2011年2月10日木曜日

満足感の先にあるもの

満足感の先にあるもの


例えば美味しいものを食べて、お腹いっぱいになった時、人はその食事に満足します。或いは、とても欲しかった何かを手に入れた時、それが思い描いていた通りだった場合、高揚と共に所有することに満足します。また思いがけずに、今まで会いたかった人に出会ったり、その場で話しが出来たりした時、瞬間的に興奮と共に満足感を得るものです。

一方、そんな満足した時間が永遠に続くわけではありません。今度は違った料理を食べてみようとかこれよりももっと便利で機能的なものが出ないかなとかこの人に会えたのだから、この次はこの人に会えるかもとか、さらに違う満足を得ようとします。

個人的に、経験的に、人が得たいと思う満足は、最初は小さなものから大きなものへと自然に流れ、やがてそれは量的なものから質的なものへと変化していくのだと思います。経済的に得られる満足は、ある程度の時間と労力によって導き出されるものです。そうではない部分、つまりお金だけでは得られない満足は、決してその量では計れないし、そうそう得られるものではありません。

人は歳を経るにつれ、余分なものがそぎ落とされて、今まさに必要とするものを自然に受け入れ生きるようになるとどこかで聞いたことがありますが、誰もが聖人君子のように欲も無く生きられるものではないのが本音だと思います。僕にもまだ欲はありますから。

それでも、幼い頃の夢や若い時分の願い、そこから得られるであろう満足といったものは、物質的なものであればある程、どうしてそんなことを考えていたのだろうと思うことはあります。その辺りが、質的な変化の現れなのでしょうが、残された時間の意識がそうさせているような気もします。

表現の世界って、常に満足しないものと言えます。その時満足した気になったとしても、そこで立ち止まれない自分がいます。極端な話、自己満足も自己完結もしないものなのです。そこにもやはり時間が深く関わりを持っているように思えます。そして、その意識があるかどうかでおのずと行動も変わっていきます。限りある時間の中で、瞬間、瞬間の満足感を得ながら、継続していくしかないのかもしれません。それは、たとえ形を変えたとしてもです。

僕にはまだ、「満足感の先」は見えません。

さまざまな出会いの先にそれは待っているのだと信じているだけなのです。

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