2011年2月2日水曜日

変化

写真展会期中、僕は日に何度か各作品の状態を確認しています。作品は静物であり、会期中という短い期間でそれ自体変化することはないのですが、ほこりや汚れ、曲がりといった自然な乱れは出てくるもので、主にその辺りをチェックします。毎朝、顔を洗ったり、歯を磨いたりするのと同じです。


人は家族でも会社でも、毎日顔を突き合わせてくると、変化に対して敏感に感じる場合とまるでそうでなくなる場合に分かれるように思います。それは、関心と高さとその人自身の心持ちなんかに影響されているようです。元々興味も関心もないことはそれがちょっと変わったぐらいでは気が付きもしません。逆に、これまで何か気にはなっていたけれど、その所在が分からないとか、その時の自分の気分にはそぐわなかったけど、何か気になったものなんかは、後日出会った時に全く変わっていなくても変わったように感じたりするものです。

また、何年も会っていなかった人に再会した時や以前読んだ小説を年を経て読み直した時なんかには、物理的な変化の大きさや自分自身の解釈の違いに驚かされることがあります。

ここいらは、人間としての不確かさであって、面白さでもあるわけです。

身の回りで起きている出来事の多くは、ある一定のルールの中で起きているものだと思っています。そのルールに従っていれば、安心であったり安全であったりするから、見る側もする側も何も心配することなくいられます。したがって、その変化についても許されるものであったり、気づかないものになります。

一方そのルールをほんの少しでも逸脱したり、はみ出したりすると、途端にそれは変化と認められ、嫌悪感や新鮮な驚きや感動を受けたりするわけです。その基準なるものは、社会としての規範であるべきものや自身の中で適用されているものです。特に後者は人それぞれになってきますから、さらに一つのものに対しての価値観なりが人により変化するわけです。

限りある生、人は自分自身の枠の中で、小さな変化を繰り返しながら生きています。その枠の大きさや重さは人によって違いを見せます。もし、人が不確かなものにしかなれないのなら、ほんの少しルールや枠をはみ出し、自分自身や周りの世界の変化を楽しんでみてもいいのではと思います。

答えなんかいくつもあるのですから。

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