2011年6月30日木曜日

暑さに負けず

梅雨の晴れ間にしては、異常に暑すぎます。仙台でも30℃を越える最高気温で、日中、少しの間自転車を走らせただけでも、すぐ汗ばんでしまいます。ギャラリー内はそれほどでもなく、エアコンも使用していないのですが、湿度が上がりっぱなしで、作業をしていると暑さを感じます。


今年は節電、節電とうるさいほどに耳にしますから、余計暑さを感じる気がします。仮設住宅に入られた皆さんには、そんなことをあまり気にせずに暮らして欲しいと思ってしまいます。ギャラリーもお客さんがいらっしゃらない時は照明を落としていますけど、本当はいつでもお客さんが楽しんで下さる姿を見ていたいのです。快適な空間の中で、生活の余裕や豊かさ、表現の自由さと奥深さを感じて欲しいと思っているのです。

Love and Joyも準備が進むにつれ、熱さが増して来ているような感じがします。タイトルから想像されることを素直にギャラリー空間内に表現出来れば良いと思っています。奇をてらうことなく、見る人と作る側との境を取り去り、しっくりと身体に入ってくるような展示、そこから発せられる生の喜びや普段の営みの素晴らしさを感じてもらいたいのです。

だからというわけではないのですが、やや熱くなっているのかもしれません。でも、見せる側がそうでなくちゃ、見る側にも伝わりませんからね。

今日も出来るだけ頭は冷静に、それでも、気温に負けない程の熱い気持ちを持っていくことにします。

2011年6月29日水曜日

昨日の続きで、今日はチケットの話。


いままでのチケットは、財布やカードケースに入るように小さなカード状にして、いつでも取り出せるようにしていました。その理由は、会期中何度でも鑑賞出来るパスポート制としていることにもあります。まぁ、無くても大抵は覚えていますので、特に提示していただかなくても良いのですが。

そんなこともあり、今回はこちらのような栞にしました。

少し厚手の和紙に両面プリントしています。手作りですから、サイズに若干の違いがありますが、その辺はご容赦を。


最近は本もあまり読まなくなってしまい、栞にも縁が薄くなりましたが、読みかけの雑誌に印してもらっても良いのではと思いそうしました。財布に入らないので、かさばると嫌がる人もいるでしょうが、そういう方は折っていただいて構いません。


もともと栞は、木の枝を折って、道案内の目印とした「枝折り」から来ているので、折ってもいいのではなんて勝手なことを考えています。今は単に、「読んだ本に挟む紙切れ」のような扱いを受けているようですが、こんな栞があっても良いのではないかと思っています。

「枝折り」は、自分が進んできた道を確認する為に、そして後から来る人が迷わないよう、自分も次に通る時にも間違えないようにするための心遣いや気遣いの形です。安心できるよう、記念になるよう、そして道しるべなのですね。

手に取られて、気に入ったなら、使ってみて下さい。

2011年6月28日火曜日

準備期間

撤収も終了し、壁にはほとんど何も残っていません。今日からは、次回Love and Joyの準備にかかります。展示レイアウトは参加者ごとに概略は決まっているので、その下準備をしておくことと、作品以外の掲示物等の作成が主になります。


開幕までまだ10日以上あるわけですから、それほど慌てる必要もないのですが、皆さん時間が無い方ばかりですから、その場できっちりとうまくいくようにするには、やはり段取りは重要ですし、やってみて初めて気付く場合もありますので、事前のシミュレーションはしておかないといけません。

実際に展示が出来る日となると、各々限られてくるし、重なる場合もありますから、そこまでのコミュニケーションが大事なことになります。今は、メールで実際のレイアウトや構想をファイルとして送付出来るので比較的説明がしやすくなっています。だから、実際に会って話す機会が多くなくても、特に問題にはなりません。

さて、今日は掲示物のプリントをして、入場券を作ろうと思っています。

今回の入場券には少し趣向があります。まぁ、今まではチケットとして、デザインしてきたのですが、チケット以外でも使えるようにしようと考えています。すでにデザインは済んでいますから、プリントし、ちょっとカット作業があるだけです。出来上がりは、明日のブログで報告します。

徐々に壁が作品で埋められていくと、今までの準備の良し悪しがハッキリと見えてきます。想像や構想が実際の形として現れる瞬間、そのワクワク、ドキドキ感を味わえるのは参加者と僕だけと言っても良いものです。

準備期間って、そんな贅沢な時間でもあるのです。

2011年6月27日月曜日

Northeast Photographers “relation” in Miyagi 無事終了です。

Northeast Photographers “relation” in Miyagiが昨日無事終了しました。一日中雨降りのコンディションの中、来ていただいたお客さんにはホント感謝です。もちろん、今まで来ていただけた方や何度となく見えられた方に同様の気持ちです。


有難うございました。

今日は一抹の寂しさを抱えながら、撤収作業をします。お二人は既に昨夜ほとんどの作品を持ちかえりましたから、それほど大変ではありません。半日もあれば、終わってしまうと思われますので、後は少しのんびりとするつもりです。

さて、Northeast Photographersは、現在も募集をしています。今回は宮城のメンバーだけの繋がりになっていますが、本来は東北の写真家の集いの場として、他県で作品発表することの意味を感じて欲しいものです。地域性を重んじながら、そこにあるものをそこだけで理解されるのではなく、他の地域で発表することでどの場にも依存しない普遍性を見出していけないと、逆に地域としての写真が育たないと考えているからです。

個人としては出来るとは思えない大きなテーマではありますが、目指す先は遥か遠く大きなものの方が面白いですしね。

でもそれには、日々の着実な一歩が必要なわけで、時に後退することはあっても(しょっちゅうそうですが・・・)、考えや思いを形にしていかないといけないと思っています。

先ずは、次回”Love and Joy”を楽しみにお待ち下さい。

想いや気持ちを形にすることが、どれほど楽しく、いとおしく、そして大切なものあるかをお見せしたいと思っています。

2011年6月26日日曜日

最終日

泣いても笑っても、Northeast Photographers “relation” in Miyagiは今日が最終日です。多くの方が来られているかと言うと、残念ながらそうではないのが現状ですが、気持ち的に大きく落ち込んでいるわけではありません。


僕は前から評価は自分ではなく、他人がするものだと話していますが、僕にとっての他人とは参加者やお客さんになります。したがって、参加者を先ず評価する立場になります。評価するというと、上から目線で、何か差別や区別、ランク付け、成績といったことが頭に浮かびますが、ここでいう評価は、作品として理解しうることか、はたまた理解出来ない事であっても、それも有りだと思わせてくれるかを、作品そのものやその人自身から見て取る行為になります。

一方、作品や展示会についてのお客さんの評価は、非常に見て取るのが難しいです。ハッキリと自分にとっての良し悪しを話される方はまずいらっしゃいませんからね。だから、ほとんどの場合は、ギャラリー内で見られている様子や表情からしか得ることが出来ません。それでも、何となくは分かるものです。

参加者を評価し、それらを持って企画として主催することで、僕は評価されます。そこでは、見る側にここに到る経過や経緯を事細かに説明しているわけではありませんから、結果でしか見られません。僕が良しと考えていても、そう思わない方がいるのは当然のことで、結果、満足していかれない方もいらっしゃるのだと思います。

僕はそれらの評価を真摯に受け止めるしかないのです。そして、次のステップへの経験として自分自身の実となるようにと考えていくわけです。

だから、人数の多さはもちろん嬉しいことなのですけど、たったひとりしかいない理解者であったり、真剣に感想や助言や辛辣とも思えるような意見を話してくれる方を無意識に求めているのかもしれません。

何はともあれ、今日が最後です。

もし、偶然これを見た方、見たいと思われていた方は、是非お越し下さい。

それにしても、最終日はよく雨が降るなぁ・・・。

2011年6月25日土曜日

道楽

道楽


昔からいい意味では使われることのない言葉です。僕も充分それに値することをしているようなものかもしれないけど、楽しいことばかりではないから、全てが当てはまっているとは言えないと、言い訳のようなことを時々考えています。

一方、道究、そんな言葉はありませんが、よく聞く道を究めるというと、とてもストイックでえらいことをしているような感じがします。同じ道でも、楽しむと究めるでは、その印象に大きな違いがあるわけです。

じゃあ、何が違うのかというと、単純にそこから生み出されるもの、考えといった有形、無形に捉われず、向いているベクトルが違うのです。いずれも、個人に関わることで、他人がどうこう出来る、指図することではありませんが、前者は自己にだけ向かっているのに対して、後者は表面的にはそう見えたとしても、そこから他へと影響を与え、共感の対象となります。

もちろん後者の方がいいに決まっています。エゴからは何も生まれませんから。

それでも、時々、最初はどれも道楽だったのではないかと思うことがあります。その道に興味を持ち、次第にそれが楽しさになり、夢中になっていく過程から始まるものだし、そこには非常にパーソナルな部分がなければなりません。

人からあれこれ言われ、ああしろ、こうしろと指図されている内は、そこに楽しさは見出せないものだし、そんな道を歩むことに疑問を持つはずです。だから、道楽は究めることへの第一歩だと思うわけです。先ずは、自分にとって楽しめることかどうかですね。

そうして、その楽しさや奥深さといったものを伝えようとする行為というか、思いでもいいわけだけど、そこに意味を見出せたなら、方向が変わってくるのかもしれません。

それにはやはり行動が伴わなければならないし、自分に問い、世に問う必要があるのだと思います。

さて、これを読んでくださっている皆さんの中には、写真に興味を抱き、楽しみを見出している方もいらっしゃると思いますが、道楽のままで終わらせたいと思いますか。

2011年6月24日金曜日

シグナル

いやぁ、蒸し暑いです。


外はすでに30℃近くまで気温が上がっているらしく、おまけにいつ雨が落ちてきてもおかしくない状態だから、湿気がじっとりと肌に絡みつく感じです。

今日は、除湿機を稼働しなくてはいけないですね。もしかしたら、エアコンもドライで動かさないといけないかもしれません。ギャラリーは半地下で湿気がこもりやすいのが困りものですが、気温は低めになっているから、除湿だけでかなり環境は改善します。除湿機の周りが2~3℃ぐらい上がってしまうのですが、湿度よりはまだましです。

大きな美術館のように空調完備まではしていないのが現状ですから、少しでも作品にダメージを与えないことが重要です。以前から、照明(スポット)は、お客さんがいらっしゃる時にだけ付けているようにしています。これは節電を意識してというより、作品保護の観点からそうしています。

今回の展示は、額装をした状態のものですし、会期も1カ月程度ですので、それほどまでに気を使うこともないのですが、壁に直接作品を貼り付けたり、作品表面が裸で出ている場合は要注意です。基本、写真作品は紙で出来ていますから、紫外線といった光や湿度、温度変化には影響されてしまうものですから。

しかも、人と違って我慢することなく、かと言って急激に変わるわけではなく、徐々に反応しますから、気がついた時には手遅れなんてことも考えられます。ときおり、少しでも言葉でもって不平、不満を言ってくれたらどれほど助かるのにと思ってしまいます。

人も口に出して文句を言ったり、辛さを語ったりすることはあまりしないもので、やはり周りで見ている人が必要なんだけど、それでもその表情や態度から何となく感じるものです。シグナルのようなものを、どこかで発しているものです。

でも、周りにその余裕すらないと、そのシグナルはどこかへ消えていってしまします。そうして次第にそれが本人にとって当たり前に感じられると、シグナルは外から内へとかわってしまいます。

人はいろいろな形で他人と接し、自分を表現し、何かを伝えようとする生き物だと思っているのですが、人それぞれ形は違うものです。きちんと額装されているものもあれば、直接裸のまま現れていることもあります。

受け取る側の扱いによっては、発するシグナルが内側に向かってしまうこともありますから、そうならないようにしたいとはいつも考えています。

急に変ってしまったと思うのは自分だけで、その人自身は徐々に変化しているものですし、

それこそ、手遅れにならないようにしなければいけないですから。

2011年6月23日木曜日

今日もいつも通り考えよう

雨です。地震です。


今朝はちょっと気分が重いスタートになっていますが、そうも言ってられません。何しろ、本会期は今日を含めて後4日、次回の準備も来週から本格的に始まりますから、その下準備も進めなくてはいけません。

参加者は普段仕事を持っているので、ギャラリーで打合せが出来る時間は限られていますから、僕はその貴重な少ない時間にどれだけ効率よく、内容のある話が出来るかを考えるだけです。普段のやり取りはメールでも出来ます。その内容から想像出来うることをあれこれ考え、具体的な処理や方法を検討している感じです。

特に宮城県外の方や県内でもギャラリーから離れている方については、わざわざ来てもらうわけですから、考える範囲は拡がります。だから、ギャラリーやアート、写真とはおよそ関係ないことも調べなくてはいけません。

展示に関わることをネット等で調べても、実際使えなければ話にならないので、時にテストもします。たとえ最終的にそれが使われなくても、特に気にしてはいませんし、もっと良い方法があればそちらを選べば良いのですから。

ただ気を付けないといけないのは、参加者寄りに目を向け過ぎて、見る側の意識をないがしろにしていないかという点です。奇抜な考えや演出は時に必要ですが、自己満足的な楽しさだけが前面に出ても、見る側は白けてしまいます。言葉は悪いのですが、歩み寄る部分と突き放す部分のバランスが重要なんだと思っています。

自分の考えや思いを自分のやり方でもって表現することがアートであるわけですが、ただそれだけを追い求め、やや権威的で押しつけがましい提示をしただけでは、お互いが不幸になるだけです。そこには、一種のシンパシーが発生しなければ、何も生まれないものだと思っています。

だから、僕のしていることは言葉を変えると、参加者と見る側、作品と参加者、作品と見る側、それぞれの立場、立場を考えながら、同じ時間を生きている者として、何かひとつでも共有、共感出来るものを探していることなのかもしれません。

2011年6月22日水曜日

梅雨入り

東北地方もようやく梅雨入りです。これからしばらく続く雨やじめじめとした湿気を思うと、ややうんざりとしてしまいます。夏の日差しを受けるまでの通過点だからと言い聞かせ、やがてそうなったとしても、今度は暑い、暑いと言うのだろうし、空の上ではそんな文句など聞いちゃいられないと思っているに違いありません。


雨が降ろうが槍が降ろうがと言うけれど、誰しも晴れの方が良いに決まっています。もちろんこれは気持ちの問題で、実際のお天気のことを言っているのではありませんし、お天気さえ良ければそれでいいわけではありません。雨の日であっても、それはそれで、気持ちの良いことはあるはずです。

作品を作ること、広くはモノづくりにおいても同じことが言えます。自分の思い描いた通りに完璧に出来ることって、まずあり得ませんし、自分以外の何か分からないプラスαによって、ようやく満足に近い形が生まれるような気がします。それって、常に晴れで気持ち良いだけでは現れてこないものなのだと思うのです。

制作には常にそこに到るまでの苦労が付きまとい、また偶然がその壁を破るきっかけにもなったりするので、一概に自分の技術や経験だけで測れないものです。それでも、そのプラスαは、どれほどひとつのことに向きあえているかによって、大きさや重さが変わってくるように思います。

たとえ今日がどっぷりと雨降りの気分であったとしても、絶えず向き合い、考え、そして少しでも良くしようと思い、トライしてさえいれば、そこでは気づかなくてもどこかで何かが変わってくるはずです。重要なのは、実際にトライすること、頭の中の想像を創造に変えること。

だからこそ、雨の日も必要なのです。

自然は、まさに自然の内にその事を僕たちに示しているのです。

2011年6月21日火曜日

楽しさや喜び~自分に与えること

昨日も書いていますが、今週がNortheast Photographers “relation” in Miyagiの最終週になります。以前は最終週に見に来て下さるお客さんが増えたものですが、震災以降、顕著な傾向では無くなりました。やはり、気分的にこのような生活と直接関わらない展示会を見て、楽しむこと自体何か後ろめたいような感覚があるのかもしれません。


昨日も休みを知らずに、以前出展してくれた写真家の方が訪ねて来られ、たまたまギャラリーにいたのでお会いすることが出来ましたが、周りの方にも写真を撮る、発表を考える気分になれないと話されている方が多いと仰っていました。単純に哀しく思います。

様々な困難や精神的な辛さを克服するには、ある程度の時間が必要なことは僕でも経験的に知っています。そんな状況に置かれた時、自分は何をしているかといえば、僕の場合はただ時が過ぎるのに任せて、いずれ、楽しさや喜びの瞬間が訪れてくれるものと願っていたように思います。自分自身ではなく、誰かからとかどこかからそういったものが降りかかってくるかもしれないと考えていたわけです。

でもね、次第に何も変わらないことに、ある瞬間気が付きます。本当にある瞬間です。今まで自分がしてきていることが、まるで無生産で無為なことと思えてしまう瞬間です。おそらく、その瞬間が訪れてくるまでの時間が人それぞれ違っていて、一般的に気持ちの痛みといったものから回復するには時間が必要になると言われるのだと思います。

じゃぁ、その瞬間が訪れるまで、人は現状から前に進めないものなのと言われれば、決してそうでは無いように思っています。それは過去の歴史から言っても明らかなことです。

先ずは楽しさや喜び、そんな自分にとってはかけがえのないものを、外側に求めるのではなく、自分自身に少しずつ与えることが大事なんだと思えます。そして、他人が見て、そんなこと、と訝しがられても、出来るだけ気にしないこと。

だから、これまでカメラや写真が好きで撮影をしてきた人、或いはそれでもって生活の糧としている人、写真を問わずアートが好きで見に行っていた人たちは、もう一度それが自分にとっての何物だったのかを考え、もし、かけがえのないもののひとつであったなら、誰に構うことなく自分自身にその機会を与えるべきなのです。

やがて、その喜びや楽しさは、周りの人たちの元へ届くはずなのですから。

2011年6月20日月曜日

今日は少しだけ休むとします

今日はお休みです。することはいろいろあるのですが、少しのんびりしようと思っています。Northeast Photographers “relation” in Miyagiも今週が最終週になります。約一カ月という長丁場ともいえる写真展に思われますが、している方はもう終わってしまうとの印象があります。毎回、最終日になるにつれその思いは強くなるようです。


同時に、次回の写真展の準備も進めなくてはいけないので、そんな余韻にどっぷりと浸ってもいられないのも事実で、どこか醒めた感覚は必要です。それでも、きっちりとモードを変えるようにはいかないのが本音なので、ぼちぼちと少しずつ進めるしかないのです。

その時考えたことが最善であるとは言えないし、やはり見直しもしなければいけないから、案外進んでいるようで進んでいない感覚の方が強いのかもしれません。それが、焦りに繋がったり、表情や態度として現れ、自分以外の人たちへ影響を与えてしまったのでは元も子もありません。ここでいう自分以外の人とは、お客さんや参加してくれる方、そして何より身近にいる人たちのことです。

特に気の許せる人たちには、普段からぞんざいに扱ってしまっている節があるので、いつもひとりで反省をしているのですが、なかなかその気持ちを行動にすることは難しいものです。時折、polkaと変わりたいと思うのは、そんなことがあるからなのかもしれません。

まぁ、そんなこともあり、誰しも休むことは必要です。だから、今日は少しだけ休むとします、なんて書くと強制的に休めと自分に言っているようで、これまた変な気分になってくるので、自然にだらだらと過ごすの方が当っているのでしょう。

でも、polkaは相手をしてくれないだろうなぁ・・・。

2011年6月19日日曜日

早起きした朝

今朝は5:30に起床でした。元気を取り戻したpolkaに水をせがまれて、耳元で鳴かれてしまった為です。それでも寝不足感は無かったので、いつものように目覚めた気分ではありました。先ずはpolkaに水を用意して、飲んでいる様子をぼんやりと眺めていました。


少しだけ早めに起きた日は、何故か時間の進み方が遅く感じるものです。テレビを付けてひととおりチャンネルを回しても、この時間だと平日とは違い特に見るものがないので、取りあえずはシャワーを浴びようと風呂場で準備していると、またしてもpolkaの鳴き声です。いつものルーチンワークのように、今度はエサを出せと言っています。昨夜出したエサはまだ残っているのですが、決して手を付けようとはせず、その前で交換されるまでずっと待っています。

それから僕がエサを交換すると、特に興味があるようなそぶりも見せず、一度匂いを嗅いで確かめた後に、少しだけ食べるのがいつもの決まりです。今日もそんな感じでpolkaは朝食を終えると、一仕事終わったかのように、一人掛けソファの上で寝る体勢に入るのです。でも、僕が部屋にいる間は眠りにつくことはあまりありません。ただ、ぼんやりとしているだけです。

それから、僕はシャワーを浴び、いろいろと雑事をし終えてから、部屋を出るわけですが、その間も僕を注意深く見ていることもなく、もう自分は寝るだけだから、お前も好きにしなよと語りかけているように見えます。そして、いつもの朝の一こまを終え、今ギャラリーでこれを書いているわけです。

さてと、今日は阿部さん、福島さんが来られるはずですし、何人かのお客さんが来る連絡が入っていますので、ギャラリーの中も少しはにぎやかになると思います。天気も良さそうですし、やっぱり多くの人に見に来て欲しいなと思ってしまいます。

こんな僕の気持とはお構いなしに、今頃polkaは眠りについているのでしょう。

これもいつものこと。

でもね、そんな気を使わなくても良い普通の積み重ねが、今一番、心や気持ちを平静にしてくれるものなんだと思えるし、それ以上を望むこともないのかなと感じもします。

いつもの一日が始まる、でも今日は早く起きた分、少しだけ時間がゆっくりと流れているような気がします。

2011年6月18日土曜日

”place”

いままで、Northeast Photographersに参加されているメンバーの作品を紹介してきましたが、もうひとり、福島さんの作品を書いていなかったので、今日は少しだけ。


福島さんの作品は、先ずプリントがとても丁寧できれいです。今回はインクジェットによるプリントを選んだのですが、自身で銀塩プリントも出来る方です。ここでいう出来るとは、今も日常的に行っていることを意味します。

タイトルは”place”、訳すと「場所」になります。これは彼自身が行っているプロジェクトのひとつで、歴史的に意味ある場所、そこで起きた出来事と現代との相関、そしてそこに暮らすもしくは集う人々の姿を通して、忘れかけている記憶やかつてあった痕跡、引き継がれた心や恐れといったものをスナップしようとしたものです。

今回の舞台は、広島、平和記念日の一日を撮ったものです。そして、そこに写されているのは原爆投下という悲劇そのものではなく、あれから約70年近くたった現在の日常です。ドキュメントではありません。かといって過度な感情移入もなく、淡々と写し撮られているように見えます。

僕がここから見えてくるものは、文化や暮らしぶりといった生活に関わるものについては、時代と共に変わってきているのだけど、歴史はもっと大きな影響力をもって人々の心の中に確実に根のようなものを残しているということです。つまり大きな衝撃や出来事、あるいは日本人としてシンボリックに感じるものが、自然の内にDNAとして組み込まれているのではないかと思えるのです。

展示の構成も良く出来ています。ひとつひとつの作品が、とても印象的に目に飛び込み、心に残ってくるような感じがします。なにより、押しつけではなく、自然に入り込んでくる感覚がするのは、プリントの良さがその一端を担っています。

目の前にしていると、デジタル、銀塩という前に、作品としての質や性格を見るべきと、言われているような気もします。

損得ではないけど、見ないと損をする、そんな類の写真なのです。

2011年6月17日金曜日

“Hope for tomorrow”

このまま梅雨入りかと思わせるような雨、しかも気温も低く、昨日までの半袖一枚姿ではいられそうにありません。いつもギャラリーは外の気温より3~4℃低いので、長袖のシャツやニットは欠かせないのですが、今日は外でもそんな感じです。


こんなあいにくの寒い日なのですが、夏らしい販売アイテムの発表です。

本日から“Hope for tomorrow”というTシャツを販売することにしました。“Hope for tomorrow”とは、直訳すると「明日に希望を」となりますが、まだ先にある未来を夢見ながら、それを現実のものとするには、今であったり、また、今はそうでなくても明日に希望を持って生きていけなければ訪れるものではありません。だから、その思いを胸に抱きながら、ずっと持ち続けましょうという意味が含まれています。

第一弾として、うちでは常連となっている江口敬さんの写真作品の一部をプリントし、予約で販売します。これをアップしてから、サイト更新しますので、午前中には詳細が見られると思います。

アート系の写真ギャラリーがすることなのと非難を受けそうですが、これも写真で出来ることのひとつだと考えています。次回の”Love and Joy”では、全展示作品を対象にしてTシャツプリント販売をする予定です。

実物はギャラリーで見られますので、ご興味があれば、是非お越し下さい。

気に入ったなら、これから来る夏の日差しの下、このTシャツを着て、上を向いて歩いてみて下さい。もしかしたら、普通の景色が少しだけ違って見えるかもしれません。

2011年6月16日木曜日

他人の目

現在、次回の準備の追い込みをしている最中で、昨日も参加者のひとりがギャラリーへ見えられました。”Love and Joy”は、タイトルそのままがテーマみたいなもので、対象や撮影・プリントに関わるものについて制限はありません。これまでも大きなテーマはあっても、その詳細は表現する方々の自由にしています。解釈は人それぞれですし、あまり焦点を絞りすぎても、表現に制約を与えかねないのでそうしているわけです。


これは、参加される方々同士の比較とか、優劣といったものをまったく意識していないこととも繋がっています。僕自身、人並みだとか、横並び、或いはレベルや順位ということ自体、あまり好きではなく、そんなことは度外視して、もっと自由な個々の表現の場であって欲しいと思っているからです。

そうは言っても、やはり他人は気になるものです。他人とは、参加する他のメンバーと見て評価されるお客さんを意味します。人間自分にとって嫌なことは聞きたくもないし、同じ写真を撮っている者として、表現力とか技術的な差のようなものは自然に分かりますからね。時にそれを意識しすぎて、本来の自分を出せないことは良くある話です。

本来は、自分が伝えたいことを明確に持っているのならそれで良いわけで、それらを形として表わすにはどうするかを考えさえすれば、他人の目を意識する必要はないと思っています。評価は常に曖昧で気分屋ですから、惑わされたり、踊らされたりすることはないのです。

僕はそれらを気にすることなく、自分自身の表現が出来るようにちょっと手助けしているだけとも言えます。そして、そんな他人の目よりも、もう一人の自分の目を意識し、自身を見定められるように促しているのです。

2011年6月15日水曜日

個展、グループ展をしよう!!

一昨日、サイトを更新して、「個展、グループ展をしよう!!」というものを出しています。簡単に言ってしまうと、ギャラリーを使って自己表現をして見ませんか、ということ。


僕はずっと展示、発表することの意味や意義のようなことをここで書いたり、ギャラリーに訪れて下さったお客さんに対して話して来ているわけですが、多くの方はいずれはそうしたいと言ってくれますし、このような発表に否定的ではありません。

それでも、実際発表することを考えると、これまた多くの人は躊躇します。理由はいろいろあるのでしょうが、先ずどう進めれば良いかが分からない、あるいはこの発表で何が出来るか、自分自身に何をもたらしてくれるかが分からない、まだ自分に出来るだけの自信が無いなどが挙げられます。もちろん現実的に費用の面もあります。

その不安要素を少しでも軽減する意味で、あるテーマに沿ったギャラリー主催の公募形式の企画展を行ってきました。Sha-gakuはテーマや展示方法も自由ですし、僕のサポートも入りますので、初めての方でも充分発表が可能な企画です。実際、展示発表経験ゼロの方が何人かいました。

これと並行して以前からギャラリーレンタルは行ってきていますが、なかなか利用される方はいらっしゃいません。これまた、理由はさまざまです。僕自身、単純に箱貸しだけしてしまって、後はお好きなようにとは言えない性格だし、そうなってしまうこともハッキリ言って嫌なわけで、その辺りの雰囲気が伝わっていたのかもしれません。そこらへんも考慮して、価格の方も若干高めにしていた感はあります。

でも、どこかでもっとオープンにしてもいいよなとは思っていました。それは、これまで集まって下さった方々との出会いが、僕にとってとても素晴らしい経験だったからですね。単純にそんな経験がもっとしたいと感じたから、この企画を出したと言っても良いのです。価格もかなりお得になっています。もちろん必要とあれば、僕もサポートをします。自分で好きにしたいんだという方も大歓迎です。

今したいと思うこと、そしてそれがちょっとの頑張りで実現可能なことだったら、今するしかないでしょう。そう思える人は今すぐこちらを見て下さい。



2011年6月14日火曜日

“relation”・・・繋がり

Northeast Photographers “relation”in Miyagiは、おかげさまで雑誌等でも紹介されています。今月発売中のS-Style、先週発行された河北ウィークリー、そして先週河北新報社さんからも取材を受けましたので、たぶん夕刊に取り上げられるのではないかと思います。ホント有り難いと感じます。もしどこかで目にされたなら、是非とも作品を見に来ていただきたいと願っています。


毎日テレビを始めとするメディアから、絆とか繋がりという言葉を耳にします。本写真展にも“relation”繋がりという言葉が入っています。誰しもがひとりでは生きていけないと知ってはいるけど、いつもそれを意識しているかといえばそうではありません。辛くなったり、苦しくなったり、それとは逆に楽しく、幸せな気持ちになった時なんかにそれを意識するのではないかと思います。ひとり孤独に陥った時、家族や気の合う仲間と楽しい時間が過ごしているその時に、目には見えないその存在が心や頭の中に投影されるのではと。

一方で自立というように、自分ひとりで立つ、生活基盤を持ち、生きていくことを世の中は要求します。そこには、先ずは自分の力が必要になってくるのですが、誰しも始めから備わっているわけではありません。後押ししたり、支援したり、暖かい目を持って見守ってくれる人やモノが必ずあります。

幼い子が自力で立ち上がり、やがて言葉を覚え、一番近くにいる親との関係性の中、様々な経験を通して、自分の考えを持っていく過程にしても、ひとりでは何も進まないし、自然に任せてと親自身が考え、実際そうしている人は少ないように思います。やはり、何らかの関わりや影響を与えながら、繋がりを持って接しているわけで、その事は身内だけに限ることではありません。

そして、個人的には、その繋がりや絆という言葉は、何か、今この状況に到ったから、盛んに声高に繰り返されるようにも見えてしまうけど、一種のプロパガンダのようになってはいけないものだと思っています。心からそう思える、思わせてくれる環境や自身の気持ちがあってこその言葉であって、そこから自立へと繋がっていくのですから。

だから、この写真展は大げさに言うと、写真という限定されたものではあっても、地域の繋がりを意識して、そこからそれぞれが自立へと向かっていってほしいとの願いも含まれているのです。

2011年6月13日月曜日

普通の生活

今日は朝からpolkaの糞詰まり治療で久しぶりに病院へ行ってきました。土曜に兆候が見られ、何度かトイレにいったものの出ないまま、昨日はすっかり諦めたのか、じっと大人しくしていました。これは無理だなと思い、今朝一番で病院へ連れて行った次第です。


行く時はいつものようにケージの中で盛んに鳴き声を上げるのですが、診察台に乗せられてからは以前のように暴れる素振りはありません。観念しているのか、どんなことをされるのかをもう分かっているかのような表情です。この後、自分もスッキリとまではいかなくても、元通りになるのですから、しょうがないなと思っているのかもしれません。

施術は無事10分程度で終わり、部屋に戻ると安心したように自分の体をいろいろな所にこすりつけます。これも、あれも自分のものとでも主張しているようにも見えます。ほとんど僕のことはお構いなしです。よくやってくれたとお礼などされませんし、感謝の気持ちを表してもくれないのだけど、そんな普通のいつもの姿を見ながら安心している自分を感じることが出来ます。

やはり、普通って素晴らしいことなのですよね。嫌なことや理にかなわないこともあるけれど、それって多分その人にとって普通ではないからそう思うわけで、そうではない大部分の中でいられることが笑顔や安らぎへと繋がっているのだと思います。

だから、アートにしたって、人が生きている普通の中に無くっちゃ駄目なんです。決して特別なものではなく、パーツの一部のような、そしてスパイス的な存在であれば、生きることの価値が一層豊かなものへと変わっていくのだと思うのです。

効率やモノだけでは決して得られないもっとかけがえのないもの、とても漠然として、ぼんやりしているものだけど、誰だって感じて、触れて、手に入れたいと思っているのだし、やっぱりそれは普通の生活の中でしか得られないものですから・・・。

2011年6月12日日曜日

「祭風」・・・ポートフォリオ

Northeast Photographers “relation” in Miyagi は、今日がちょうど中日になり、2週間が過ぎました。お客さんの入りはまだまだですので、もっと多くの人に見てもらいたいなとの気持ちが日々増していきます。先日は菊地さんの作品の対象である軍艦島の話を書きましたが、今日はこれ。


これは、今回阿部さんだけが出展しているポートフォリオです。


一冊にA4プリント品が約20枚収められていますので、2冊で約40枚になります。展示作品はこの中からセレクトしたものを、A3ノビプリントにして10点となっています。

阿部さんの作品の対象は「祭り」そしてそれらを取り巻く人々に当てられています。でも、そのほとんどは記録としての役割ではなく、ありきたりのドキュメントでもありません。時に抒情的に、時に躍動的に、その地方で綿々と繋がってきた暮らしぶりや文化、そしてそこで生きている人々をまるで夢物語の一シーンのように切り取っています。

僕はそこで写されている人々の表情や動きに惹きつけられます。喜びを体全体で表現しているものや憂いを含んだ少女の横顔、勇壮な男たちが水を掛け合っている写真には、今その場で生きている事の喜びや充実といったものを感じずにはいられません。

ポートフォリオは、それらがひとつの物語のようにうまくまとめられているように思います。40枚というある程度のまとまりが、この世界を表現するには必要だったのかもしれません。

展示作品はもちろんですが、このポートフォリオを見るだけでも、写真を撮られる方、いやそうではない方にも貴重な体験になるはずです。既に2冊組の写真集とも言えます。

是非、見にお越し下さい。

2011年6月11日土曜日

「出来る、やる」を考え続けていたい。

震災から3カ月


今朝は雨降りでじっとりと湿った空気に包まれています。徐々に天気は回復し、気温も27℃まで上がるとの予報です。3カ月前の今日は雪が降っていたことを思い起こすと、時間は否応なしに進んでいることを感じさせます。

いまだ、水道も復旧していない地域があることを知らされると、被害の甚大さを改めて認識するわけですが、一方、それほど被害が少ない中心部はだんだんと普通の暮らしぶりに戻っていこうとしている感じはします。向かいにある自動車販売のショールームにも、車を見ていたり、商談している姿がガラス越しに見られるようになってきました。先ずは生活を戻すことが先決なのです。

ところで気持ちの方はといえば、これはまだ時間がかかるのだろうなと思えます。必要に迫られることはしなければならないから、気持ち的に乗ってこないことでも、せざるを得ないわけで、無意識の内に、させられる感を受けているような気がします。その反動から、自分の好きなことや趣味といって部分に気持ちが乗ってくるかといえば、そうではなく、何かそれすらも後ろめたい気分になってしまいます。

やはり、ここしばらくは、「出来る、やる」ことではなく、「する、させられる」の時期が続いてしまうのかもと思えてしまいます。でもね、この状況を打破していく源は、最終的には個の力なのだと信じている部分があって、復旧や復興のための国や地方からの援助はあくまで補助に過ぎないようにも感じます。実際、直接では無く、間接的に影響を受けている人々は、ただそれに手をこまねいているだけではないはずですから。

「出来る」ことがあるわけです。

この状況だから「する、させられる」ではなく、この状況だからこそ「出来る、やる」ことを考え続けていたいと、僕は思うのです。

2011年6月10日金曜日

今日はいくつか試作をしよう。

今日は時間の合間を狙って、いくつか検討している展示方法やデザインの試作をしてみようかと思っています。試作と言うと、エンジニアだった頃のことを思い出しますが、いくらIT技術が進んでも、実際にプロトタイプを作り、試行錯誤しながら検討していく工程は昔から変わらないものです。


今はシミュレーション技術が発達してきて、以前よりはまとまりが早くなってきましたが、最終的には実物での確認になります。やはり、いつになっても実体のあるモノとして、この目で見て、手で触れて動きやそこから受ける印象なんかを確かめることが必要なわけです。

そこには決まって苦労や困難はつきもので、いかにそれらを含めて楽しめるかがモノの良し悪しを決めていくような気もします。回り道と分かっていても、敢えてその道を進むことも必要ですし、現実との妥協も考えなければいけませんから、悩んで当たり前、始めから何事もうまくいくことなんて奇蹟に近いことです。

表現の世界も同じです。一見感性だけで作っているように思われがちなアート作品にしても、やはりそれらには明確な意味やテーマがあるわけで、好き勝手に出来てしまっているのではありません。写真だってそうですね。その時の状況に合わせた撮影技術も必要ですが、一瞬のタイミングでしか撮れないのですから、個人的には思う前に撮ってしまえ、多くシャッターを押さないと、と思っています。(ブレッソンは違うようですが・・・。)

いずれにせよ、あれこれと考え、実際に作っていたりする時は、どうなるかという期待感や予想した通りにいくだろうかとの不安感がないまぜになっているのですが、この時間がとても貴重に感じられます。

結局、形あるモノを作っていくことって、その積み重ねの結果ですからね。

ある時はいとおしく、ある時は冷静に判断し、その大切さを感じながらしていければ、きっと良いモノは出来るはずなのです。

2011年6月9日木曜日

久々にサイトを更新します

今朝は澄み切った青空で、とても気持ちがいいですね。


それでも天気予報では、これから崩れていくようなので、陽が射している間は出来るだけ外にいようかなと思っています。

今日はこれから久々にサイトを更新します。7月予定の”Love and Joy”の詳細を載せる予定です。今開催中の Northeast Photographers “relation”in Miyagiもそれぞれに力ある作品ばかりで、是非とも写真を撮っている方々に見ていただきたいのですが、”Love and Joy”も負けていません。

参加される方は現在、作品の最終セレクションと展示方法の詳細を煮詰めているところなのですが、今のところ作品点数が60点を越えるのではと思っています。作品の世界観に合わせた展示方法を考えていますので、ひとりひとりの個展の感が強く感じられたらいいなと思っています。

これに合わせてちょっと考えている、検討していることもありますので、その辺はまとまり次第告知していきます。何か、自分が楽しんでいるだけのような印象を受けるかもしれませんが、先ずは自分が元気で面白いと感じなければ、していてもつまらないですから。

それに、今、仙台で面白い、感動出来る、楽しめる写真作品は、ここでしか見られないよ、ぐらいの気持ちが無いといけないですし。

Sha-gakuも現在募集中です。自分も楽しみ、それで人も楽しめることが出来るってすごいことだと思います。そんなこと今の自分に出来るわけないよと考えているだけで、誰かがそうしてくれる、そんな時がいつか訪れると期待していただけでは、いつまでたっても実現しません。誰もがわかっていることですよね。気持ちだけでぶつかってくる方も大歓迎です。

さてっと、更新作業をします。

2011年6月8日水曜日

良き表現者は善き鑑賞者でもある

良き表現者は善き鑑賞者でもある


どこかで聞いたことのある言葉のようですが、さまざまな写真家の方やその他のアート関係に携わっている方々、また写真が好きな一般の人々と触れる機会が増えるたびに、そう感じます。

表現者の多くは、自分自身の内なる言葉を聞き、問いかけを行い、実際の形あるものとして発表するわけですが、自身の事だけに没頭し、周りを見ないような人は案外少ないものです。他人を見ることから何か刺激を受け、影響とまではいかないけど、これまでとは違った視点や発想を得ようと、自然の内にそうしているように思います。

それは学習とか経験を得るためにとかではなく、単純に自分との違いを発見し、感じられることが楽しいからそうしているようにも見えます。平静を装いながらも、実は心躍り、ドキドキとしているように思える時もあります。そして、その事は自分の領域外のものに触れた時に多く起こるようにも思えます。

一方、表現を自らはしていない、いわゆる作品を見ること、触れることが好きな一般の方は、これまでの経験や知識の外側の領域のものを見せられると、一瞬拒否感と違和感の方が先に感じられるようです。その為、大抵は期待以上のものを求めているのだけど、自分の領域を越えたものは理解出来ないと思ってしまうから、自分の分かるものを見て楽しむようになるのです。結果として見る対象を自らが狭めているとも言えます。

でも、これも悪いことではありません。誰だって自分の興味の無い、好きでも無いものを見たり、触れたりすることを大事な時間の中に割いて入れようとは思いませんからね。至極、当然のことなのかもしれません。

ただ、それだけではつまらないよなとも思うのです。いろいろな世界を見て、これまでとは違った体験をし、いくつもの考えを知り、自らがそれらから感じるものを理解しようとし、結果理解出来ない、受け入れられないとしても、その方が良いように思うわけです。

善き鑑賞者とは、自分の考えの及ばないものに対しても何かを感じ、理解しようとする人たちであって、表現もそれに近いのだと思います。対象が内か外かに違いはありますが、結果、形として外側に向けられるのですから、同じだと言っても良いのかもしれません。

だから、良き表現者は、自らの作品に対しての善き鑑賞者でもあるべきなのです。

2011年6月7日火曜日

動き出さなくちゃ

動き出さなくちゃ。


実はこのところ少し焦っている感があります。震災以降、スケジュール変更はしていますが、今も企画展を行えているし、次の準備にも取り掛かっているわけで、とても幸せなことなのかもしれません。

それでも、企画はそれに賛同し参加して下さる方々がいて初めて成立するのですから、僕自身していることはそのサポートに過ぎません。なので、時折、僕自身が果たして何を成し、ホントに何かを世の中に寄与しているのだろうかと考えてしまいます。

それを探し続けることも僕の仕事のひとつであるわけで、永遠のテーマなのかもしれないけど、結局は分からないままでいるような気もします。だから、今は続けることしかないんだよと自分に言い聞かせ、続けることで意味や意義みたいなものが見えてくると考えているのです。

サイトの方もちょっと更新をしていなかったので、今週中に次回企画展情報を載せる予定です。また、思い浮かぶ案の中からいくつかを提示出来ればとも考えているところです。

そう、自分がちょっとでも何かを発信し、それが形になる実感が欲しいのかもしれません。このブログにしてもそうだろうと言われれば否定は出来ないのですが、創造や生産といった部分での実感があるかといえばそうではありません。

だから、動き出さなくちゃ、・・・そう思ってしまうのですね。

そして、それは自分が今持っている役割をしっかりと見据えた上でなくちゃ意味がないようにも感じるので、ホントは焦ったって仕方ないよな、とも思うのです。

2011年6月6日月曜日

ロスタイム

昨日行われたサッカーナビスコ杯、ベガルタ仙台と柏レイソルとの試合で、ベガルタ仙台がロスタイムによる劇的な勝利を挙げたとのニュースが流れていました。リーグ戦でも未だ負け無し、すごいことですね。それに引き換え、楽天は・・・。


ロスタイムというと、サッカーやラグビーなんかで使われている用語です。試合中の選手交代や負傷により空費してしまった時間分を、相手チームと公平を期すために最後に追加するものです。これは"loss of time"からとった和製英語のようですから、海外では使用されていません。現在は、日本もサッカー中継などでは、既に呼称は「アディッショナルタイム」に統一されているようです。

日本語だとロスタイムは「失われた時間」、アディッショナルタイムは「追加された時間」となるのですが、受ける印象がちょっと違いますね。失うと追加ですから、まるで逆の意味を持っています。ネガとポジの関係のようにも思えます。そして、個人的には、ロスタイムの方は相手だけではなく、両者に対しての時間のように感じます。相手との公正を期すため、いわゆる合理性だけではない部分を感じます。

よくロスタイムにはドラマチックな何かが起こると言われますが、実際はほとんど変わらずに終了してしまうものです。だから、そんなことが起きた時には一層そう思えるのでしょうね。あのドーハの悲劇のように、のちのち語り継がれるようになるわけです。

震災のその時そして今でも「失われた時間」を過ごしている人はいるのだと思います。でも、いつかその時間は取り戻せる、追加されるはずです。そして、その時には殊更にドラマめいたことも無く、当たり前の日々があるのだと思います。

それまでにしなければいけないことは、山ほどあるのでしょうが、一度に出来ることは限られているし、普段だってうまくいかない事の方が多いのですから、焦らず前を向いていけば良いのです。

生きている、それ自体がドラマなのですから。

2011年6月5日日曜日

有り難いものって・・・。

現在会期中の Northeast Photographers “relation” in Miyagiでは、菊地豊さんによる1992年に撮影された「軍艦島」の作品が展示されています。展示作品以外に、1991年に出版した全点モノクロの写真集と軍艦島の1400分の1スケールのミニチュアモデルを参考展示しています。こちらがそのものです。


ミニチュアモデルは市販のものです。これを見ているとわずか0.1平方キロメートルにも満たない作られた島が、高度成長以前に存在していることに驚きを覚えます。所狭しと建てられた工場や鉄筋のアパートメントの中で、繰り返された日々はどんなものだったものだったのかはなかなか想像が付きません。


当時の最先端の暮らしぶりと同時に当時そのままの生活が営まれていたのでしょうが、始めの内はそのギャップに驚き、便利さを覚え、率直に快適だと感じていたのでしょうね。また、島内には学校や病院、その他娯楽施設も含めあったのでしょうから、そこでひとつの都市機能が完結していたのだと思います。だから、そこで暮らすこと自体、幸せで有り難いことだったのかもしれません。

そんな便利で豊かとも思えた暮らしは、1960年から1970年以降のエネルギー変換と施策によって衰退の一途を辿るわけです。時代がそうさせたとも言えますが、さらに豊かな暮らしぶりを目指そうとする時流から外され、いつしか無人の島へとなっていきます。

おそらく、ここに住んでいた人々にとっては、とても信じられない、夢にも思わなかったことだと思います。夢のような生活だったものが現実となり、果たしてそれらがまた無に帰していくことが信じられなかったに違いありません。

本当の豊かさって何だろうとかありふれた言葉では言い表せないけど、やはり、そんな単純で一番難しいことを考えさせられます。

有り難いものって、やはり有ること自体、難しいことなのですかね。

2011年6月4日土曜日

考えがまとまらない

何やら最近は考えがまとまらない場合が多いです。何から手を付けていいのというのではなく、思い浮かぶ様々な内容に対して、あれこれ考えを巡らし、果たしてこれを実行するにはと言ったところで悩むことが多いのです。物事には順番や道筋みたいなものがあり、この段階を経たら次の段階へと進むのが常なのでしょうが、飛び級のように出来やしないかと思ってしまうのですね。


でも、そう思っていると別の自分が本当にそれでいいのとささやきます。もっと地道に一歩ずつやっていかないと足元をすくわれるよとも聞こえてきます。確かに、自分でも無理であったり無謀だと思えることは、その度に立ち止まり、もう一度考え直すわけだけど、果たしてこのまま行わずにいることが本当に正しいことなのかどうかですね。

その辺りのぼんやりとしたものが僕の周りにいくつも漂っている感じなんです。僕ひとりでは行えないことが多いし、何もこの時期にっていうことも頭に浮かぶから、ますます思いあぐねるのです。

モチベーションとか信念とかとはちょっと違うのだけど、最終的にはその部分に絡んでくるわけで、行わずして何事も前には進まないだろうとの思いも確かにあり、やはり大胆さも必要なんだとも思います。

フゥーと深く息を吐き出し、心落ち着け、考えます。

時間だけはたっぷりありますから。

でもまぁ、ああしたい、こうしたいと思える内は良いような気もするし。

とりあえずは、自分だけではなく、他の誰かの為に、が第一かな。

2011年6月3日金曜日

メール

僕に来る電話やメールはそれほど多くはありません。特に平日の営業時間中はあまりないので、お客さんのいない時はいつも奥でパソコンの前に座って、あれこれと作業をしています。日に何百通も入ってくるメールを取捨選択しながら、必要に応じて絶え間なく返事を送っていた以前の頃に比較すると、いたってのんびりとしたものです。


メールが来るのは大抵は夕方以降、深夜に近い頃の方が多いので、その度に確認はしていますが、返事は翌日落ち着いてから送るようにしています。以前は来るたびにその時に返事をしなくちゃと思って、実際そうしていたのですが、最近はちょっと落ち着いてからゆっくり考えて送るようにしています。もちろん以前だって、考えずに送っていたわけではありませんが、受け取ったその時って少しだけ高揚しているので、気分で返事してしまうことがあるからです。

その時に見た感覚と翌日もう一度見た時の感覚ってちょっと違うことの方が多いのです。特に作品や展示に関わる内容については、いろいろと調べたり、じっくりと考えなければならないことがありますからね。送ってからすぐに訂正するのも面倒ですし、一旦書いたものは現実として自分がそう思ったものですから、もし、それで不信感を抱かれたとしても仕方ないところです。

でも、時々ですが、こりゃすぐに返事しなくっちゃと感じるメールってあるもので、大抵は作品とかの話ではありません。スゴイ感覚的な話ですが、メールの内容から何でもいいから返事が欲しいと言っている時ですね。その時は僕もその時に感じるままに送ってしまいます、たぶん良くないことだとは思いますが・・・。

だからといって、深夜の時間帯のメールが迷惑かといえばそうではなく、むしろ有り難いなと思うのです。結局のところ、そこに繋がりがある以上、ちょっと大げさだけど、あぁ、まだやっていけるかなと実感出来るからです。

僕はとても単純な人間だと、自分では思っています。物事はとても複雑でさまざまな経緯をもって最終的な部分へと向かうわけですが、結果としてすごくシンプルで、分かりやすい形へいくべきだと考え、実際そのようにしたいと思っています。

さて、何通かメールの返事をしなくっちゃ。

2011年6月2日木曜日

トライアル

今日はこれから午前中に出かけてこようかと思っています。また、雨が降り出しそうな気配なのですが、展示に関わることでちょっとやっておきたいことがあるので、気持ちが変わらない内にその資材調達に動こうかと。


今開催している Northeast PhotographersやSha-gakuにしても、こうなったらいいよなと、ある程度の到達点のようなものを想像しながら、企画として考えているのですが、大抵はそこまではいかず、それでもある程度の成果と結果を受け、次はどうしよう、これをした方が良かったかとあれこれと頭を悩ますわけです。

今も時間にまかせていろいろと思い浮かんでは消え、また思い直して引っ張り上げたりということを頭の中でしているのですが、具体的に形として見てみないと分からない部分もあり、実際自分の手でトライアルのようなことをしなければなりません。

そう、やはり、実際してみないと分からないことはあるわけで、それが面白さや難しさでもあって、ないがしろには出来ないのです。やや面倒で、何でこんなことしてるのと自問自答しながらも、いくらかの楽しみも感じながら、結果が出るのを待っているような感じです。うまくいかなかったり、こんなはずじゃなかったと失望することも間々あり、楽しいばかりではありませんが、これも自分の考えが充分ではなかったと素直にその感覚を受け入れるようにしています。

自分が楽しいと思えなければ、人がそう感じるはずはないですからね。でも、全ての人に受け入れられるかといえば不可能なことなので、結局は自分の思いの方が強く作用して、事を起こしてしまうようです。何の為のトライアルなのか・・・と思ったりもしますが、でもそれすらしなかったら、ただ好きなものを闇雲にしていることになってしまいますから、必要なことなのです。

さて、現在募集中のSha-gaku vol.3ですが、まだまだ参加される方が少ない状況です。是非とも、発表、展示するプロセスの楽しさと作品制作としての写真への取り組みがいかに楽しいものかを感じて欲しいのです。

今そこにある自身の作品たちは、早く陽の目を見たいと願っているかもしれません。

写真は誰にでも撮れるものだからといって、いつでもそして誰にでも発表出来るものではありません。いずれはと考えている方は、トライアルのつもりで参加されてはいかがでしょう。きっと、何かが見えてくるし、変わってくると思います。



漫然と日々を過ごしていても何も変わらない・・・、誰もが分かっていることですから。








2011年6月1日水曜日

比較

それにしても寒いですね。今日から6月、いわゆる衣替えになるのですが、とてもそんな気にはなれません。普段から身なりには無頓着なので、暖かくなり上着を脱ぎ出すと、ますます、これでお客さんと接してもいいのと言われるかもしれませんが、それでも早くシャツ1枚でも過ごせるくらいになって欲しいのです。


空に向かって、そう言ったところで始まらないので、ついもっと寒かった頃を思い出し、いやぁ、それでもだいぶ暖かくなったよねと習慣的に比較してしまいます。僕はこの習慣的ってところを、時折怖く感じます。比較すること自体決して間違った考えではないのだけれど、それが単に慰めや言い訳のようなものになっていて、何となく現在を肯定してしまっていないかという点です。

人も世の中も変化することを常としています。環境や心境といった部分が、今はこれで止むなしと思わせることも致し方ないところではあります。でも、個人的には、昔は良かったよねとか今はこれが常識だからと思い、ただ比較だけをしてなんら疑問を抱かないようになってしまったら、そこで終わってしまうのではと思うのです。

だから、いつも今していることについても、疑問を持ち続け、出来るだけ固定した考えを持たないようにしているつもりです。もちろん、自分として変えられない部分はあるわけだから、それ以外のものについては謙虚に受け止めようとしているわけです。

でも、それって、素直では無い僕にとってはなかなか難しいことではあります。自分自身に対して疑問を持つことですからね。そして、ひいては、生き方そのものに関わってくるかもしれませんから。

それにしたって、相手や世の中を羨んだり、蔑んだり、自分自身を納得させる為だけにいろいろと比較したって何も変わらないことだけは確かだから、考え続けていくしかないのです。