2011年5月18日水曜日

乾いた大地に雨水が際限なく吸収されるように、さまざまなものが自分中に入り込んでくる時期が誰にでもあります。具体的には赤ん坊の頃はみな自然に立ちあがり、言葉を覚え、話し、あらゆる生きる為のすべを吸収します。文字通り無垢であることから、親や周囲の環境により、色付けられる時期でもあります。


この時期は、ごく自然に、自分自身で取捨選択することも無く、そして何の疑いも無く、あらゆるものを無条件に受け入れてしまうものです。その為、この時期が人にとってはもっとも大事なんだと思います。いわゆる原体験というべきものですが、これが自分では気づかなくても、のちのちまで残っているからです。記憶ということではなく、あたかも、もともと身に沁みついていた塊りのようなものです。それから、学習や経験、周りの環境、そして様々な人との触れ合いから、徐々に自分自身の考えや行動を身につけていき、それは年齢と共に変化していきます。

やがて、その塊りは大きな柔らかいものから、様々な形へと変わっていくように思います。大きさは人それぞれで、ほとんど自分にも分からない程小さなものになったり、或いはまだまだ大部分を占めるほど大きなものであったりするのですが、それらの影響力が我や個性、意思や行動に表れてくるような気がします。

震災以降、よく東北人気質を言われている機会が増えていますが、僕自身は一様にそうだとは感じていません。気質は育つ環境により大きく変わるもので、今ある塊りの大きさや濃さによっても違ってくるものだからです。だから、そうじゃないよなと感じている人は案外多いのだと思いますし、実際、僕にある塊りはすごく小さいものなのかもしれません。

それでも、塊りが小さいからと言って、東北人の気質がないのかと言われればそうではなく、壊れにくい強固なものとして残っているのだとも思っています。

ただし、それを過剰に意識しすぎるのはいかがなものだろうかとも思うわけです。またそう言われることを素直に受け止め、ただ耐え忍ぶ事を選んでよいのか、と。

おそらくは、今、それぞれが持つ塊りの意味や重さを見つめ直す時なのです。

出来るだけ素直に、そしてそこから見えてきたものを遠慮なく表現や行動として表わさなければいけないのだと僕は思うのです。

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