2011年2月26日土曜日

「入れ物」

今朝、残り少ないチューブから歯磨き粉を歯ブラシへ絞り出している時、フッと僕のチューブにはどれほどの残りがあるのだろうと思いました。決して悲観的に、感傷的にそう思えたわけではなく、とても冷静に意識していました。


朝早くからそんなことを考える人はあまりいないのでしょうが、日常的に普通にしている行動に対して、今までとは違った感覚や考えが及ぶことは珍しいことではないし、誰もが経験していることだと思います。しょっちゅうそんな風に感じていると、自分でも不安になるのかもしれませんが、そんな状態ではありませんから、単純にそう思っただけなのでしょう。

歯磨きのチューブの例えはあまり良くないですが、よく懐が深いとか器が大きいと表現するように、人それぞれ「入れ物」を持っているように言われます。その「入れ物」は歳を経るにつれ、学習や経験といった後天的に得られるものと先天的に持っている才能や感覚の変化により、大きくなったり小さくなったりするものです。

元々全ての人にはある量の「入れ物」はあるわけで、むしろ重要なのはその中身なのでしょうね。また、受け入れる度量といった部分はその中身以上に、経済的、心持ちとしての余裕のなせる所が大きいのだとは思いますが、ただそれだけでは人に評価されるものでもありません。

僕自身はと言えば、中身が濃縮タイプで、薄めながら小出しにしていければ良いのだけど、そうはいかないし、出す度に自然に補充出来るわけでもありませんから、機会ある時、そしてここぞといった時に勇気を出して絞り出していくしかありません。

見た目は抜け殻のようでも、不思議とチューブからはとめどなく中身が出てくる、そんな「入れ物」だったら、どんなにか良いのにと思ってしまいます。でもそうなるには、まだまだやるべきことがたくさんあるのだということなのですね。文句なんか言ってる場合じゃないよと。

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