2011年6月25日土曜日

道楽

道楽


昔からいい意味では使われることのない言葉です。僕も充分それに値することをしているようなものかもしれないけど、楽しいことばかりではないから、全てが当てはまっているとは言えないと、言い訳のようなことを時々考えています。

一方、道究、そんな言葉はありませんが、よく聞く道を究めるというと、とてもストイックでえらいことをしているような感じがします。同じ道でも、楽しむと究めるでは、その印象に大きな違いがあるわけです。

じゃあ、何が違うのかというと、単純にそこから生み出されるもの、考えといった有形、無形に捉われず、向いているベクトルが違うのです。いずれも、個人に関わることで、他人がどうこう出来る、指図することではありませんが、前者は自己にだけ向かっているのに対して、後者は表面的にはそう見えたとしても、そこから他へと影響を与え、共感の対象となります。

もちろん後者の方がいいに決まっています。エゴからは何も生まれませんから。

それでも、時々、最初はどれも道楽だったのではないかと思うことがあります。その道に興味を持ち、次第にそれが楽しさになり、夢中になっていく過程から始まるものだし、そこには非常にパーソナルな部分がなければなりません。

人からあれこれ言われ、ああしろ、こうしろと指図されている内は、そこに楽しさは見出せないものだし、そんな道を歩むことに疑問を持つはずです。だから、道楽は究めることへの第一歩だと思うわけです。先ずは、自分にとって楽しめることかどうかですね。

そうして、その楽しさや奥深さといったものを伝えようとする行為というか、思いでもいいわけだけど、そこに意味を見出せたなら、方向が変わってくるのかもしれません。

それにはやはり行動が伴わなければならないし、自分に問い、世に問う必要があるのだと思います。

さて、これを読んでくださっている皆さんの中には、写真に興味を抱き、楽しみを見出している方もいらっしゃると思いますが、道楽のままで終わらせたいと思いますか。

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