2011年2月3日木曜日

鬼は外?

今日は節分で、暦の上では春になりました。道路に残るザラメ状の雪を見ていると、とてもそんな実感は湧きませんが、それでも春は間近なんだと思わせてくれます。各地や各家庭で恒例の行事として豆まきが行われるのでしょうね。


一般的に「鬼は外、福は内」との口上が有名で、大抵の人はそのように言いながら豆まきをするものだと思っていますが、地域や寺社などによってはそうではない場合があります。東京都台東区にある仏立山真源寺は鬼子母神を御祭神としており、「恐れ入谷の鬼子母神」で有名です。そちらでは、「福は内、悪魔外」と言われているようです。

ギャラリーを訪れて下さるお客さんは、僕にとっては全て「福」だと思っていますし、「鬼」のように暴れたり、怒ったりする方は今までひとりもいらっしゃいません。実際のところ、心の内までは分かりませんから、作品やギャラリーの雰囲気、或いは僕自身を見て、憤慨されている方もいらっしゃるのかもしれません。

人は時として、「鬼」になる必要があると言います。また、その行為は、深い愛情の裏返しとも言われます。そして、そんな人たちは常に自分の近くにいたものです。しかしながら、特に経験の浅い若い時分には、何でこんなことまで言われる必要があるんだと理不尽さに悩み、出来れば近寄りたくないと思いたくなるものです。

実際、本当に鬼だよなと思える人もいましたし、人は大概打たれ弱い生き物ですから、表面上の言動や行動にしか目が向かないものです。したがって、何年か後にふと思い起こすと、そうだったんだよなと気が付く場合が多いように感じます。同時に、自分自身にもそんな「鬼」の一面はあるわけで、過去においていや現在でもある人にとってはそう思われているのかもしれません。

節分は文字通り季節の変わり目を意味します。豆まきはそういう時期に邪気が入り込みやすいことからの厄払いの名残と言われています。しかし、誰もが知っているように「鬼」は現存しない生き物です。だから、「鬼」の住むところは、人の心の中とも言われています。思い当たる節は誰にでもあると思います。

さて、それはどうして生まれてくるのでしょう。

理由はさまざま、これだとは確定出来ません。でも、図らずもそのような場面になってしまう時には、ただ自分の欲求や保身ではなく、情のある「鬼」でありたいとは思っているのです。(当人の捉え方はそうではなく、豆をぶつけられたとしても・・・。)

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