2011年9月2日金曜日

作り手としての無垢な部分

台風12号がゆっくりと北上し、仙台でも雨が降っています。どうやら、2,3日はこんな調子のですから、自然に任せるしかないようです。


明日、Ust配信を行う予定ですので、雨で来られない方はそちらを見ていただきたいと思います。少しでも興味が湧いたなら、是非実際に見て欲しいですね。映像やweb上で伝わることは、実際のほんの一部だと考えていて、個人的には情報でしかないと感じています。

ここでこうして書いていることにしても、稚拙な文章力である為に、本来の意図とは違うもしくはまるで伝わらないことが多くあることを理解しています。言葉は非常に強いものだとの認識はあるものの、その使い方でいかようにも解釈されます。その辺が、とても怖いところでもあり、無意識に意識的に選んで使っている内に、書けば書くほど本来の意図とは違った所へ行ってしまうものです。

Sha-gaku vol.3に展示されている作品にも、それぞれに参加者の意図や考えがあります。いわゆるテーマと言われているものです。それらを写真作品、展示構成そのもので伝えられれば、それだけで良いわけで、その他の情報は無意味なものとさえ言えます。

下手な小細工やたくらみは、本来の意図とかけ離れたものを見る側に与えてしまう恐れさえあるものです。だから、見る側に真っ直ぐに入りこみ、感覚だけではなく理解され、伝わることが理想になります。

それでも、その理想はある程度の知名度、背景や作品個々の力のようなものがないことには、達成出来ないものでもあります。名も知れぬ作品にその良さを感じたとしても、そこに含まれている作家の意図を充分に理解することは非常に難しいという現実があるわけです。

その為、タイトルやキャプション、略歴といった情報が付加されるケースが多いのです。もちろん、それらを一切排除して発表することは可能ですし、実際そういうケースもあるわけで、無いからといって全く伝わらないかと言えば、そうではありません。不特定多数の人たちに見せるのですから、発表する者は自分の感覚や考えがこの展示でどれほど伝わるかどうかを考えていると思われがちですが、そうとも限りません。

発表や表現が世の中に対しての問いかけとして捉えると、その反応は無作為で無分別で決まったものでなくて良いのですから、いかに伝えるかということよりも、いかに自分を表現出来るかということの方が重要になってきます。この辺りは作家の持ちうるエゴとも繋がってくる部分ではあります。

個人的には、表現されたものの中にどれほど作り手としての無垢な部分(自分自身であったり、考えや思い)が見えてくるかがとても重要なことだと思っています。それらが、捉われ方や伝わり方といったものに直接影響を及ぼすものとさえ考えています。

何故なら、表現は作り手そのものの生き方、生き様に寄り添うように現れてくるものだからです。

もし、それらが多くの共感を生むものであれば、もはやそれ以外のものは余分なものと言っても良いのです。



○Ustream配信 “Works in Sha-gaku vol.3”

9月3日(土) 14:00-16:00頃

チャンネル:http://www.ustream.tv/channel/works-in-sha-gaku-vol-3


○Sha-gaku vol.3

8月20日(土)~9月18日(日)

13:00-19:00 月曜日休み

http://kalos-gallery.com/exhibition/next_exhibition.html


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