、そのような新しい機会があるからこそ、こうしているように思えるのです。

現状は淡々と過ぎていくもので、自分が望もうが望むまいがそんなことはお構いなしです。ドラマチックな展開やハプニングが起きること自体皆無です。自然の流れに任せ、大切にしている身近な人々と穏やかにそして健やかに過ごしていければ、その他のことは何もいらないとも言えるし、その中に何か物足りなさを感じ、もっと自分自身の可能性を求めていたいと思い、追い続けることも、人それぞれの考えがあってのことです。

幸せや満足の尺度や中身は、その人自身のものさしで測られるものです。他人がどうこういったところで、形となって表れているものでもありません。それでも、そのものさしは社会との関係性の影響を受け、長くも短くもなるものです。

だからと言って、自らが望んでカット・オフするものではないし、環境や状況に依存されるべきものではないと、僕は思うのです。